小花と黎明君

小花、黎明君に字を付けること

 薬研公主の御前で、なにげなく瞬きしたとき、小花は不意に目眩を感じたんだ。

 ちょっと気持ち悪いな、とひたいを押さえて目を閉じて、しばらくしてからそろそろと目を開けると、そこは里の裏山だった。小花が山菜採りしてた場所だよ。

 背には山菜の籠、腰には熊避けの札。彼女が穴に落ちる直前の姿そのままだった。

 時刻は昼過ぎ、日昳にってつのおわりってとこかね。春の初め、山里の日暮れは早いから、もういっときも過ぎれば日暮れだ。

 小花が足を踏み出すと、カラカラと音がした。身につけてる熊避けの木札の音さ。

 その音を聞いたとき、ああ、『いつも』に戻ってきたんだなって、思ったね。小花の隣、お付き添いのように足音も立てずに黎明君が歩いてるところだけが『いつも』じゃなかった。

 戻ってきたんだと思ったのと同時に、薬研公主にちゃんとお別れの挨拶をしてなかったな、とも思った。でも仕方がない。お別れの挨拶をしなかったってことは、また会う機会もあるんだろう、そうも思った。

 さくさくさくさく、と草を踏み分ける小花の足音とカラカラいう音以外、あたりは静かだった。うらうらとした陽射し、春のむせかえるような緑の濃い草いきれ……けれども恋の季節を迎えた燕や烏、鶯の鳴き声が聞こえない。

 風には春の緑の香りのなかに、どこかむっとするような焦臭さが混じってた。

 小花はその臭いには覚えがあったんだ。

 山ひとつ向こうの蛾碌がろくの砦を巡って戦いがあると、風がこんな臭いを運んでくるのさ。大地が踏み荒らされ、多くの者が炊事をし、人や馬が糞便をたれ、木々やそれ以外のものが燃やされる臭い。以前、砦が落ちたのは小花がずっとちいさいころで、そのときは親や兄と一緒にひと月ほど山に籠もって息を潜めていたのを覚えてた。ここしばらくは北狄の攻撃があっても砦は持ちこたえてて、こんな臭いが風に混じっていても、逃げる必要はなかったんだけどさ。

「娘」

 里に戻る道すがら、小花は黎明君に呼ばれた。

「娘、はないと思うんだよ。あたしは小花ってあざながあるんだからさ。あんたのこと、『男』って呼んでいいのかい?」

「好きにしろ」

 黎明君はほんとにそう呼ばれてもいいって顔をしてた。自分の呼び名なんかなんの興味もないっていうね。取り付く島もない。

「薬研公主は悪い方ではないが、あまり信用せぬほうがいい。公主から拝領したそのわりふ、光凜帝の治める冥界へ行くためのもので、公主のす月震宮には行き着けぬ。どうやら公主はよほどおまえを光凜帝に会わせたいようだ」

 黎明君は、無愛想だけど悪いやつじゃないんだ。小花は素直に感心した。

 棨の行き先のことなんて言わなきゃわからないことだ。棨を使って光凜帝の冥界に行ったところで、二択の行き先のひとつのほうへ行っただけで、小花は薬研公主が嘘を吐いたなんて思わないはずさ。

「なんだっていいんだよ」

 と、小花は答えたんだ。

「ただの里の娘のあたしに、占いでそういう卦が出たってだけでものを頼むんだから、公主さまにとっちゃそれは藁にも縋るようなことなんだろうさ。あたしが酷い目に遭っちゃ可哀想だから、冥耀君だってあんたを付けてくれたんだろうし。あんただってこんな面倒ごとに付き合ってくれてる。あたしにしてみりゃ、ついでだってなんだって、北狄兵からの逃げ場所を用意してもらえるってだけで充分、有り難い話なのにさ」

 黎明君はなんだか悪いものを呑んだみたいな、妙な顔をした。

「ところで、あんたのことは聯星れんせいって呼んでいいかい? 聯河のほとりであたしが光る珠を見てたときに会ったから聯星。ついでにその腰の剣は玄河げんか

 黎明君なんて呼び名、いかにも仰々しいじゃないか。もちろんこれは小花の思いつきだから、本人に希望があればそれに添うつもりだった。

「好きにしろと言っている」

 黎明君の返事は予想通りというか、予想を超えてというか……素っ気なかったね。

「怒ったのかい? 気に入らないならあんたが呼んで欲しいように呼ぶからさ」

 小花は言い募ったが、黎明君の返事はさらに小花の予想を超えてたんだ。

「怒りなどしない。わたしにとっては呼び名などどうでもよいのだ。おまえがわたしをどう呼ぼうと、おまえが死ねばその名は消える。おまえがどれだけ長生きでも、人の生はわたしにとっては瞬きひとつの出来事に過ぎない」

 黎明君は……いや、ここからは聯星は、と言おうか、そういうふうに小花に言って聞かせたものだよ。小花のほうを振り向きもしなかった。

 小花はそういう聯星の態度が気に食わなかったね。だって寂しいじゃないか。どうせみんないなくなるんだから、そのときに起きてることは旅の途中で目に留まる風景みたいなものだ、っていう考えだろう? たしかに聯星にとっちゃ、小花はそんなものかもしれないけどさ。

 小花は心に決めたんだ。あたしがいなくなっても、こいつのことを聯星、こいつの剣を玄河って呼ぶ人間がこの世からいなくならないようにしてやるってね。

 生きてる人間をあんまり甘く見るな、目に物見せてくれる。

 ただし、どうやってそうするかの思案は、まだそのときにはなんにも無かったんだけどさ。

「ここの里社爺りしゃじいはどこにいる?」

 小花がふつふつと腹を立てていたとき、聯星が尋ねてきた。

 あ、そうそう臨京のお歴々は里社爺って知ってるかい? このあたりじゃなんていうのかね……? あの、四角に盛り土して、木を一本植えて社稷しゃしょくまつってる場所のことさ。

 ああ、社公しゃこうってんのか。さすが、おおきな都だけはあるね。君公の位持ちってんだから。英州の山のほうじゃ、里社爺って呼ばれててね。小花の里じゃ槐樹えんじゅのきを植えてるんだ。

 槐爺えんじゅじいさ。

「里のすぐそば。北側の山との境にあるよ」

 と小花が答えると、

「どうせそのわりふ、使うことになる。さきに里社爺に話を付けておこう」

 聯星はあたりを見回してそんなことを言った。もう斜面の下、こんもり繁る林のむこうに陸丹の里の壁が見え隠れしてた。

 小花の里人が信仰してるったって、槐爺は木なんだよ。里のことを守ってくれてるのを疑ったことはないけど、どうやって話を付けるのかね? そう思いながらも小花は頷いたね。


 陸丹の里の里社は蜀黍しょくしょの藁を編んだしめで結界されているんだ。

 盛り土してあるっていうより、もともと高台になってて神気しんきを帯びていたところを祀りの場にしてた。神気を帯びた土地のすぐそばに里を造ったのが陸丹の縁起らしい。

 都のほうじゃ綺麗に整地して、あらためて木を一本植えて祀るのがふつうなんだろ? 山里のほうじゃ木もたくさん生えたままさ。もちろん神聖な場所だから手入れはされてる。

 その真ん中に樹齢千年を超える槐樹があった。

 高さはそんなにないんだ。まあ、八間くらいかね。近くにある銀杏や楡の木のほうがよほど高い。でも幹の太さは大人が三人で抱えてようやく腕がまわるくらい太い。

 すぐそばに里があるのに、その日、里社じゃ物音がしなかった。里のすぐそばにあると言っても、里は盗賊避けに大人の背丈の倍もある土壁で囲まれてたから、ふだんでもそんなに音が聞こえるわけじゃない。けど、日暮れを前にして炊事も始まる時刻だって言うのに、里には煙ひとつ立ってないのも異様だった。

「娘、これをもらう」

 聯星が小花の腰に下がった熊避けの札を五枚とも竹籤たけひごから抜いた。

「この札は聯河の水に浸かっていた。術は冥界の陰気を帯びたものを使えばより易い」

 要は呪具なしでも術は使えるけど、なにか道具があったほうが楽だってことだね。

 で、自分の懐から薬籠やくろうを出して、なかの丹薬をひとつ、口に含んで飲み下し、ふっと札の一枚に息を吹きかけた。

 その札を槐の幹に押しつけると、木から爺さんがひとり、姿を現したんだ。

 ちんまりした白髯はくぜんの老爺……手に持つ杖と冠から槐の葉が生えて、花が咲いていたね。

「おお、これは黎明君ではございませんか」

 爺さんが皺くちゃの顔をほころばせて聯星に拱手きょうしゅした。陸丹みたいな田舎の里社爺にも名が知られてるなんて、聯星は有名なんだなと思ったよ。

「里の大事が出来しゅったいした。分かっているな」

 聯星がそう言うのに、爺さんは神妙な顔をして頷いたもんさ。


 ここからが問題さ。

 里はなんだか静かだ。壁のせいでなかは見えないけれど、人の気配はする。薬研公主は里人は砦が落ちたことはすでに知っていると言ってたし、炊事の煙がみえないところから察して、日々のことをこなしてのんびりしているわけでもなさそうだ。

 でも、逃げ出そうとする気配もない。

 里の門は日暮れまえだっていうのにかたく閉ざされていた。

 里長さとおさは籠城でもするつもりなんだろうか、そうも思ってみるけれど、壁は盗賊避けにはなっても、攻城の装備も備えた軍隊相手にどうにかなるようなものじゃない。

 門を閉じてるったって門前の堀は浅いし、門は木造だから、兵が本気でかかればそんなに時間は稼げない。

 と、小花のひたいに、ぺたりと木の板が貼りつけられた。

「里のなかを思え。いま、どうなっているか見たいものが目に映る」

 見れば、聯星もおなじく自分の額に板を当ててなにかを見ている。

「『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』だ。己を知ることは案外、むつかしいものだが、相手がいまどういう状況かは、落ち着いてよく見ればわかることもおおい。そこから道が拓けることもある」

 小花は神妙な顔して頷いたね。熊避け板を額に貼り付けた聯星ってのは、ちょっと可愛い、なんて思いながらね。

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