年越しの大祓 2

 私が大人になってから、日がたつのが少し早くなったような気がする。

 まして、クリスマスからの五日など、あっという間だった。

 今日は十二月三十日。前々から待ちわびていた、年越しの大祓の日である。

 私は八か月ほど暮らしてすっかりと馴染んだ自分の部屋で、髪型を整えたりして身支度した。鞄を開けて、中を確認する。和紙の人形ひとがた初穂料はつほりょうを入れた紙袋は、きちんと入っていた。

 外に出る準備が整ったところで、私は部屋の片隅に向かった。そこには私の胸くらいの高さの本棚があって、ぎっちりと文庫本が詰め込まれたその上には、花が生けられた一輪挿しと、一組の男女の写真が置かれていた。男の人の真っ黒な瞳と、女の人の栗色の髪の毛が、私とそっくりだ。

「じゃあ行ってきます。父さん母さん」

 私はその写真に言うと、玄関に向かった。かけているベージュのコートを羽織って、靴を履いて、外に出る。寒いけれど、午後の日差しがぽかぽか暖かかった。


 年越しの大祓が執り行われるのは、午後七時。

 まだ時間がある。

 私は煉瓦珈琲にいた。

「今日はどうもありがとう。年末のお掃除、手伝ってくれて」

 私を労ってくれた女の人は、黒崎春奈くろさきはるな。テーブル席に腰かけ、大きなお腹をさすっている。

 煉瓦珈琲を経営する秦之介の妻だ。

「いいんです。私、ちょうど年末はこっちにいることにしていたので」

 私は春奈の向かいに腰かけ、一休みしていた。

 午後のちょっと早い時間に出た私は、煉瓦珈琲で時間を潰すのも兼ねて清掃を手伝っていた。

「でも申し訳ないわ。他のアルバイトの子は実家に帰ったり、どこかに遊びに行ったりしているのに、あかりちゃんだけ」

 私にとって、この人に下の名前で呼ばれるのが好きだった。

「あかりちゃんの叔父さんと叔母さん、帰ってこいとか言わないの?」

「気にしないでください。叔母さん、今の実家に帰るのは年が明けてからでもいいって言ってますから。どっちみち、今夜はお隣の神社で予定がありますし」

 それで、ふふ、と春奈は笑う。

「そうだったわね。今日は楠神社の年越しの大祓。あかりちゃんも行くのよね」

「はい」

「今どき珍しい。若い子が御朱印を集めたりっていうのはよく聞くけど」

「夏越しの大祓、井口先輩に教えてもらってから、また行きたいって思っていたんです」

 神社の行事に加わったのは、子供の頃に親に連れられた七五三以来だった。でも高須が祝詞を唱える声や、紙幣の擦れる音が落ち着いた。

 さらには、白衣に袴をまとった颯に案内されて、颯神社の茅の輪をくぐったときのことは、よく覚えている。

 細身だがたくましい背中に続いて歩いていると、和やかな気分になった。もっとこの背中の後に続いて歩いていられたら、なんて想像をしたものだ。

 たぶん私はそのときから、颯のことが好きになったのだと思う。

「楽しみなものね。伝統行事を大事にするのはいいことだわ」

 春奈はそう言って、赤ちゃんがいる大きなお腹をさすった。

「はい」

 それに、春奈にも話していないことがある。

 年越しの大祓の後で、私は颯に告白する。

 この一か月で、考えていたことだ。夏祭りのときと違って、大祓にはさほど多くの人は集まらないし、せっかくなら特別な日にしてしまいたい。

「まかない、準備できたよ」

 厨房のほうから、秦之介が近づいてきた。手に持っている大きめのトレーには、三食分のカルボナーラが載せられている。

「掃除を手伝ってくれたお礼。大祓まで時間あるし、ゆっくり食べていったらいい」

「ありがとうございます! 私、ちょうどお腹すいていたんです」

 テーブルに並べられるカルボナーラを見ながら、私は歓喜にかられる。あのチーズ入りのクリームの味が大好きなのだ。

「私は、後で食べようかしら」

「春奈さん、どうしたんですか? 遠慮して」

 せっかくの料理、温かいうちに食べたほうがいいのではないか。

「私、今はお腹すいてないから。大丈夫。後でちゃんと食べる」

 春奈は、またお腹に手を当てた。

 さっきから春奈は、お腹を気にしているみたいだ。

「本当に大丈夫なんですか?」

 私の問いかけに、春奈はうなずいてみせる。だが、また下を向いた。

「痛むんですか?」

 春奈は、うなずきもしない。

「おい、ひょっとして」

 秦之介も、妻の様子のおかしさに気づいた。

 私も、春奈の身に起きようとしていることをやっと理解した。

 赤ちゃんが、生まれようとしている?

 春奈は、出産の予定は年が明けてからと聞いていたのに。

「さっきから、気になっていたんだけど」

 春奈の声は細かった。痛みに耐えるので精一杯とばかりに。

「我慢しないでください! 早く病院に行きますよ。私もついていきますから」

「でも、大祓に間に合わなくなるわ」

 私は、一瞬だけ言葉に詰まった。

 春奈がかかっている産婦人科は、隣町の大病院だ。車で何十分もかかる距離にある。

 時計を見た。時刻は午後六時をまわったところだ。

 病院の近くには駅があるから電車で戻れるにしても、一緒に行って、入院の手続きをしていれば、年越しの大祓には到底、間に合わない。

「いいんです。春奈さんにもしものことがあったら大変ですし、ついていきます」

「私だけで十分だよ」

「店長は車の運転があるんでしょう。車、店に寄せてください。私その間に病院に連絡しますから」

 そして私は、店の事務室に向かう。あそこの壁面に、春奈の通う産婦人科の連絡先が貼られていた。

「もう、仕方がないな。連絡頼む」

 秦之介も折れて、外に向かった。

 私は事務室で病院の連絡先を確認して、スマホで電話をかけた。病院にこの手の電話をするのは初めてだ。だが出てきた看護師に、自分は黒崎春奈の知り合いであること、本人が急に痛がっていて、産気づいていることを伝えると、丁寧に対応してくれた。入院の準備を整えるので、すぐ病院に来ることと、その間に本人の背中をさすったりしてあげること、異変があったら躊躇せずに病院に連絡してほしいことを告げてきた。

 私は通話を終えると、スマホを机の上に置いた。壁にかけてある春奈のコートとマフラーを手に取った。そして、春奈のところに戻ってくる。

「病院は受け入れてくれるそうですよ。これ着て、温かくしてください」

「え、ええ」

 私は春奈にコートを着させて、マフラーを彼女の首に巻いた。

 ちょうど、店の外から車の音が聞こえた。秦之介が、車を店のすぐ前に寄せたのだ。

「肩、貸しますよ」

「大丈夫、歩くくらいなら」

 春奈は、言ったとおり自力で立ち上がった。

 私はいつでも春奈を支えられるようにそばにいながら、店の外へと向かう。

 秦之介は車から降りると、後部座席のドアを開ける。

 私は店の鍵を閉めると、秦之介に渡した。

「病院への連絡ありがとう。舟入さんはこれくらいでいいから。大事な用事があるんだし」

 秦之介も、春奈と同じことを言ってきた。

 私は、道路の向こうの楠神社を見る。まだ年越しの大祓まで時間があるが、神社に入っていく人がいた。

 あそこで颯は、義友を手伝って大祓の最後の準備を進めているのだろう。

 私は颯に、さんざん行くと言って、しつこいくらい何度も日程を確認した。

 来ないとすれば、颯は心配するだろう。

 だが車に乗り込んだ春奈は、苦しそうに息をしている。

「いえ、私も病院に行きます」

 私は思い切った。

「でも」

「病院の人に、背中をさすってくださいって言われたんです。それに運転中に何かあったら、誰が病院に電話するんですか」

 私は、そのまま車に乗り込んだ。春奈の隣に座り、シートベルトを締める。

「本当にいいのか?」

 運転席に戻った秦之介が、最後とばかりに確認してくる。

「いいんです」

 年越しの大祓に行くことも、その後で颯に告白することも、ただの私個人の事情だ。

 そんなことを優先している場合じゃない。

「それに、春奈さんにもしものことがあったら、お腹の赤ちゃんがかわいそうですよ」

 母親がいないというのは、やっぱり寂しいと思う。

「もうあかりちゃんったら、大げさにしないの。ただの出産だから」

 苦しい中なのに、春奈は心配性な娘をあやすように笑ってくる。

「すまない」

 秦之介は言って、車を出した。

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