3
盗んだ財布の中身はロベルトが改めた。オリバーを小屋の外に待機させたまま中に入り、まずカード類を確認した。現金は抜き取らず、名前と住所と勤務先をスマートフォンにメモした。それから小屋を出た。
大人しく腹這いのまま待っていたオリバーは、目の前に落とされた財布を視線で追った。よしの合図を出されてから、素早く拾った。
「オリバー、明日その財布を本人に返して来て」
「いいけど、いつもダイナーにいるわけじゃ」
「町から少し行ったところに農場があるだろう、そこに家があるらしい」
ロベルトはスマートフォンを見せ、先程抜いたばかりの個人情報をオリバーに渡した。オリバーは当然スマートフォンという、高価な商品は持っていない。そのため必死で覚え、数度目にした記憶のある農場の姿と結びつけ、脳内で反芻してから頷いた。
「
「ああ……」
「さあ、入って。明日のためにしっかり食べて、しっかり寝るんだ。期待してるよ」
本当に期待しているかどうかわからないとオリバーは思う。それでも頷き、ロベルトの後を追って部屋の中に入った。渡されたサンドイッチとミネストローネは大変に美味く、このスープは何だとつい聞いた。ロベルトは少し驚いた後にミネストローネだと教えて、美味いのであれば食べればいいと自分のスープも与え、がっついて食べる年下の男の頭をわしわしと撫でた。
オリバーは犬よりも犬だった。そして人間らしい人間だった。本能だとロベルトは思う。運命と呼ばれる能無し思想を受け入れた上で生にしがみつくオリバーを、ロベルトは案外気に入ってはいる。
だがそれだけの話だ。
翌朝オリバーは床で丸まって寝ているところを叩き起こされた。正確には横腹を蹴って起こされ、何度揺すっても起きないからだ蹴っても起きなければ撃っていたとロベルトに朝から苦情を寄越された。
六時前だった。空は白んでいるが肌寒く、早朝特有の冴えた匂いが森の中に立ちこめていた。オリバーは小屋を出て、まず伸びをした。軽く体を捻って全身の筋肉をほぐし、すっと息を止めて辺りの様子を窺った。
ほとんどがしんとした森の中、早起きの鳥が少し離れた場所で小さく囀っている。それ以外の気配は特にない。あるのは背後からの殺気のみだった。
「行ってらっしゃい、オリバー」
腕組みをしながら微笑むロベルトは、目の中だけは常に笑っていなかった。今日は遅れるなと、成果を出してこいと、野垂れ死にすれば殺すと、言外に告げていた。オリバーは頷き、ポケットの財布を確かめてから歩き出した。鳥が羽ばたきどこかへ消えた。朝靄の向こうには深山が聳え立っている。
農場は一時間も歩けばどうにか見えた。作業用の無骨な建物と、それなりに大きな住居があって、その手前に作物が生い茂っていた。小麦だと、オリバーでも一応はわかった。背を低くして葉の影に隠れつつ、そろそろと作物の周りを進んでいった。
人の姿はない。とは言え住み込みの作業員が二人と、農業を営む夫婦が一組の、小規模に属される農場だ。遊び程度に牛を二頭飼っているが、どちらも搾乳用の雌牛で、一度取り扱ったダイナー曰く「シャブの臭いより臭い」らしい。オリバーは金がないので飲む機会もなかったが、農場の夫婦と作業員くらいしか口にしないミルクだ。
オリバーは住居付近で足を止め、身を屈めたまま様子を見た。とても静かだった。小麦の隙間から、糞尿の強い臭いがふっと過ぎる。続けて、牛の鳴き声が聞こえて来た。空が随分明るくなっている。風にそよいだ小麦たちの葉擦れの音が、オリバーの耳に心地良い。一瞬このままどこかへ逃げようかとも思う。しかし逃げず、立ち上がる。ロベルトのミネストローネがうまかったから立ち上がる。
家に近付き、扉を叩いた。中から間延びした男性の声が響き、次いでがちゃりと開け放たれる。顔を出した男は小太りで、表情に覇気がない。二日酔いだと据えたアルコール臭でわかり、オリバーは一歩だけ後ろへ下がった。
「あー……オリバー、だったか? よく広場でボコられてる……」
不審そうに聞いた男に、オリバーは頷いてみせる。
「そう。でもあれは、殴らせると金かメシを貰えるから、そうしてる」
「はは、んなバカな……」
「バカでも何でもいい、それよりも」
オリバーはポケットから財布を出し、男に見せた。疲労感に溢れていた男の顔にはみるみる驚愕が広がった。
「落ちてたから、届けに来た。住所見るのに、ちょっとだけ開いたけど、金はとってねえよ。確認してくれ」
ほとんど奪うように財布をとった男は、急いで財布の中を確認した。その間に女が一人、男の後ろからやってきた。男の妻だ。オリバーは礼儀を知らないため黙って女の顔を見つめたが、女は笑みを作って朝の挨拶を口にした。その声を掻き消すように男が叫んだ。
「た、確かに中身は無事だ……ああジーザス、よく届けてくれたよオリバー!」
男は感激したように捲し立て、オリバーの手を強く握った。
「入ってくれ! 朝飯は食ったか? 今日くらいは殴られにいかず、ここで食っていくといい! ほらお前、トーストを焼いてやってくれ!」
「いや、おれは……」
「いいのよオリバー、入ってちょうだい」
オリバーは遠慮がちに頷き、促されるまま家の中に踏み入った。中はほどほどに整頓されており、カーテンやソファーの色合いが統一された、こだわりのある雰囲気だった。窓辺には透明の花瓶が置かれ、真新しい花が生けられている。地下に続く階段は奥にあった。オリバーはそこまでを一瞥で覚え、背中を押されるまま家の奥へ入り込んだ。
妻のミラはパンを焼きにキッチンへ行き、旦那のトーマスはオリバーを広い食卓へと案内した。トーマスは席についたオリバーに何度も感謝を述べ、あの排他的なクソ町で落としたんなら無事な訳はないと思っていたと、排他的なクソ町出身のオリバーに遠慮なく話した。オリバーは頷いた。単純に全文同意の頷きだったが、トーマスには無口ながら思慮深い行動に見えた。オリバーお前はいい大人になれると、トーマスは心の底から言った。
すげえなと、オリバーはひっそり思う。財布を抜いたところから全て、ロベルトの立てたプラン通りに動いているからだ。
この夫妻は別の場所から、農業のために越してきた。オリバーは知っていたし、ロベルトに共有していた。町は余所者に厳しい。ロベルト自身も体験したため、町に比較的余所者の居住者はいないのかと聞いたのだ。農場の夫婦がそれにあたるがそこに住んでいるかは知らないとオリバーは言った。なら道筋は考えるからどうにか懐柔しろと、ロベルトはプランを一気に立てた。
そんなに上手くいくか? オリバーが聞くとロベルトは、
「いかせろ、オリバー。犬なんだから、可愛がられればいいんだよ」
そう言ってから、にやりと音がしそうな悪どい笑みを浮かべたのだった。ロベルトが初めて見せた本当の笑顔だとオリバーは思った。
いつもの目だけ冷ややかな微笑みよりも綺麗だと、続けて思った。
「さあオリバー、たくさん食べてちょうだい!」
ミラの声に引き戻され、オリバーはパッと顔を向けた。夫婦が並んで座っており、どちらもニコニコと笑顔だった。年齢は五十代だろうか。確か子供はいなかった。ならおれを子供のように思い、家にあげた部分もあるのかもしれない。オリバーは考えつつ、礼を言ってコーンスープに手をつけた。コーンの甘味が広がり、問題なく美味いスープだった。そう答えると喜ばれた。トーストもサラダもオリバーは残さず平らげて、夫婦はすっかり上機嫌になっていた。
一息つき、オリバーは自身を鼓舞した。役に立て、オリバー。本物代わりの偽の犬。死にたくなけりゃ失敗するな。
「あの」
オリバーが前を向くと、夫婦は言葉を止めて不思議そうにした。オリバーは息を吐き、吸って、
「……ダイナーで犬の肉出してるって、本当なのか?」
ロベルトに言っていないことを二人に聞いた。
隣の小屋から牛の鳴き声が聞こえてきて、オリバーは口を閉じ、夫婦は顔を見合わせてから、頷いた。
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