竹刀の音 2
私がアリーナの観覧席に座って、しばらくすると、着替えを終えた爽太と彩夏が入ってきた。剣道着に袴を身に着け、さらには防具もまとった爽太は、ひとことでいえば、様になっていた。私服姿のときよりも落ち着いていて、まさに剣士という感じで、頼りになりそうな雰囲気がある。
でも、爽太はアリーナの片隅で集まっている子供たちのグループへと駆け寄った。すぐに談笑を始める。
――みんなと仲いいんだ。
年の離れた私に付き合って、などと言ったり、煉瓦珈琲に一人で現れたりする行動力の持ち主だ。しかも明るい。友達付き合いが得意なのもわかる。
剣道と聞いて、私は勝手にお堅いものを想像していたけれど、爽太を囲む子供たちも意外とみんなのびのびとしている。
一方、一緒にアリーナに入った彩夏は、空いている場所で竹刀を振り始めた。竹刀の空を切る音が、観覧席のここまで響いてくる。細い腕には似合わないほど、力強い。
――空いた時間にきちんと稽古をするあたり、あの子も熱心だな。
さらに時間がたつ。時計を見ると、爽太が言っていた稽古の開始時間に近づいていた。
「みんな、そろそろ整列! 先生が来るから」
彩夏が、声を上げる。こういうとき、みんなを取り仕切るのは彼女の仕事なのだろう。ロビーでも思ったとおり、彼女の声は広い体育館内でもよく響く。そして剣道クラブの男の子たちも、やはり彼女には逆らえないらしい。はじかれたように、整列した。
義友と、そして颯が入ってくる。
颯は、剣道着に防具をまとっていた。
その姿は、凛としていた。歩く動作に無駄がなく、邪魔をしてはいけない雰囲気が漂っている。まっすぐに前を見つめるその目は、遠くからでも迷いを感じない。
――かっこいいな。
颯は子供たちが並ぶ列の奥に、義友は、子供たちの列の真ん中の前方に正座する。
みんなそろって座礼して、稽古が始まった。
準備運動をして、軽めのトレーニングをして、みんなで声を合わせて竹刀を振って、そこまでは、私が想像していたとおりだ。みんな動きが統一されていて、素振りなんて、ほとんど遅れている子がいないのにびっくりした。
まごついたりする子がいても、颯がとっさに横に来て竹刀の振り方を教えたりしている。ああやって遅れそうな子がいたらフォローするのが颯の役目なのだろう。
そうしているうちに、試合形式の稽古が始まった。
面をかぶり、竹刀を構えて向き合っているのは、爽太と彩夏だ。
義友が「始めっ!」と声を響かせると、空気が変わった。
彩夏が、爽太と一気に間合いを詰める。竹刀を振り上げて面を狙った。
爽太も、ほぼ呼吸の合った動きで受け止める。
体育館に、乾いた轟音がこだました。
竹刀の交わる音を直で聞いたのは、私にとって初めてだ。
こんなに大きいなんて。
しかも音の源は、まだ私の人生の三分の二も生きていない子供。
私が見つめる前で、二人は果敢に竹刀を繰り出し、攻撃を防いでいく。
威圧とばかりに二人が掛け声を上げる。肌が震えるほどの大声に、私は最初だけびっくりしたが、しだいに聞き入るようになる。
――なんだ、爽太って、やっぱり真剣なところもあるんだ。
さんざん私を振りまわしてきて、ふざけた男の子だと思った。
でも目の前の爽太は、彩夏を相手に懸命に竹刀を振っている。彩夏も、そんな爽太の攻撃をしっかりと受けている。
爽太も、それから彩夏も、剣道好きなんだな。
爽太にしてやられる形でこんな場所に来てしまったけれど、悪くない。
そのとき……
爽太が、彩夏の胴を打った。小気味いい音が響く。
「一本! 胴あり!」
義友の声が、体育館に響いた。
あっという間に、二時間の稽古が終わった。
私はまわりの保護者たちに一礼すると、先に観覧席を出ていく。階段を下りていると、
「おい彩夏、今日の稽古もどうしたんだよ」
爽太の声が、ロビーに響いていた。
私は階段の途中で、足を止める。
爽太の声が、深刻そうだった。
「俺が仕掛けた胴打ち、前の彩夏なら受け止めていたよな。どうして打たれるんだよ。今日のお前、集中しきれてなかったぞ」
爽太の他人を責める声、初めてだ。
このままだと、けんかになるかも。
私は、急いで階段を降りていく。
ロビーで、爽太と彩夏を見つけた。他の子供たちが見ている中だけれど、爽太は構う様子もなく彩夏と向き合っている。
「最近のお前、どうしたんだよ」
爽太に問い詰められて、彩夏は下を向いていた。
「ちょっと技がうまく決まらないだけ」
「彩夏らしくないぞ」
私は二人の間に割って入った。
「ストップストップ。爽太、そんな追い詰めるような言い方はしなくてもいいでしょ」
私は爽太を止めようとする。だが、
「素人が口出ししないでくれない?」
爽太が、きつく私を睨んでくる。
爽太にこんな目をされて、私は口をつぐむ。
そして爽太は、再び彩夏に目を向ける。
「今日も試合稽古で俺から一本取れなかったよな」
確かにさっきの彩夏は、爽太に押され気味だった。途中まで互角に竹刀を交えていたけれど、爽太に隙を突かれて一本を取られる、ということが何度もあった。
「今日だけじゃない。ここのところずっとそう。なあ彩夏、お前今までこんなんじゃなかっただろ。体調よくないのか?」
「そんなことない」
彩夏はぼそっと答える。
「怪我を隠してるとか? どっか痛いの」
「違う」
爽太に対するときの彩夏の声は、細い。稽古が始まる前は、すごい声で剣道クラブの男の子たちを追い払っていたのに。
「じゃあどうしたんだよ。お前、変だぞ」
「もういいそこまで! 調子が悪いときなんて誰にでもあるんだし、しょうがないでしょ。堂場さんだっけ、稽古お疲れさま。早く着替えましょ」
私は彩夏の手を掴んで、更衣室へと向かう。
「ちょっと、あかり?」
爽太の声が追いかけてくるが、止まらない。
このまま見守っていても、険悪な空気になるだけだ。
私は、彩夏を連れて更衣室に入る。ここならば、爽太は追いかけてこられない。
「ふう、爽太ったら、あんな厳しいところがあるなんて」
あれは真剣すぎだ。
真剣すぎて、友達を追い詰めてしまっている。
「あ、あの……」
彩夏の声で、私は我に返った。視線を下ろす。
自分の胸元にある、戸惑うように見上げる瞳に、私は自分が犯した失態にようやく気づく。
「あ、ご、ごめんね。いきなり手を引っ張ったりして」
いくらなんでもやりすぎた。初対面なのにあんなことして、怖がらせただろうか。
「い、いえ、大丈夫、ですけど」
二人きりの広い更衣室が居心地悪い。
どうしよう、これじゃ私、完全に不審者だ。
早くなんとかしないと。
「えっと、私、舟入あかりといいます。自己紹介、まだだったね」
とりあえず名前を名乗る。
「お名前、爽太から聞いた」
彩夏は、きょとんとしたまま言う。
そうだった!
「大学の課題で見学させてもらったの。地域の子供たちの課外活動についてで」
「それ、颯兄さんが言ってたけど」
そうだった! 落ち着け私!
「お、おかげさまでいいレポートが書けそう」
「……」
彩夏のきょとんとした視線が怖い。
これ以上何を言えば、私は不審者にならずに済むのだ!
そもそも、大学の課題なんていう理由すら嘘だし。
「……あの、舟入さんって、煉瓦珈琲で働いてる?」
「え? ああ、そうだけど」
答えたとたん、彩夏の目が輝き始めた。
「やっぱり。どこかで見たことある気がしてたけど、あの店の人だったんだ」
あれ? なんか彩夏、すごく嬉しそう。
「煉瓦珈琲、来たことあるの?」
彩夏は、「ううん」と首を横に振った。
「でも毎日お店の前を通るんだ。お店、すっごくおしゃれだし、いつか行ってみたいな」
そういえば、煉瓦珈琲の前の通りは近くの小学校の通学路だ。朝と午後の時間帯はたくさんの子供たちが店の前を通る。彩夏もその一人らしい。
「お店の制服もかわいいし」
「へへ、そうなんだ」
白い七分丈のシャツに、赤いカフェエプロン。煉瓦珈琲の制服は私も気に入っているから、褒められて嬉しい。
「あの店で仕事してるってことは、舟入さんはコーヒー好きなの?」
「うん」
「コーヒーって、どんな味?」
「子供にはまだ早いかな。でもミルク入れたら、堂場さんもおいしく飲めると思うよ。うちのカフェオレは看板メニューのひとつなんだ」
「へー、すごいな、あんなおしゃれな店で働いてるなんて」
なんだかあっけなく、仲良くなるのに成功してしまった。
まさか爽太は、彩夏が煉瓦珈琲に憧れているのを知っていて、それで私にあの話を吹っ掛けたのではないか。
爽太がもっと恐ろしくなる。爽太の手の平の上で転がされている気分だ。
「そう言う堂場さんだって、剣道着似合ってるよ。私、剣道を生で見るの初めてだったから、すごかった」
言ったとたん、彩夏の目が曇った。
「すごくないよ。爽太にやられて、あんなことまで言われたし」
やっぱり、何か抱えているみたい。
といっても、いきなり問いただしても口を閉ざすだけだろう。さっきの爽太もそうだったし。
何度か話して、ちょっとずつ聞いていくほうがいいかもしれない。
「稽古の見学、一回だけだと大学の課題、こなせそうにないな。私、剣道について何も知らないし」
「え?」
「ここの稽古、もう何度か見学してもいい? もちろん、高須さんには許可をもらうし、邪魔にならないようにだけど」
私の問いかけに、彩夏は大きくうなずいた。
「うん、私も煉瓦珈琲のこと、もっと聞きたいな」
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