変人教授と哲学の犯罪計画
津田薪太郎
第1話 アリストテレスの論理学
私の人生における最も鮮やかな日々ーT…大学哲学科で過ごした四年間に渡って遭遇した無数の怪事件、その話を始めるにあたって、あの語風子教授との最悪な出会いから振り返ることに読者諸賢は異を唱えないと思う。何しろ、私が巻き込まれたあれらの思い出すのも身の毛がよだつ日々は無論のこと、その後の決定的に捻じ曲がってしまった人生において、あのフランス人形の様な風貌の教授が決定的な影響を与えていることは既に周知の事実であるからだ。優れた美貌の中に凶悪な知性の狼を飼っている彼女との初めての邂逅は、未だ学部一年生だった、あの四月の頃に遡る。
四年前の四月ー日付はいつだったか、火曜日であったことだけは間違いないー私は酷く憂鬱な面持ちで、T…大学の正門を潜った。欠如した学問的権威を物質的権威で補おうという空疎な努力、帝国大学を形だけ真似た煉瓦造りの門を潜り、行く人の心を全く知らぬまま咲き誇る桜並木の下をふらふらと酔っ払いの様な足取りで歩いた。
私はその頃から更に一月程前に受けた強かな知性的プライドへの打撃ー大学受験の失敗の衝撃から立ち直り切れていなかった。片田舎に生まれた私は、はち切れんばかりの志で胸を膨らませながら東京に受験の為にやって来た。そして、ものの見事にその尽くに玉砕した。
図々しく第一志望に据えた帝大は無論のこと、第二第三に据えた名のある私立大学も次々と不合格になった。そして、敗北の衝撃と屈辱に打ちひしがれた私は、慈悲深い親の浪人を許すと言う提案を蹴って、逃げ込む様に唯一合格したこの大学の哲学科へと転がり込んだ。この大学が、所謂「
これら無数の失敗と不手際、そして自身の知的能力に対する絶望に酷く濁った目で、私はこれから先学業を共にする同輩達を見つめていた。そしてその度に、自らが救い難いまでに堕落した社会の屑であるという幻聴が聞こえた気がして、尚のこと憂鬱は増していった。
その日は火曜日第一回の講義であることから、すべての科目はそのガイダンスで終わる。一限に入っていた哲学史概論の好々爺教授と別れた私は、次いで六号館文学部棟三階にある論理学概論の教室へと入った。数十人を収容できる大教室は既に「盛況」で、陣取ってやろうと言う腹積りだった後ろの席は金と緑とピンク色の草原と化し、強いアルコールとタバコの灰の香りが鼻をついた。
仕方なく私は俯きながら、これだけ混んでいても空いていた最前列に腰を下ろした。私の他にそこへ座ろうとする人間は無く、後方三列目と一列目の間には誰もいない二列目が大きく横たわっていた。
「(一体論理学って何をやるんだ?三段論法とかだろうか)」
まだ十八歳だった私には哲学の素養など全く無く、論理学という学問の存在すらおぼろげに知っているに過ぎなかった。シラバスはそれなりに読み込んでみたが、「語風子」なる教授が書いたそれは酷く難解で、学問の姿を明確に教えてくれるものではなかった。
座り込んで数分待つと、間延びした校歌のメロディーがスピーカーから流れ出した。講義開始の合図だ。だが、この大学だと時間通りに始まることも、終わることも殆ど無い。しかし、予想に反して教室の前扉は時間ぴったりに開いた。そして、彼女は私の運命の扉を靴音で踏みつけたのである。
「おはよう、諸君」
入って来たのは奇妙な人物であった。ひとつ一つのパーツがチグハグな、それでいて全体を見れば端正で調和の取れた姿と見える人だった。服装は細い男物のスーツパンツ、上にはネクタイを略した白いワイシャツの上に古びた背広を着ていた。そして教室で最も目を引いたのは、それらの上に乗っかった、まるで一昔前の洋風人形の様なその顔だった。
髪の毛は縮れた短い金髪で、髪質はあまり宜しくはない。目はガラス玉を嵌め込んだ様な青色で、ぱっちりと大きいことから教室の明かりを反射して光っている様に見えた。肌は艶のある若々しい白だったが、恐らく元の肌の上に更に白粉を塗っていたのだろう、却って白過ぎて不健康そうに思われた。しかし、それら一つ一つのパーツを組み合わせてできた全体物は、教室全ての目を強引に振り向かせる様な奇妙な力を持っていて、事実あれだけ騒いでいた後ろの叢はすっかり動きを止め、私も釘付けとなった。
「諸君。私がこの論理学概論を担当する
鈴の転がる様な声で自己紹介をすると、教授は黒板に大きく「語風子」と記した。そして、早々と講義に関する説明をしていく。
「私が諸君らに教えるのは論理学、特にこの講義で扱うのは命題論理ー所謂アリストテレスの論理学というやつだ。AならばB、BならばC、故にAはCという三段論法から始まった、原始規則を用いて命題を証明するものだ。図で表すとこうなる」
教授は黒板に幾つかの記号を用いた証明式を書いていった。しかし、その十二行に及ぶ証明は無論のこと、最初に記された連式の意味さえその時の私にはまだ分からなかった。
「まあ、無論最初からこの様なことをやらせるつもりは無い。最初は大変不本意だが、『言葉』を使って諸君らに論理学の考え方を説明しよう。だが、最終的には『言葉』を超えた次元で、世界の関節たる論理学を理解できる様、君達には努めてもらいたい」
「(言葉、言葉を超えるってなんだ?論理っていうのは言葉のことじゃないのか?)」
「講義の評価は基本的には学期末に行う試験のみ、それまでの出席や受講態度その他一切を考慮に入れない。但し、適宜私の指名に答えられた者などには加点をして、テストの成績が悪くとも単位をやれる様にする。尤も、全く講義に出ずにテストで満点を取り、単位を得た者も少なからず居るが」
「ひゅう!風子ちゃんサイコー!!」
ギョッとする様な歓声に眉一つ動かさず、教授は説明を続けた。そして、一通りそれが済むと何か質問は、と型通り述べる。
「せんせー、質問」
「なんだ」
「せんせーいまいくつ?」
「二十三だ」
「え、若い!嘘でしょ!?」
「本当だ。尤も、この大学で教授になったのは今年からだが。二年生以上の者は前任の教授のことも知っているだろう。あの人は私の恩師の一人だ。彼が定年退官を迎えたので私が来たというわけだ」
「先生は彼氏とかいんのー!?」
「居ない。居たとしても、特別に何か言う必要は感じないな」
「タイプの男性はー!?」
「絶対条件は『哲学科に通っていない男』だ」
美人と見ればすぐに食いつく連中への嫌悪感を、私はなんとか隠し通した。もう少し続いていたら教室を出ていたかも知れない。しかし、それら極めて下品な質問に対しても、教授は一つ一つ冷静に答えて行った。そして、粗方そうしたネタがつき、教室に静穏が戻りつつあった時、ふと教授が言った。
「そうだな…これまで諸君らは多くの質問を私にしたが、次は逆に私の方から質問を投げかけようか」
教授は一旦目を瞑ると、再び開いてこう私達に投げかけた。
「諸君らは『哲学』ができるか?」
「てつ、がく…」
「先生、俺たち馬鹿だからそんなの分かんねえよ」
「何、学問としての哲学ではない。行為としての『哲学する』ことができるかと聞いているんだ」
「???」
意味が分からない、と言いたげなざわめきが広がった。恐らく誰もが教授の意図を測りかねていたのだろう。そして、また誰かが叫んだ。
「意味わかんないっすよ先生」
すると、彼女は大きなため息をついて、あの致命的な一言を放った。
「『人間未満』どもめ」
「にっ、人間未満…!?」
思わず私の口から鸚鵡返しに言葉が飛び出た。これまで何度も悪口を言われたことはあるが、人間『未満』などと呼ばれたことは一度も無い。そして、当然ながらこの発言は教室中に大きな波紋を広げ、次々と抗議の言葉が投げつけられた。すると、
「言葉に反応するな猿ども!!」
びりびりと鼓膜を殴りつける様な叫びによって、教室中の全ての口は強引に縫い閉ざされた。そして、私達全員が沈黙したことを確認すると、教授は満足した様に腕時計を確認し、
「では、もう時間なのでな。私は帰る。来週からの講義で、諸君らが少しでも人間に近づけることを祈っているぞ」
傲然と言い放ち、部屋を出て行った。後に残された私達は立ち上がることもできず、その背中を見送るしかなかった。再び間延びしたチャイムが、痙攣を続ける鼓膜の動きを正常化するまで、五分を要した。
とにかくも、私と教授との出会いはこの様なものだった。
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