第3話 健太郎の風鈴 ②
「あなたが手放したがっている記憶について、もう少し詳しく聞かせてくださいね。まずは……」
最初に送っていたアンケート内容を模写したような和紙を取り出して、
なんだか面接でも受けているみたいだ……
再び落ち着かない気分になって健太郎の視線が左右に彷徨った。
横浜や神戸などにある異人館のような部屋は、細部まで丁寧に作り上げられている。ボタニックな花のポストカードの横に、墨で描かれた文字の額が飾られていたり、和と洋が混ざりあっているのに、不思議と調和のとれた空間になっていて、こんな事情で訪れたのでなければ、さぞかし居心地が良いだろうなと思った。
そんな健太郎の様子に頓着無く、惟楽はサクサクと内容の確認を始めた。
「恋のお相手の名前は
「……はい」
健太郎は無意識に胸を掻きむしっていた。また、様々な想いが沸き上がってくる。抑えきれなくなって言葉を続けた。
「初めてだったんです、彼女みたいな人は。本当に綺麗な
「プロポーズを断られた上に、交際まで解消されてしまった」
事務的な惟楽の言葉に、健太郎はガクリと首を落とした。
「……はい」
「理由は? 何か彼女は理由を言ってはいなかったのですか?」
「何回も聞きました。しつこいくらい何回も。でも、何も答えてはくれませんでした。そして、俺のことは遊びだったと。本気にするなんて思ってもいなかったとも言われて」
「それはお辛かったですね」
惟楽の声が初めて優しい響きになる。
「あなたは未だに美和子さんのことが好きなのですね。だから辛くて仕方ない」
「そんなはず……いえ、その通りです。忘れられないんです。彼女は俺にとって初めての彼女で……最高の彼女でした」
とうとう我慢できなくなって、健太郎は声を上げて泣き始めた。男泣きに無くその姿を、惟楽は好まし気な視線で包むと、纏う雰囲気を一変させた。
「ねぇ、健太郎君」
己の前の湯のみの縁を白い指先でついっと撫でる。その顔には、妖艶な魔女のような微笑が浮かんでいた。
「そんなに素敵な彼女との思い出なら、捨てちゃうのもったいないと思うけど?」
真意を試すような惟楽の言葉に、一瞬ぐっと詰まらせた健太郎。次の瞬間、激情を吐き出すように叫んだ。
「そんなこと分っています! 俺だって、この想いを綺麗で大切な思い出に代えて、次の恋に進む方がよっぽど建設的だってわかっているんですよ! でも、そんなこと簡単にできるわけがない。今だって、美和子のこと思い出すだけで、こんなにぐちゃぐちゃな気持ちになってしまうのに……次になんて進めるわけが無いんです」
「次に進みたいと思っているんだ」
「当たりまえですよ。いや……違うな。進まないといけないと思っているだけです。いつまでもこんな気持ちのまま、中途半端にいたらダメになってしまうってわかっているから。でも、簡単じゃ無いんです。そんなに簡単に割り切ることなんてできないんですよ!」
苦し気に顔を歪める健太郎を静かな眼差しで見つめながら、惟楽がポツリと呟く。
「そっか。そう言うことだったのね」
「は? 何がそう言うことなんですか!」
突っかかる健太郎に、ニヤリとする惟楽。
「本当に怖がっているのは、自分でこの思い出を穢してしまうことなのね」
「あんた、何を言っているんだよ! 俺にとって彼女との恋はかけがえのない大切なものだったんだ! でも、彼女にとってはそうじゃ無かった。偽りの愛と言って穢したのは彼女です。俺じゃない!」
「だから、可愛さ余って憎さ百倍ってやつでしょ。幸せが大きかった分、裏切られたショックも大きくなる。許せなくなるってこと」
「当たり前じゃないですか。俺は彼女のことが許せないんです。悲しくて辛くて憎くて仕方ない。でも、やっぱり……俺は彼女が今も好きで忘れられないから……これ以上憎むのも辛いんです。幸せだった日々が真っ黒く蝕まれていくのも嫌で嫌でしょうがない……助けてくれ」
絞り出された健太郎の願いに、慈しみの籠った声が応えた。
「あなたの気持ちはわかったから、もう何も言わないわ。安心して。彼女に繋がる記憶は全て私が引き受けます。ここから帰ったあなたは、まっさらな心で女性と向かい合う事ができるはずよ。新しい恋を初めてください。美和子さんを包み込んだあなたの優しさは、次に出会う女性の心も癒してあげられるでしょう」
そう言って微笑んだ惟楽の瞳が金色に光った。
涙の残る瞳を向けた健太郎。吸い込まれるように意識を失った———
健太郎が帰った後。彼の失恋風鈴がチリンと小さな音をたてた。
水色の光を放ちながらくるりと一巡りした後、あきらめた様に静かになる。
それを指の先で撫でながら、
「いらないんだって。可哀そうに」
そう言って、ちょいっと突いた。また、チリンと一鳴り。
この記憶が消えたから進める未来。
消えなかった時に進んだであろう未来。
清果のやっていることは、未来を変えることに繋がってしまう。
それをわかっていて敢えてやっているのだ。
この記憶が無くなったからと言って、健太郎が幸せになるとは限らない。
そう割り切っている。せいぜい味わえるのは、一時の爽快感くらいだろう。
清果はもう一度チリンと健太郎の風鈴を鳴らすと、他の風鈴の元へと連れて行く。どこへ飾るかと見回した後、ふふっと笑いながら淡い桃色の風鈴の隣へ置いた。
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