小花、里人の逃亡に一計を案じること
聯星の術のかかった札で里の様子を探ると、どうやら小花が行方知れずになって三日経っているらしい。小花を
三日といえば、小花が月震宮で過ごした時間と同じだ。
札を
小花の兄夫婦は五歳になる息子の
小花の帰りを待ってたわけでもない。小花はもう十七さ。自分で何とかするだろうって思ってたんじゃないかな。兄夫婦は薄情なわけじゃないけどね。居候なんてそんなもんさ。もちろん、こんな災難の時に行方しれずの娘っ子を
兄夫婦が愚図愚図してる原因は分かった。
里は壁で守られてるから、籠もっていればなんとかなる。貧しい山里のひとつやふたつ、しっかり守っていればじきに敵も諦めてほかのもっと豊かな里を見つけに山を下りていくだろうってね。
でもさ、命あっての物種じゃないか。
山に逃げろ、いや里に留まれ、賛成、反対。衛建と
でも、男たちの話がまとまるまで家で一休み、みたいな雰囲気になってたんだ。
逃げずに済むなら、逃げないほうがいい。だれだってそう思う。
山に籠もる暮らしは大変だし、何ヶ月かかるか分からない。そのあいだ畑はほったらかしになっちまうから、今年の冬の食べ物も心配だ。
年寄りたちの何人かは胥吏とは別の理由で里に残ると言い出してた。
連れ合いの墓もあるし、老い先短いのだから、もうここで死なせてほしい、とかなんとかね。
「娘、状況はあまり良くない。西に三里のところで北の騎馬兵が食糧と女を探している。騎馬兵のようすでは、このあたりに里があることはすでに知れている。砦攻めのときに目星を付けていたのだろう。里への道が見つかるのもすぐだ。おそらくあと半刻もすれば壁の外に騎馬兵が姿を表す。数は五十騎ほどだが、籠城しても無駄だろう。砦が落ちているからいくら待っても助けは来ない。北の騎馬兵はいつもなら冬営できたはずの冬も砦攻めをさせられていたせいで、餓えている。執拗だぞ」
聯星は熊避け札で騎馬兵のようすを探っていたらしかった。
聯星の言うことはいちいちもっともだ。小花にだって分かっている。しかし、どうすりゃいいってのかね? 小花には里長や胥吏みたいな権限はないんだ。ただの
でも、これはあたしがなんとかしなきゃいけないことだ。
さて――思案のしどころだよ、と小花は眉に皺を寄せた、そのときさ。
『関中を
そんな『物語』が頭に浮かんだんだ。
お人好しの址洛は山の一番高い木に登って仙人になりすまし、眉庄の者を救おうとする、そんな話だった。
小花は
要は里のみんなを慌てさせれば良いんだ。まだうだうだ話し合ってる暇があると思うのがいけない。北狄兵が里の前にやってくれば、いやでも慌てるだろうが、それは駄目だ。そうなるともはや門を開いてやつらの言うとおりにするか、壁が破られないことを天に祈って籠城するかしかない。
ほんものの敵の姿が見えないうちに、『敵の姿』を見せて逃げなきゃ、と思わせればいいんだ。
「元気のない者がいれば、これを一粒、飲ませると良い」
聯星が懐から茶色の丹薬が五粒ほど入った薬籠を押しつけてきた。
さっき槐爺を呼び出すのに一粒、口に含んだやつだ。
「これは?」
「薬研公主のつくる丹薬だ。ひとの陽の気でできている。わたしのように死人の身で現世に出てくるときには、どうしても陽の気が足らなくなるゆえ、折々に飲まねばならない。公主からわたしが拝領したものだが、生者に飲ませて毒になるものは混ざってない。魂魄のちからが弱っている者に与えれば、気力が湧く。軽い病程度なら、歩けるくらいにはなるだろう」
「
無愛想だけど、ほんとうに面倒見はいいんだよ。
「でも、これで全部だとしたら、聯星はどうするんだい? 飲む必要があるんだろ?」
「わたしのことなら気にするな。薬の代わりになるものもある」
小花は彼の面倒見の良さを頼ることにした。
薬のことはもちろん、もうひとつ面倒なことを頼んだんだ。
「あのね、聯星。あたしの腕、ちょっと切りつけてくれないかな? 無理を言うようだけど、血は派手に出てるけど、あんまり傷は深くしないような感じで」
聯星は眉根に皺を寄せて不機嫌に口を引き結んだ。いや、もともと無愛想な顔なんだけどね。それとはまた別種の不機嫌
「そんなことをせずとも、わたしのちからで騎馬兵が里に来るのを、多少は遅らせることならできる」
「聯星が酷い目に遭わずにそれができるならそれもお願いするよ。時間の余裕はたくさんあったほうがいいんだ。でも、里の人を動かすのに、どうしてもあたしが怪我してる必要があるんだ」
聯星はそれ以上は四の五の言わずに剣を抜いた。
柄と鞘は
自分で適当に付けた名前だけど、玄河って銘はなかなか似合ってると小花は思ったね。
丈三尺、白刃に一点の曇りなく、日輪の輝きを映してきらりと光る。
自分から切ってくれって言ったはいいけど、実際に刃の輝きを見るとなかなか怖い。
「娘、左腕で顔をかばうような仕草をせよ」
聯星はそう言って、言うとおりにした小花の左腕を玄河で撫でた。
ほんとに、撫でただけに思えたのさ。切られたとは思わなかった。肩の下、二の腕のあたりにひやりとしたものを感じた。
その冷たさはすぐに熱い滴りになって小花の服を濡らした。
袖がぱくりと割れて、肌が一筋、切れていた。
聯星の腕前ってやつか、それとも玄河が凄いのか。両方かね。切られてしばらくは痛みだって感じなかった。見事なもんだったよ。
あんまり見事すぎて小花は「服まで切っていいなんて言ってない」と文句を言うのも忘れていた。
服は一張羅だからね。修繕の糸だって安かない。
遅れて、じゅるっと、なにかを啜りあげて飲み下す音がした。
聯星が小花の腕を掴み、傷に口を付けて血を啜ったのさ。
「傷は押さえておけばほどなく塞がる。いまから一刻,日暮れまではかならず時間を稼ぐ」
唇についた血を舌で舐め取るようすは艶美としか言いようもなかった。表情に乏しいのは相変わらずだけど、顔立ちが美しいからね。なにをやっても色気が薫るのさ。
蒼白い肌に血の紅。凄艶とはああいうのを言うんだよ。
「な……なんで血なんか」
「丹薬の代わりだ」
小花の間の抜けた問いにそう答えるが早いか、聯星は小花の前から姿を消した。文字通り、影も形もなくね。
小花は呆然としたよ。姿が消えるのも驚きだし、男に顔を近づけられたのにも動揺してた。でも、そんなことでぼんやりしてられない。
「小花殿、よろしくお願いしますぞ」
槐爺が声を掛けてくれたのも効いたね。里の守り神に頼りにされるってのはなかなかない経験さ。
小花は我に返ると、すぐさま行動を起こしたんだ。
「大丈夫、すぐに里のみんなを連れてくるよ」
って、薬研公主から預かってた棨は、槐爺に渡しておいた。
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