5
ベティに悪いと思わないわけではなかったが、オリバーはキッチンの中を歩き回った。歩きながら時折自分の手首を見て、巻き付けたアレスの首輪がちゃんとあるかを確かめた。犬ほどの嗅覚や聴覚があるわけではないため、匂いを辿るという芸当はできなかったが、目的を忘れないための指標は必要だった。
農場の夫妻から聞いた話を思い浮かべる。ダイナーは犬の肉を出すと噂になっていたとしても、公言しているわけではない。だから肉の確保と処理は身内で行なっているのではないか。そう考えたトーマスは一度面と向かって店長に聞いてみたが、一笑に付されて終わりだったという。
公にしていないからには作業場をわけず、店の奥に犬を解体する屠殺場じみた一角があるはずだ。もしも犬が生きているのであれば店の中の檻にでも入れられているだろう。だから中を探せれば早いが、誰も入ったことがないと言っているから難しいと思われる。
トーマスが齎した情報はおおよそこうだった。オリバーは全てを鵜呑みにしてはいなかったが、中には入れるかもしれないと閃き、やってきた。
実際に、入れた。ホールとキッチンを隔てる扉の向こうから、賑やかな話し声が聞こえていた。オリバーは耳を澄ます。店長の声を聞き分けて、客と談笑していると確かめてから、キッチンの更に奥へと続く扉に目をやった。
ノブを捻ったが施錠されていた。壊すわけにもいかず、オリバーは少し悩むが、一旦引いた。足音が聞こえたからでもあった。保存庫の影にさっと身を隠し、気配を消すために息を殺した。実家で親が殴り合いを始めた時のように自分の存在を殺した。
入ってきたのはベティだった。真っ直ぐにオリバーのいるところまで歩いていき、座り込むオリバーの前で膝を折ってしゃがんだ。とても嬉しそうだった。
「昼時を過ぎたから、もう落ち着いたわ。パパもお客さんと話し込んでるし……」
「そうか、わかった」
「ね、話って何? 良い話? 悪い話?」
「わからない、多分どっちでもない」
オリバーの返事にベティは少し眉を寄せる。
「全然わからないわ、私に会いにきてくれたわけじゃないってことくらいしか」
「それは……いや、でもおれとまともに話してくれるのはベティくらいしかいないから、話を聞いて欲しいんだ」
オリバーの真剣な声に、ベティは満更でもない顔になる。膝に肘を置いて頬杖をつきつつ、どうしたの、と囁くように促した。オリバーは物事を整理してから口を開いた。
「犬を探してる。黒い、大きい犬。外れのボーリング場に、首輪だけ落ちてた。どこかで見掛けなかったか? どこでもいい。……一応言っておくと、この店で使ったのかって、聞いてるわけじゃない」
ベティは最後の言葉には目を見開いたが、怒りはせずどちらかと言えば悲しそうにした。みんなの言う通りだしねと自嘲気味に呟いてから、じっとしているオリバーに少しだけ顔を寄せた。
「……生ゴミの臭いがしない、お腹を空かせてるわけでもない。誰があなたの世話をしたのか気になるけれど、それは情報交換で教えてもらおうかな」
「ああ……そんなのが、代わりになるんなら」
「なるのよ、オリバー。私はその黒い犬を見たことがある、多分だけど同じ犬だと思う。そしてそれはうちで取り扱ったからって意味じゃない……私たちは確かに犬を使うことがあるけれど、別のところから買い付けた肉ばかりよ。この店で解体したりはしてないの」
聞きたいことが三つほど浮かんだが、オリバーは最重要の一つだけをベティに聞いた。黒い犬はいつどこで見たのか。オリバーの問いにベティは微笑み、耳元に口を寄せて答えを教えた。
それはほとんど全ての答えでもあった。オリバーは何度か頷き、なるほどな、と呟いてから、立ち上がった。
「ありがとう、ベティ。行ってくる」
「ちょっと待って」
出て行きかけたオリバーを引き止めて、ベティは聞いた。あなたの世話をしたのはどこの誰なの。オリバーは逡巡したが、素直に答えることにした。
「何かあるとすぐに撃つ、クレイジーなサイコ野郎」
オリバーは出て行った。その背中を見送ったベティは、サイコ野郎、とぽかんとしながら繰り返した。
昼時を過ぎ、夕暮れが近付いていた。本当はロベルトの元へ帰らなければ撃たれるが、それでも構わないとオリバーは思った。
陽が落ち、闇がじわじわ生まれる道なき道を、オリバーは走った。朝にも昼にも走った道だった。どこかで犬が鳴き始め、その遠吠えは町を取り囲む森の中をぐるぐる回った。オリバーは熱い喉から息を吐き絞り、力一杯吸った。顎を上げて同時に吠えた。それは反響して、遠吠えの数は一匹二匹と増えていった。おれは犬なのだとオリバーは思った、望まれるならそうなってやろうと本気で思った。
森を抜け、開けた場所に出た。遠くには家の灯りが見えていた。まだ完全な夜には遠かったが、辺りは充分暗かった。
小麦がひっそり生えていた。牛の鳴き声は今はない。作業員は帰ったらしく、家の灯り以外に人の気配は微塵もない。偽りだろうなとオリバーはもう知っている。ロベルトは多分ずっとこの時を待っていたのだ。
小麦の間を進み、家へと近付いた。ノックをすればややあって返事があり、オリバーはにわかに緊張した。扉を開けたのはミラで、オリバーの姿を認めると驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。取り繕うまでの間に動揺があったことをオリバーは見逃さなかった。
「どうしたの、オリバー? 忘れ物はなかったと思うのだけれど……」
「黒い犬、ここにいるだろ」
ミラは口を閉じた。その間にオリバーは、ベティに聞いた情報を話した。
ベティはオリバーに言った。黒い犬を見たのはあのシャブミルクの農場。そして私たちが犬の肉を買い付けているのは、他でもないあの農場からだと。
「どうしたんだい?」
奥から顔を出したトーマスは、二人の様子を見て怪訝そうに眉を顰めた。洗っていたらしく、手をタオルで拭いていた。微かな血の匂いにオリバーは表情を歪め、同じ問いを口にした。黒い犬がいるはずだ。ここで犬の肉を作っていると、他でもないダイナーの人間から聞いてきた。
オリバーが言葉を全て言い終わる前に銃声が響いた。銃弾はオリバーの肩をかすめて、背後の小麦の中へと埋没した。ミラはいつの間にかトーマスの後ろにいた。小型の拳銃を手にしたトーマスからは、馴染みやすい空気が消えていた。
「まさか、ダイナーに入れるとは思わなかった」
トーマスは静かに言い、再び撃った。オリバーは撃たれる前に勘だけで横へと飛んだが、体勢を崩してしまい地面に四つん這いになっていた。外は完璧に夜だった。家から漏れるオレンジの灯りを背にしたトーマスの表情は、影に塗り潰されてオリバーにはうまく読み取れなかった。
引き金に指を掛けながら、トーマスは首を振る。オリバーを好ましく、或いは自身の子供のように感じたのは本当だと、闇の中で嘆息した。
「お前の言う通り、犬を捌いて売っているのは私達だよ。でも町の人間は勿論、稀にやってくる私達のような外の人間にも知られたくはない。許可もとっていないし、非合法だからね。何頭も捌くから覚えちゃいないが、黒い犬もいただろうさ。残念だよ、オリバー、大切な誰かのために嗅ぎ回った不運を嘆いてくれ……さようなら」
どごん、と大きな銃声が響き渡った。トーマスの持つ小型のピストルではなく、明らかに大きな、ライフル型の音だった。トーマスがよろめき、腹を抑えながら叫んだ。目を閉じることなく見つめていたオリバーは、トーマスの腹に着弾する瞬間を目撃していた。
「やあこんばんは、ゲテモノ処理場の管理人ご夫妻。僕の犬に何か用かな?」
穏やかな声が聞こえた。オリバーは距離をとって立ち上がりながら、森と闇の広がる方向に目を向けた。
小麦の間の隘路に、幽霊のように人の輪郭が浮かんだ。やっとかよ、とオリバーは思った。
「お役目ご苦労様、オリバー。君は立派な
闇から現れたロベルトはオリバーを褒めながら、逃げ出そうとしたミラの足を一発撃った。高い悲鳴が上がったがロベルトは涼しい顔だった。もう終わりだ。オリバーは家の壁に寄りかかり、大人だったらここは煙草でも吸い始める場面だろうなと、他人事のように考えた。
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