俺がいなくなったら 3
私は呼び鈴を押す。
中から聞こえてくる話し声がやんだ。玄関の戸が開く。
現れたのは、颯だった。門の前にいる私を見て、「えっ」と声を漏らしている。
「舟入さん、どうしてこんなところに?」
「こんな遅くにごめんなさい。三刀屋さんは、まだいますか?」
祖父の名前を出されて、颯の顔が険しくなった。
「私、聞いたんです。煉瓦珈琲で、爽太が他の町に引っ越すって話」
「舟入さんは関係ない。ごめんだけど、帰って」
他人の家の問題に首を突っ込もうとしているのだ。こんな風に追い返されるのは、当然。
でも引き下がれなかった。
「私も爽太を説得します」
「あいつのことは俺が何とかする」
「見ているだけなのも嫌です」
「でも」
「いいんじゃない? 兄さん」
颯の背後から、さらにもう一人の声がした。
爽太だった。
「あかり、やっぱ来たんだね。思ったとおりだよ」
「爽太、お前は出なくていい」
颯がたしなめるが、爽太は引き下がらなかった。
「でもあかりまで巻き込んだの俺だし、店であんな話をしておいて、このまま放っておくのも変な話だろ」
そして爽太は、門まで歩いてきて、開けた。
「入ってよ」
私は言われるまま、門を通る。
「突然にあんな話を始めて、ごめんね。俺、たくさんの人に迷惑かけてばっかだ」
「そんなセリフ、爽太には似合わないよ」
遠慮なんて知らない子だったはずなのに。
「本気か? あかり」
颯は、なおも私を止めようとする。でも私は歩き続ける。
「お邪魔します」
私は家の中に入る。
初めて入る、颯の家。ほのかに檜の香りがする。
すぐに、男の人と女の人が玄関に現れた。
「あら、あなたは煉瓦珈琲の」
女の人は、井口綾乃。
「お世話になっています。こんな遅い時間にすみません。爽太のこと、聞きまして」
「お帰りください」
男の人が言った。この人は、井口才治。
煉瓦珈琲によく来てくれる夫婦。私とも顔見知りだ。
「今、うちでは大事な話をしているんです。来客を迎えるどころではありません」
私は引き下がれなかった。
「その大事な話というのは、爽太のことですよね」
「どうして、うちの子のことだと知っているんですか?」
才治が警戒を始める。
「煉瓦珈琲で、爽太と三刀屋さんの話を聞きました」
「なら、なおさらだめだ。子供が関わっていることに、部外者を入れるわけにはいかない」
「俺が入れたんだ」
爽太が、私の隣に立って言った。
「いいだろ。俺、あかりにいろいろ伝えないといけないこともあるんだから。それにもう、話は終わってるし」
「確かに、話はもう終わった。私もいったん、帰るよ」
奥から声がする。もう一人、リビングから出てきた。さっき煉瓦珈琲で爽太と一緒に話していた、三刀屋だ。
「あなたは煉瓦珈琲の。またお会いするとは」
「爽太をこの町から連れ出して、何のつもりですか?」
腰が低いからいい人かもと思ったけど、油断できない。
「勉強に専念させる、ということは、あなたも聞いているはずですが」
「この子から剣道を取り上げてですか?」
私は、隣に立つ爽太を見下ろす。
「それも、その子が決めたことです」
「剣道、すごく頑張っているんですよ」
そもそもこの人が、爽太に無理やりここを出ていくと言わせているのではないか?
ひどい話もあったものだ。住み慣れた家や仲のいい友達から引き離して、大好きなものを取り上げるなんて。
「だから、言ってるだろ」
横の爽太が、私の服の袖口を引っ張ってきた。
「俺が決めたんだって。じいさんは提案しただけで、別に無理強いとかされてないから。俺、勉強嫌いじゃないし、中学は私立のいいところ行きたいし」
「剣道クラブはどうするの? やめるって本気?」
「ちょうど彩夏、調子取り戻したみたいだから。俺がいなくなって、代わりに主将やらされることになっても大丈夫。あいつなら何とかやっていけるよ」
無責任なことを、さらりと言ってのける。「お前……」と颯が憎たらしい声を弟に向ける。
「全国大会まで目指すっていうのは?」
私は尋ねる。あんなに目を輝かせながら話していたではないか。
「空気読んで、その場のノリで話しただけ」
本当に、やめるのか。
「爽太、お前」
颯は、弟の肩を掴む。爽太は冷たい目で兄の顔を見上げていた。
「何? 今さら」
爽太は兄の次の言葉を待つ。
「……」
颯は、言葉を出せずにいた。
私が煉瓦珈琲のシフトを終えてこの家に来るまで、時間はかなりあった。颯は必死で説得したはずだ。だが、爽太には響かなかったらしい。颯だけではない。才治や、綾乃も、無言を保っている。
爽太の決意は固い。
「爽太が、ここまで決心しているんです。逆に無理やり剣道を続けさせるほうが、この子のためになりませんよね」
三刀屋さんは、淡々と続ける。
「あなたは、爽太が剣道頑張っていること、知っててこんなことをしているのですか?」
私だけが、反論を続ける。
爽太は、あんなに懸命に竹刀を振っていた。一緒に竹刀を握る友達のことを案じていた。
こうも簡単に剣道を捨てようとしているとは、とても信じられない。
「もちろん、私はこの子の祖父です。家は別々ですが、日々どう暮らしているかくらいは知っているつもりです。そもそも、なぜあなたが止めようとするのですか? 他人の家に押し入って、関係ないことに首を突っ込んで」
謙虚な姿勢を続けていた三刀屋の目に、敵対の色が浮かんだ。今すぐ出ていってほしい、と言いそうだ。
「関係なくありません」
私は言葉にした。そして、一呼吸おく。
「……舟入慶と、舟入さとみ」
私が言ったのは、今この家で繰り広げられている会話とは、まったく関係のない名前。
だがここにいる人たち、少なくとも三刀屋は、二人の名前を知っているはずだ。
「この二人の名前、ご存じですか?」
「ということはまさか、あなたは」
三刀屋が、動揺した。
三刀屋だけではない。綾乃も驚いたように口に手を当てて、才治は、そんな妻をかばうように肩を抱いていた。
「はい、私は舟入あかり、三年前の事故で亡くなった二人の娘です。お会いするのは、初めてですね」
私の両親の名前を出しただけで、この反応だ。
確信した。
三年前、酒気帯びで暴走したトラックの事故で私の両親と一緒に亡くなったのは、颯や爽太の母親。そして、重傷を負いながらも生き延びた子供とは、爽太のことだ。
苗字が三刀屋ではなくて井口なのは、養子縁組でもしたからだろう。
「私、あのときはただの高校生だったんですけど、事故の関係者です。だから爽太のことを聞いて、放っておくなんてできません」
爽太がこの町を出ていくことに、あの事故は少なからず関係しているはずだ。だとしたら、見ているだけだとつらい。
学校でいじめを目撃しておきながら、見て見ぬふりをするように。
「だから、何だと言うのですか?」
三刀屋は、再び落ち着いた様子で言った。
「三年前の事故でつらい気持ちをなさったのはわかります。それでも、この件は私たちのことで、あなたは部外者であることに変わりはない。深入りされても、逆に爽太を傷つけてしまいかねません。それを承知で、関わるのですか?」
「でも……」
「もうやめなよ、あかり」
爽太が、私を遮った。
「こんなところで言い争っても何にもならないよ」
三刀屋は、爽太が決めたことを尊重しているだけ。
爽太の言うとおり、三刀屋と言い争ったところで無意味。
「私は、ここで失礼します。春まで時間があるし、詳しいことはまた後日話そう。転校や引っ越しの準備と、役所の手続きについては、また今度」
三刀屋はそのまま靴を履いた。
この場にいる五人は何も言えないまま、三刀屋さんが出ていくのを見送る。
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