俺がいなくなったら 4

 私は、井口家のリビングにいた。夕飯時らしい、温かそうな料理のにおいが漂う中、テーブルを挟んで向かい側には、颯と才治さんが座っている。

 爽太は、二階の部屋にいた。ちょっと落ち着きたいと話していて、綾乃と一緒にいる。

「事故のこと、大変だったな」

 颯は、私を労ってくる。

「煉瓦珈琲で舟入さんが働き始めたときから、ひょっとしたらと思っていたんだ。事故と関係があるんじゃないかって」

「気にかけていたんですか? 私のこと」

 颯が煉瓦珈琲によく通ってくれるのも、神社の作法を教えてくれたのも、何かと優しくしてくれたのも、ようやく合点がいった。

 案じていたのだ。私が颯と同じように、三年前に事故で親を失った人かもしれないから。

「でも、まさか本当にそうだったなんて。今さらかもしれないけど、大変だったな」

「私は、大丈夫です。引き取ってくれたのは優しい人でしたから。ところで、あの写真」

 私は、リビングの隅に目をやる。棚の上に大事そうに飾られているのは、二枚の写真。一枚は男の人が、もう一枚には女性と、剣道着姿で、今よりさらに幼い爽太が写っている。持っている竹刀袋には、あの鹿島神宮の朱色のお守りもついていた。

「写っているのは、お父さんとお母さんですね」

「ああ。父さんのほうは、爽太が物心つく前に病気で。母さんが、一人で俺と爽太を育ててくれた。俺を九州の強豪と言われる高校にも入れてくれたし、爽太の稽古の送り迎えもしていた。俺たちのすること、何でも応援してくれる人だった」

「颯もですが、爽太は毎日あの写真に挨拶するんですよ。家を出るときと、帰るときに必ず」

 才治が教えてくれる。

「大好きだったんですね」

 私には、写真に微笑みかける爽太の姿が見える気がした。

「大好きだったから、ですかね。この家での爽太はしっかりしていますよ。私たちの言いつけをよく聞くし、家事も手伝うし、わがままも言わない。しっかりし過ぎているくらいです。亡くなった母が心配しないように、あの子なりに頑張ってきたんでしょうね」

 爽太がこの場にいないのをいいことに、才治は懐かしそうに教えてくる。

 剣道が強くて、大胆不敵な爽太。あの明るい笑顔の裏では、母親を失った寂しさを抱えてきたはずだ。

「……でも、まさかあいつが、剣道をやめると言い出すなんて」

 颯は下を向く。

「事故があってから、じいさんは爽太に剣道をやめさせて、勉強に専念させるよう言ってきていたんだ。そのたびに、俺は突っぱねてきた。爽太だって、剣道はやめないってずっと言い続けていたのに」

「わかります。爽太はあんなに剣道、楽しそうにやっていましたから」

「楽しいだけでやっているんじゃない。思い入れも強い」

 颯は私をまっすぐに見つめる。

「舟入さん、俺と爽太があの体育館に向かうのに、どうして高須さんの車に乗らないか聞いただろう」

「ええ」

 そのほうが移動は楽なのにと思ったから。

「車に乗れないんだ、爽太は。乗ろうとすると、事故を思い出して震えが止まらなくなる。バスの後ろのほうなら乗れるけど、それでも、最初はつらそうにしていた」

 二人が必ずバスの最後尾席に座っていたのは、そんな理由か。

「あの子は、聞かなかったんですよ」

 才治さんが言葉を継いだ。

「怪我が治って、この家で暮らし始めたとたんに、剣道は続ける、この家から通える剣道クラブを探してくれ、稽古場には歩いてでも行く、ってね。あの子が私たちに言ったわがままなんて、それくらいです。幸い、私は高須さんと知り合いでして、爽太の事情については配慮すると約束してくださいました」

「事故があったのは、剣道の稽古に向かっていたときのことなのに」

 颯はつぶやく。

 三年前の事故があったのは、夕暮れ時だ。学校が終わって家に帰って、身支度して稽古場に向かう時間帯。

「それでもやめなかったなんて」

「たぶん、理由は母さんだろうな。応援されたのを忘れられないらしい」

 颯は、そう言って棚の上の、母と幼い爽太が写った写真を見つめる。

 優しい人たちに囲まれて、爽太は剣道に打ち込んだ。今ではたくさんの友達にも恵まれている。

 だったら、だとしたら……

「爽太は、剣道をやめたいとか、この家を離れたいとか、思ってないはずですよ」

 私は思っていることを、そのまま話した。

 颯は顔を上げる。

「爽太は俺の説得も聞かなかったのにか?」

「はい、でも、さっきの爽太、全然嬉しそうじゃなかった。あんなに頑ななのは、きっと理由があるはずです」

 足音が聞こえてきた。二階から、二人分だ。

 やがてリビングに、爽太が姿を現した。後ろには綾乃さんも一緒だ。

「爽太、もう平気なのか?」

 才治さんが尋ねる。

「うん、あかりの話を聞いたときはびっくりしたけど、もう大丈夫だよ」

 さっきの無表情はそのままに、爽太は口を開く。

「なあ爽太、どうして剣道をやめるんだ? お前、まだはっきりと答えてないだろ」

 颯が、弟に尋ねる。

「……あかりもいるし、話しておこうかな。迷惑かけっぱなしだし」

 爽太は言うと、ゆっくりと颯を指さした。

「俺が剣道やめる理由は、兄さんだよ」

「俺?」

「うん」

「ちょっとそれ、おかしいよ! 颯先輩は、爽太のことをずっと考えていたんだよ。剣道のことだって応援してきたんでしょ」

「わかってるよ、あかり。でも、だからだよ」

 爽太の声も大きくなる。

「どういうことだ、爽太?」

 ようやく理由を語り始めた爽太に、颯は静かに問いかける。

「福岡であった全国大会の兄さんは、かっこよかったよ」

 私は爽太に見せられた、颯の九州の強豪校に通っていた頃の写真を思い出した。優勝旗を誇り高く掲げて、首から金メダルを提げた颯の写真は、輝いていた。

 全国の頂点に立つくらいだ。颯は子供の頃から、たくさん竹刀を振って、誰よりも努力してきたのだろう。

「強くて、たくさんの人に拍手されている兄さんに、俺、憧れていたんだ。あんな風になれたらいいなって思っていた」

「ああ、お前も俺に追いつくって、いつも意気込んでいたよな。だったらどうしてやめるんだよ。まったく理由になってないぞ」

「事故があって、兄さん、九州の高校やめただろ」

 爽太が、颯の言葉を遮る。

「まだ二年生だったし、来年も優勝候補だって騒がれていた。みんなに期待されていた。もっといけば、スポーツ推薦、だっけ、東京とかのいい大学にも行けるくらいだった。そうだろ」

 全国大会で優勝できるほどだ。大学の推薦なんていくらでももらえて、大学に入ってからも、全国的に有名な大会で活躍する。そんな未来もあったはずだ。

 だが現状で颯がいるのは、地方の公立大学。しかも、颯は剣道部に属していない。

 爽太も通う剣道クラブで、子供たちに剣道を教えているくらいだ。

「俺がこっちに戻ったのは、お前が一人にならないようにするためだ。事故のとき、お前はもっと小さくて、家族は俺だけで……」

「だから、それが理由だよ。俺がここを出ていくの」

 爽太が、颯に食ってかかる。

 詰め寄る爽太の目元には、すでに光るものがあった。

「兄さんがこっちに帰ってきてくれたのは、嬉しかったよ。九州の強豪校に行ったの、ほんとは寂しかったから。母さんに毎日、兄さんはいつ帰ってくるか聞いたくらい」

 その母親を失って、一人ぼっちになったとき、颯が戻ってきた。爽太にとって、心強かったはずだ。守ってくれる人が残されていたから。

「でも、そのせいでいろいろ歪んだ。大学に行った兄さんの友達、世界選手権で日本代表に選ばれたり、大会で優勝して表彰されたり、雑誌でインタビューされたりしてるのに。俺がびーびー泣いたりしてなかったら、兄さんだって、今ごろきっと……」

 爽太の声がかすんでくる。しゃべるだけでも、ものすごくつらそうだ。

 だが爽太は、目元を乱暴に拭うと、兄をまっすぐに睨んだ。

「もうこれ以上、俺に縛られるな!」

 爽太は感情を抑えきれなくなった。子供らしく泣きじゃくる。私がいることなど、構いもしない。

 綾乃は、そっと爽太を抱きしめた。

「もういい。よく話してくれたね」

 血のつながりなどないはずなのに、まさに母親の言葉で爽太を慰める。

「さてと、夕飯にしましょう。舟入さんも、せっかくなら食べて帰りなさい。今日はシチューよ」

「いけません。私が一方的に押しかけたのに」

「いいの。量は多めに作ったし、来客用の食器もあるから。いつも煉瓦珈琲でお世話になっているしね」

「でも爽太は……」

「いい、ここで食べていって」

 綾乃に抱えられたまま、爽太は言う。

「うちの子もこう言っているんだから、いいでしょ」

「わ、わかりました。ありがとうございます」

 私は、颯を盗み見る。恋している相手と、まさか一緒に夕飯を食べるなんて。

 今の状況だと、とても喜べないけれど。

「あと、今後の話は禁止。才治さんも颯も、それでいいわね」

 綾乃も、いい人だ。

 自分の実の子でもないのに、爽太にここまで優しくできるなんて。

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