祖父 3

 いつものバスの、いつもの最後尾席に俺たちは腰かけた。リュックを後ろの荷物置き場に置く。

 落ち着いたところで、バスが走り出した。

「はー、今日はもっと疲れた」

 彩夏が調子を取り戻したせいで、俺もいつもよりたくさん動いた。手足を動かすのもおっくうだ。

「寝てていいんだよ。休んでて」

 今日のあかり、褒めてくるだけでなくてやけに優しい。

「わかってる。おやすみ」

 俺は竹刀袋を抱えたまま目を閉じた。

 いつもなら、そのまま心地よく眠りに落ちる。颯がどうせ起こしてくれる、と安心して。

 でも、今日は違った。眠れない。颯やあかりを騙していると思うと、緊張してそれどころではなかった。

 俺は寝たふりをしながら、颯とあかりの会話を盗み聞く。

「今日もすまなかったな。わざわざ来てもらって」

 颯は、あかりに対して腰が低い。このバスに乗るたびに、毎回こんなセリフを吐いている。

「ですから、大丈夫です。新しい友達もできましたし」

 あかりにも、また同じことを言われている。もっと堂々としろ、兄さん。俺があかりに近づけてやっているんだぞ。

「剣道、見ていて楽しかったですよ」

「その、嫌になったりとか、ないのか?」

 年越しの大祓であかりを振ったのだ。颯は話しづらそうだった。

「おこがましいですけど、先輩、本当に剣道が好きなんですね。特に教えるのが。本当に楽しそうでしたよ」

「俺が好きというよりは、みんな熱心だから。ついてくるのを見ていると、何とかして上達させたいって思うんだ。寝ているこいつも含めて」

 突然に俺のことを言われて、体の中が冷たくなる。

 これからのことを颯に打ち明けるときのことが、怖い。

「逆に、年越しの大祓のときは、ごめんなさい。事情も知らないのに、私、いきなりあんなことを言って」

 謝るなあかり。悪いことしてないだろ。

「別に、迷惑だなんて思ってないから。こっちだって、弟のせいで舟入さんをいろいろ振りまわしたから」

 俺のせいにされても困る。

「私も、迷惑なんかじゃありません。稽古を見学できてよかった」

 本当に、あかりってお人よしなんだな。すぐ謝るし、最初の頃はあんなに嫌がっていた稽古の見学を、今では楽しかったって言ってのけているし。

 あかりの声を聞きながら、俺はあの日の夜を思う。

 年越しの大祓のことだ。

 よく楠神社に参拝する大学の後輩――あかりが、年越しの大祓にも来る。その話は颯から聞いていた。煉瓦珈琲でアルバイトをしていて、コーヒーが好きで、やたらと神社のことに興味がある女の人。叔母が煉瓦珈琲の常連で、俺もたまにあの店に連れていかれたので、あかりの名前と顔は前々から知っていた。

 そしてあかりは、颯のことを気にしている。颯も同じ。

 薄々とでもわかっていた。楠神社で二人が話すところは、俺は何度も見ている。家でも、颯があかりのことをよく話題にしていた。

 きっと、年越しの大祓の夜、あかりは颯に何か伝えるのだろう。

 俺はそう思っていた。あかりはやたらと、颯に年越しの大祓の日程に変更がないか確認していたという。まるで俺が、剣道の大事な試合のスケジュールを何度も確認するみたいに。

 だが当日、あかりは楠神社に現れなかった。

 煉瓦珈琲の店長の妻が赤ちゃんを産みそうになって、あかりは一緒に病院に向かった。颯も俺も、あかりが大きなお腹を抱えた女の人を支えて、一緒に車に乗るところは見ている。

 本当に、あかりはお人よしだ。

 大事な予定を犠牲にして、あそこまでするなんて。

 でも、結局あかりは、楠神社に現れた。年越しの大祓が終わって、集まった人たちも帰っていく中、コートすら着ずに。

 寒そうな格好で拝殿に急ぐあかりを見て、確信した。

 ――あいつ、兄さんのこと好きなんだ。

 あかりのためだけの大祓を執り行って、少し遅めに帰宅した颯に問い詰めると、案の定、颯はあかりに告白されたことを白状した。

 好都合だ。

 俺がいなくなった後で、兄さんのことを大事にしてくれる人が現れてくれた。

 でもその兄さんは、あかりのことを振ったという。

 納得いかなかった。

 あかりのことが好きなくせに、兄さんはどこまで自分を犠牲にするつもりなのだろう。

 だから初詣の朝、俺は楠神社で告白のことを叫んでやった。

「兄さん、あかりと付き合え」

 俺は大げさに言ってやる。

「あれ? 寝言かしら」

 あかりの言うとおりだ。これは寝言。

「兄さんがあかりのこと振って、寂しそうにしてただろ。俺知ってるんだぞ」

 俺は寝言を続ける。

 本当に、あの夜の兄さんは下を向くばかりだった。

「爽太、また変なことを」

「先輩、仕方ないですよ。寝言ですから。本当にかわいい」

 かわいい言うな、と声を出したいが、ここは我慢だ。

「こいつ、これからも舟入さんを振りまわしそうだ」

「振りまわしていいですよ。彩夏ちゃんの大事な友達ですし」

 ――彩夏とも、俺はもうすぐ別れるんだけどな。

「急に弟に優しくなったな」

「稽古を見学させていただいたから、ですかね」

 二人の会話を聞いていると、安心した。じいさんにあんな電話をするのは早すぎたのではないか、と正直思っていたからだ。

 でもあかりは、彩夏と話して、悩んでいることを聞いてくれた。剣道クラブのことなんて自分とは関係ないと断ってもよかったのに。颯のしていることを応援しているからとしか、思えない。

 兄さんだって、最初みたいに嫌そうにあかりと話していない。あかりと普通に話せている。

 これからも二人は、仲良くやっていけるだろう。

 ――俺がいなくなった後も。

 そうしているうちに、バスは自宅の最寄りの停留所に着いた。

「爽太、もうすぐ着くぞ。起きろ」

肩を叩かれて、俺は目を開ける。

「おはよう、爽太」

 あかりが声をかけてくる。

「ああ、おはよ」

 俺は荷物置きのリュックを持ち上げ、背負う。いつもと同じ。二人の会話を盗み聞きしたことは内緒だ。

 バスが停留所に着いた。ドアが開き、俺たちは降車する。

「じゃあな」

 俺はあかりに手を振った。

「爽太、じゃあね」

 あかりは俺に手を振ってくる。

「舟入さん、世話になったよ」

 颯も声をかける。そのまま、あかりと颯は互いを見つめ合った。

 不自然にその状態が長く続いたけれど、俺は何も言わない。もっと素直に何か話したらいいと思うけど。

「では、失礼します」

 あかりのほうが先に視線を外して、歩き出した。俺や颯から離れていく。

「寒いから早く帰れよ」

 颯も、あかりの背中にそう声をかけて、歩き出した。自宅へと歩いていく。

 俺も、颯の隣を歩いていた。

 兄と二人きりになって、しばらく進んでいく。

「……爽太、聞いていいか?」

 颯が、小さな声で尋ねてくる。

「ん? どうしたの?」

「お前、何か嘘をついてないか?」

 俺の体を、冬の空気よりも冷たいものがよぎる。

「ど、どういうことだよ。嘘なんて」

 颯は、竹刀袋につけた鹿島神宮のお守りに触れた。

「これをいじるのは、嘘つくときだろ。バスを待っている間、これに触っていた」

 つまり、俺が偉ぶって全国大会目指しているとあかりに言ったとき。

「ちょっと汚れていたから、拭っただけだよ」

 お守りに触れたい。でも兄に握られている今では無理だ。

「隠しごとしているだろう?」

「隠してなんかない!」

 つい、声が大きくなった。兄は、静かに俺を見下ろしている。

 騙そうとしたって無駄だぞ、と言われているような気がした。

 だが颯はお守りから手を離した。

「帰ろう。今の父さんと母さんが待っている」

 そのまま歩き出す。追及があっさりと終わったことに、俺は戸惑って、遅れた。慌てて颯の背中を追う。

「あとバスの中で、お前起きていたな」

「バレた?」

「舟入さんがかわいいと言ったとき、文句言いたそうに口を動かしていた」

 あかりにもバレているかな? 

「あかりみたいなかわいい奴、そうそう付き合えないぞ。一度振っただけでももったいなすぎるって」

「お前がかわいいと言うな」

 そうしているうちに、今暮らしている家に着く。

 黒い瓦の屋根に、白壁の和風の家。三年間過ごしてきた、もはや住み慣れた家だ。窓から漏れる明かりに、稽古でしっかりと体を疲れさせた俺はほっとした。やっと暖かい場所で休める。お腹も空いた。

 颯とそろって門を通り抜け、玄関に入る。

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