第2話 死体の脱構築
時計の針が動き出したのは初めての講義からおよそ三ヶ月後の七月初頭のことだった。その日私は目前に迫った春セメスターの最終課題を完成させる為、人生で十度に足らない程しか行ったことがない図書館に足を踏み入れた。初めて入る大学図書館は、社会学部・経済学部・法学部が同居する高層ビル棟ー正式名称は二号館と言うーの一階から地下三階まで四階層ある。(なお、地下三階は閉架図書の保管室である)
一階の貸し出しカウンター脇にある図書検索端末で必要な資料の名前を入れると、不運なことにそれは随分と顧みられていない古いものの様で、地下二階の電動書架ーこれは階の一番端にあり、電波も入らなければ人が立ち入ることさえ稀な場所であるーにしかないと出て来た。
私はため息をつきながらリュックサックを背負うと、地下二階へと降りて目指す資料を探す旅へと出かけた。
電動書架は高さにして四メートル近くある巨大なもので、打ちっぱなしのコンクリート壁が寒々とした灰色の姿をどこまでも広げている場所にある。壁際についた小さなボタンを押すと油の不足した歯車がギリギリと回る音がして、耳障りな警告音と共に書架が動いて開く。そうして目的の本を取ってまたボタンを押すと、今度は別の書架が動く時に押し出される形で閉じる。
その為近くの張り紙には、絶対にボタンを押さずに書架の間に入ってはならないと目立つ警告が書かれていた。普通は中に人がいると動かない安全装置が付いているものかも知れないが、この大学にそんな物は期待できなかった。
私は薄暗く、不気味な排気音だけが響き続ける電動書架の前を歩き続け、目的の場所を見つけるとボタンを押した。ビーッという音の後で、歯車が書架を運んで道を開く。そうして中に入ると、私は目的の書名を呟きながら本棚を見た。
「饗宴は…確か、プラトン全集の第五巻…」
私は棚の一番上に、古びたプラトン全集の青緑色の背表紙を認めると、手近にあった階段付きの台車を引っ張って来て登り、書名を確認した。足元がギシギシと鳴る恐怖の中、目的の巻を探す。しかし、不運にもそれは貸出されている様で、金文字の「パルメニデス」と「アルキビアデスⅠ」の間には空洞だけがあった。
「無いのかよ。よりによってこれだけが…」
舌打ちをして台を降りて片付けようと手をかける。すると、すぐ隣の書架から、聞き覚えのあるあの傍若無人な甲高い声が聞こえて来た。
「何故だ!なんでよりによって『神学大全』の真ん中がごっそり抜けてるんだ!これじゃ研究が進まない!」
げっ、と思った時点で私は引き返すべきだっただろう。そうすれば、課題の完成は多少遠のいたとしても、あの奇怪な事件に巻き込まれることは決して無かっただろうから。しかし、私は魔が刺したのだろうか、つい隣の棚を覗き込んでしまった。周りの迷惑など考えることも無く、不機嫌に不満を垂れる若い女性の声の正体は、やはり彼女であった。
「語教授…」
「んん?…お前は、ええと、前髪、いや違うな…そうだ、最前列にいるいい度胸の野郎だな。その強盗犯じみたツラだけはよく覚えている」
「(何言ってるんですか)」
私は思わずそう言いそうになったが、私を蛇の様にギロリと睨む眼に押され、本能的に飲み込んでしまった。教授は暑気と湿気の渦巻く図書館地下に長くいたからだろうか、汗ばんだ顔と首筋を何度もハンカチで拭っていた。いつも来ていた背広は小学生がジャンパーでやる様に、袖を帯び代わりに腰に結びつけている。
「指名手配」
「へ?俺のことですか?」
「お前の他に誰がいる」
「は、はぁ…」
「ちょっと手伝え。あそこの一番上にある資料が欲しい」
「台を持って来ましょうか」
「違う。お前が代わりに取れ。私では背が届かない」
不満げに頬を膨らませて教授は言った。その時に私はようやく、目の前の女性の身長が思ったよりもずっと低かったことを認識した。普段は椅子に座っていることや、威嚇する様な雰囲気を纏っているが故に気が付きにくかったが、彼女の体躯はかなり貧相で、精々が百六十センチかそれを割る位しか無い様に見えた。痩せた体つきからして、体重も五十キロあるかないかだろう。とはいえ、台の最上段まで登って届かない身長ではないはずだった。
「(そうか、お得意の学生いびりだな)」
初めての講義以来、私はこの語風子という女性を殊更苦手としていた。彼女は一度の講義で必ず何かの聞くに耐えない悪口を披露する。或いは学生を指名して揶揄ったり、酷い時は癇癪を爆発させて怒鳴ることもあった。無論私達も責め立てられるままではなく、少なからぬ学生が屈服させようと影に日向に動き、中には暴力を使ってその尊厳を蹂躙しようと企んだ者もいたが、彼らはそのやり方に相応しい強烈な報いを受けた。
どの様な報復を受けたのか、ここでは詳しく述べようとは思わないが、幾人かは大学に二度と姿を表すことは無かった。唯一確実なことは、私達がどれだけ対抗策を練って実行したところで、彼女に打撃は一切なく、傍若無人さを改めることもあり得ないだろうということだけだった。
「分かりました。その代わり、台は押さえておいてくださいね」
「任せろ」
私が台に登って一番上の資料を取り、そのまま振り返って教授に渡そうとする。すると、下からすぐに甲高い抗議の声が飛んだ。
「馬鹿者!お前の分際で私を見下ろすな!」
「あっ、済みません!」
そこに怒りを覚えるのか、という困惑を心に秘めて私は台を降り、改めて資料を渡した。教授はご満悦でそれを受け取ると、
「ところで、お前がわざわざこんな所に来るとは、どういう理由だ?そもそもこの大学の連中で図書館を使う奴なんか居ないのに」
「…哲学史の最終課題の為です。典拠が必要でして…」
「ほおん。益々驚きだ。剽窃でなく真面目に書くところもそうだが、その通り、研究には典拠がいるのだ。私の様に余程の大御所でない限りな」
「と言いますと?」
「私の場合、私が書いたことがそのまま典拠になる」
恐らくは教授なりのジョークだったのだろうが、全く面白くはなかった。かと言ってそれを悟られるとまた機嫌を悪くされる。そう考えた私は一瞬愛想笑いを浮かべて、懐のタオルで顔を拭くのにかこつけて表情を隠した。
「まあいい、お前は中々見込みのある奴だ。今回の礼の代わりに、その課題作りを手伝ってやる。大方資料が足りないんだろう、私の研究室から貸してやる」
「え、あ、いやそんなお世話になるわけには…」
「構わん構わん。次いでに部屋の片付けにも付き合って貰おう。バイト代もくれてやるから」
勝手に話をまとめると、教授は着いて来いと手招きをする。もはや私に否やは無かった。分かりました、と頷いて台を片付け、彼女の一歩後に続いた。
そうして私達は研究室まで行こう、と林立する電動書架の中に一歩を踏み出した。すると、途端に教授が歩みを止め、すんすんと鼻を動かした。私が訝しげにそれを見ていることに気がつくと、こちらに顔を向け直して言った。
「お前は気が付かないか。この妙な匂いに」
その表情は深刻な冷たさに染まっていて、照れ隠しの怒りでは決して無い。それに押された私は自分も周囲の匂いに注目する。
「…確かに、何か嫌な匂いがします。その、何かが腐った様な…」
「恐らく、あっちの書架だな」
「あ、確かに。一つだけ開いてるのがありますね」
「少し見に行こう」
教授は大股で一つだけ開いた棚に向かって歩いた。自動電源のセンサーが反応し、バチバチと音を立てて少し遅れて蛍光灯を点灯させていく。その後を私は必死で付いて行った。
「教授、突然何を」
「…見てみろ革命家君。なんとも恐ろしいものがあるぞ」
蒼白になった教授の顔、その視線の先にあった物を目に入れた瞬間、私も同じ顔色になった。
そこに倒れていたのは、いわば「遺体」と「死体」の中間の様な物だった。古びた函に入った「ヘーゲル全集」の一冊を握りしめた上半身が書架の真ん中から反対側に向かって仰向けに倒れていて、こちら側に投げ出された下半身は完全に原型を無くすほどに腐敗していた。半液状化した肉の真ん中に、白色を呈する骨と、神経繊維の残渣がのぞいている。私が吐瀉物を口いっぱいに溜めて座り込むと、その揺れで死体の側に止まっていた階段の台が動いた。
「お前、おい、お前!」
「は、はい!」
「早くお前のやるべきことをやらないか!非常識なのは私だけでいい、お前は常識的なことをやれ!」
「は、はい!」
私は現場を教授に任せると、よろよろと立ち上がって地下の入り口からまろび出た。そして、急いで最寄りの警備室に到着すると、すぐに警察に連絡する様に頼んだ。つっかえつっかえの説明に警備員は困惑気味だったが、私のただならぬ様子であるのを察すると、すぐに一人が私の後に続いて現場に駆けつけた。
「教授!」
「語先生、あなたも…」
「警察が来るまでここを封鎖せにゃならん。私も協力させて貰おうか」
警備員は書架の間に倒れ込む腐乱死体を見るや、額にいっぱいの脂汗を浮かべつつも連絡を入れ、応援と警察への通報を頼んだ。その間教授は一人で興味深そうに死体と現場とを観察し、早くも謎解きを始めようとしていた。彼女の目は剽悍な獣の様にカッと見開かれて、理性の軛が早くも吹き飛びかけていることを如実に示していた。私は初めて、彼女の中に住む知性の狼の姿を見出したのである。
不気味な音色で鐘が鳴り響き、事件の始まりを告げた。
同じ頃、大学の外は酷く騒がしくなっていた。通報を受けた警察が何台もパトカーを出して大学の各門を封鎖し、本格的な捜査に乗り出したからだ。程なくして彼らは退去して私達のいる図書館地下へとやって来て、大声で手帳を示しながら叫んだ。
「そこを動かないで下さい、警察です!」
「お、来たな」
「あなた方が第一発見者ですね。捜査一課の神田警部補です」
「語風子。文学部哲学科教授だ。こちらは…ええと、まあとりあえず『クソオタク』とでも呼んでやってくれ」
「やめて下さい。文学部一年生の田崎です」
「宜しく。早速ですが、お二人には今から詳しく事情をお伺いしたいのです。必要があればご自宅に連絡も入れられますが」
「私は一人暮らしだからな。不要だ」
「自分も大丈夫です」
「ありがとうございます。では、一旦図書館付属の自習室までおいで下さい…」
その後の事情聴取は型通りのー尤もそれを知っていたわけではないがーもので、私は詳しい名前と身分を聞かれた後、何故図書館にいたのか、いつから居たのか、死体を発見するまで何をしていたのかを問われた。私は朧げな記憶を掘り返してそれに答えたが、図書館のデータがある程度証言を裏付けてくれた。具体的には十三時四十分の時点で私の学籍番号が入館者のリストにあったのである。
しかし、それは私の言葉の信頼性を高めるばかりではなく、ちょっと不利な立場に追い込むものでもあった。即ち、死体が発見されたのはそれから五十分後の十四時三十分であり、その間人気の殆どない地下にいた私にはアリバイが無いのである。無論警察もそのことは把握していたから、特にその時間帯についての質問は執拗を極め、私は何度も同じ内容を違う人間に説明することを強いられた。特にある刑事が放った、
「どうしてわざわざプラトンなんかをレポートの材料に選んだのかね」
という質問には失笑を禁じ得なかった。他人に強制されでもしなければ、わざわざプラトンなんかをテーマに選ぶものか。その様なやり取りを時折休憩を挟みつつ、私は夜遅くまで続けることを強いられた。尤も決して退屈はしなかった。何故なら、隣の部屋で行われているであろう教授の事情聴取から、
「何度言ってもわからんやつだな!この歳で脳みそが溶けてるのか!?」
と言ったいつも通りの怒声が何度も響いたからだ。私が廊下のベンチで休憩している時、教授の部屋から出てきた人当たりの良さそうな若い刑事が、真っ青になりながらその端っこに座ったこともあった。
私は被害を受ける刑事達には無論同情を禁じ得なかったが、その一方逆に教授に好感めいた感情も抱いた。何故なら、彼女の普段の傲岸不遜さが立場の弱い私達に対してのみ発揮され、権力の前では忽ち小物に堕ちる様な卑劣な物ではないと分かったからだ。語風子という女性はどこまでもまっすぐで、どこまでも歪んでいる。そのことが逆に良いと思った。
二十一時丁度に私は解放された。高層ビルの入り口から外に出ると、既に空は真っ暗で、キャンパス内から人の気配も消えていた。古い煉瓦造りの時計台が九時を指し、相変わらず間延びしたチャイムの音を響かせる。見慣れたはずの風景がその日はかえって新鮮で、吹き抜ける生温い風に揺れて、木の葉がざわめく音さえも細密に聞こえた。
歩いて五分の位置にある下宿に帰ろうか。そう思って私がリュックを背負い直すと、
「おい、そこの…ええと、メガネ!」
「田崎です」
「そうだったそうだった。ちょっと待ちたまえ」
嫌な人と行き合ってしまった。思わず私はそう口に出そうになった。背後に立っていたのはやはり我らが語教授で、随分と事情聴取が堪えたのか酷く疲れた顔をしていた。
「何かご用ですか」
「いや何、折角だ。タバコに付き合ってくれ」
「未成年なので」
「いいから来い。吸わんでもいいから」
教授は私の腕を掴むと、強引に近くのサークル棟に連れ込んで、屋上にある小さな喫煙所まで向かった。そこからは大学の近くに広がる飲屋街や、遥か向こうに立ち並ぶビルの明かりを見下ろすことができ、学生達の間ではロマンティックな夜景を見られる場所としてちょっとした人気があった。尤もすぐ側の喫煙所は時間を問わずいつも人で一杯で、立ち上るタバコの煙がさながら靄のように渦巻いていることから、恋人同士の夢もすぐにぼんやりと覆い隠されてしまうのだが。
教授はスペースに入ると背広の内ポケットから箱を出し、中身を一本口に咥えて器用に銀色のジッポライターでそれに火をつけた。煙を吸い込んで吐き出すその姿はどう見ても少々拗らせた女子高生の未成年喫煙だ。
「どうだったね、取調べは」
「と言いますと?」
「分からんやつだな。取り調べで何を聞かれたんだ?」
「ええと…確か、何時に図書館に来たかとか、なんでそこに居たのか、とかですかね」
「まあ、そんな物だろうな。で、何か収穫はあったかね」
「へ?収穫って」
「何、もしかしてお前、単に聞かれたことに答えただけなのか!?」
なんて出来損ないなんだ!と教授は地団駄を踏んだ。
「普通彼らの質問から事件の事情を推察するくらいできるだろうが!私とお前の情報とを合わせて謎解きに役立てようと思ったのに!」
「はぁ!?幾ら何でもそれは理不尽でしょう!?」
普段なら決してそんなことは言わなかったはずだ。しかし、その時私は長い事情聴取で酷く苛々しており、教授の理不尽な怒りによってその箍が外れてしまったのだ。私は怒りのままに吠える様にして答えた。
「じゃあ、教授は何か掴んだんですよね!?」
「当たり前だ!私を誰だと思っているんだ!」
吸い殻を投げ捨てると教授は居住まいを正し、講義をするような態度で話し始めた。
「まず被害者の名前は、新山琥太郎。文学部哲学科二年生だ。ドイツ観念論コース専攻の学生だった様だな…と言っても、この程度のことは警察に頼るまでもないことだ。大学の情報にアクセスさえできるなら。ここからが警察の情報だ。聞き出したり盗み聞いたりしたな」
「なるほど」
「まず、被害者の死亡推定時刻だ。図書館のデータを警察が調べたところ、被害者の学籍番号が十二時三十分にあった。そして、私達が彼の死体を発見したのが十四時三十分頃。つまり、彼はその二時間の間に死亡したことになる」
「そうなりますね」
「だが、そう考えると不自然なことがある。私達も見たが、彼の死体は上半身と下半身で明らかに状態が違っていただろう?そのことも奴らから聞き出した」
私は記憶からあの衝撃的な光景が現れない様に努力をしたが、それは無駄なことで、すぐに鮮明にあの電動書架の間の記憶が蘇ってしまった。しかし、教授は私のことなど御構い無しに話を続ける。
「あの死体はな、奇妙なことに下半身だけが酷く腐乱していた。警察の鑑識が言っていたから間違いない、上半身は死んだすぐ後の状態だったにも関わらず、下半身はすでに原型を無くすほどに…死因はこれから調べるらしいが、どうだ、奇妙とは思わんか」
「…」
「…そう、あの男はな能無し君。私や君と変わらない昼休みの間に図書館に入り、あの地下で何かしらの理由があって死んだ。そして、わずか二時間の間に『下半身だけ』が腐敗したのだ!」
私は目の前に獰猛な狼がいて、それが大口を開けて私に飛び掛かる光景を幻視した。教授の顔は内心の貪欲な知性の燃やす炎で熱っていて、それはやがて一つの形をとって私を飲み込んだ。気がつけば目の前にはあの事件の風景が広がっていて、下半身だけが朽ち果てた哀れな男が書物の間に横たわっていた。しかし、もはやそれは私にとって無関係な世界の不運な被害者ではなく、ぶら下がった肉の様に食欲をそそる獲物であった。
「やはり、私の見る目は間違っていなかった様だな、『田崎』くん」
真っ青な瞳に映る私の顔は、脳髄に巣食う本能が命じる狂気に歪んでいた。そして、覚めないその夢の中で、「明日研究室に来い」という悪魔の囁きに私は頷いてしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます