第6章 祖父 1

 俺、井口爽太いのくちそうたは、体育館の建物をいったん出る。

 あかりに頭を撫でまわされたせいで、変な声を出してしまった。恥ずかしくて、顔がまだ熱い。

 なんて余計なことをするんだあかりは。

 まあいい。あかりのおかげで、彩夏さやかもいろいろと吹っ切れたみたいだ。

 彩夏が何に悩んでいたのか、あかりとどんな話をしていたのかが気になるけど。

 剣道クラブで最も心配していたことが、何とか解決しそうだ。

 ――だから、ここに思い残すことはない、はず。

 俺はスマホの画面をつけた。電話のアプリを開いて、『じいさん』と表記された連絡先をタップする。そしてスマホを耳に押し当てた。

 呼び出し音が鳴る。すぐに相手は出た。

「もしもし?」

『爽太か。元気にしているか?』

 落ち着いた、でも堅苦しい、義友や学校の先生たちよりもはるか年上の人の声。

 俺や兄さんの祖父。

「うん、今稽古終わって、今から帰るところ」

 稽古、という言葉を使うとき、緊張してくる。

 この人に剣道がらみの言葉を使うのが、今はとてつもなく怖い。

『前も、稽古の最中で電話に出ないことがあったな。剣道は忙しいみたいだな』

 何となく、この人に怒られているような気がする。今はそれどころではないだろう、と。

 だってこの人は、俺が剣道するのを反対しているから。

「大会があるんだ。みんな頑張っているんだし」

 学校の先生に叱られて、必死で言い訳しているような気分だ。

『そうか』

「いけないことかな?」

『どうしてそう、後ろめたそうにする?』

「だって剣道をやめるように言ったの、じいさんでしょ」

 ――爽太には、剣道をやめてもらう。そしてこっちの家に移って、中学受験のための勉強に専念してもらいたい。

 そのように言ってきたのが、今の電話の相手だ。もちろん、兄さんは反対したし、今の保護者の叔父さんや叔母さんも、そこまでする必要はないと言ってくれたけど。

『どっちみち次の大会が、最後だろう』

「そうだね」

 次の大会をもって、俺は剣道クラブをやめることにしている。

『それで用事は? 次の大会で最後にするということは、あの話を?』

「うん。じいさんの言うとおり、そっちの家に移って、受験、頑張るよ」

 言った瞬間、体に痺れが走る。これでもう、引き返すことができなくなった。

 スマホの向こうで、じいさんが微笑むのを感じた。

『よく決めてくれた。勉強に集中できるように、私も応援するし、生活でも困らないようにするよ』

「ありがとう。あの、詳しいことはこっち来て話せない?」

『もちろん、お前の今の家に行けばいいのか?』

「いいや、あそこだとまだ話しづらいよ。みんな引き留めようとして、絶対に話が進まないから。だから、近くのカフェで話せないかな? そこでこれからの段取りを決めようよ」

『カフェ?』

煉瓦珈琲レンガコーヒーっていう店。学校が終わって家に帰ったら、すぐに向かうから。水曜日の四時くらいでどう? 後で場所とかメールする」

『わかった。そこに向かうようにする』

「うん。じゃあ」

『寒いから、温かくして帰るんだぞ』

 じいさんらしい優しい言葉を最後に聞いて、俺は通話を切った。

 そのまま、煉瓦珈琲のインスタグラムのリンクをメールに貼り付けると、じいさんに送った。

 これでいい。俺はスマホをリュックの中にしまった。体育館の中に戻る。

「おい爽太、まだ着替えてなかったのかよ」

 俺が剣道着姿なのを見かけた剣道クラブの友達が、声をかけてくる。とっくに私服姿に着替えていて、帰り支度を終えていた。

「ちょっと電話してたんだ。俺もすぐ帰るよ」

 俺は急いで、更衣室に向かう。

 リュックの中で、スマホが震えた。じいさんが、メールに返信したのだろう。

 後で家に帰って、颯の目につかないところで確認しよう。

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