小花、薬研公主から言葉を授かること

 小花は寝るときのほかは、虞御史ぐぎょしのところに入り浸って話を聞いていた。

 しかしなんて言うのかね、史書ってのはほんと、味気ないもんだね。

 だって、だれかがなにかするだろ? お国の正史なら皇帝陛下のなさることだ。なにか考えがあってやるのに、その考えについちゃ、なんにも書いてないんだ。

 ただ、起きたこと、言ったこと、やったことが書いてあるだけ。

 小花は一度、虞御史に言ってやったんだよ。

「じゃあさ、そのときの光凜帝の気持ちってのはどうだったんだい?」ってね。

「史書は事実を記すもので、われわれの如き愚官が推し量ったお気持ちは事実ではないからの。分からぬことは分からぬ。ゆえに書かぬ」

 ってのが虞御史の返事だ。

 もちろんそれは正論だ。

 でもさ、たとえば『三国英傑伝』ってのがある。よく舞台劇になってるやつさ。

『長年軍事をともに成し、いまここに汝を斬る。罪をゆるすはやすし、れどは道理をげる。我が左手には先君せんくんの目指さんとした正道、我が右手には今上きんじょうを導かんとする王道、道理は枉げてはならぬ。ならぬのだ』

 こころざしをともにした先君に先立たれ、おのれの人生の終焉もまた近いことを悟りつつ、征旅せいりょに明け暮れ老いた軍師は間違いを犯した弟子を涙ながらに斬るんだ。

 この場面見て泣かないやつはいないね。でもたしかに軍師が本当にこんなことを考えてたかどうかは、誰にも分からない。史書には『どこそこで誰それが斬首された』それだけさ。

 大説たいせつ……お役人が後生大事に読み上げる四書五経や、お国の正史には空想ごとは書いてない。でも、小説家は正史の行間を読むんだね。そこに書かれていないけれども見えてくるものを書く。

 でもまあ、そういう不満は脇に置いても、楽しかったよ。

 虞御史の語る光凜帝の話には、小花の知らない話がいっぱいあった。

 光凜帝は、虞御史の贔屓目ってのもあるんだろうが、聖帝といって遜色ない帝だった。

 神農しんのう氏の教えを深く学んで農地を開墾して民の暮らしをたすけること、氏に学んで治水をして水害から国を守ること、東海を治めていた燧人すいじん氏に教えを請うて火を国にもたらして民に便利と安全を与えること……一代にこれだけの功績があるって凄いじゃないか。

 東南北、境を接してる国とは上手くやってた。曖昧だった国の境をどこにするかとか、移動する家畜や民はどこの国の住民か、とか、問題はいろいろあったけど、ちゃんと話し合いで解決したんだ。

 けどさ、それも冥界に攻め入って自分の国の兵士をたくさん無駄死にさせちまったので帳消しだ。

 どうして光凜帝は冥界を攻めたのか、もちろん虞御史は教えてくれなかった。

 小花が尋ねても「そうですなあ、どうしてでしょうな」と鯰髭なまずひげを撫でつけるばかりだったよ。

 寂しそうな目をしてね。

 そうこうしてるうちに三日ほどあと、ってか、三回ほど小花が寝て起きてしたあと、冥耀君がお出ましになって、小花の月震宮巡りはおしまいになった。

 再び黎明君に薬研公主のお部屋に案内されて、彼女は現世に帰れることになったんだ。


 冥耀君は薬研公主と違って、几帳をまくって姿を現したりはしなかった。

 翠羽の色をした几帳に囲まれた御台のあたりから、声が聞こえただけだった。

 小花みたいな嗄れた、良く声が通るのだけが取り柄の声と違ってね、朗々として柔らかく、でも毅然とした厳しさもある……聞いた者が思わず背筋を正しちまうような声だった。

 薬研公主も小花に声を掛けてくれた。

 今回も几帳を払って出てきてくれてね、

「またいつでも遊びにおいでなさい……というには、気軽に来るのが難しい場所ですけれど、機会があればいつでも来てくれてよいのですよ。それから、ひとつだけ現世でなにが起きているのか、伝えておきます」

 薬研公主は小花のそばに来て、彼女の手を取った。

 公主の手は冷たかったけれども柔らかくて、すべすべしていて、良い匂いがした。

 小花は荒れてガサガサで、土と草の匂いしかしない自分の手がちょっと恥ずかしかった。

枇岳びがくにある、蛾碌がろく玥詰げっきつの砦が落ちました。あなたの里に北の民の騎馬、あるいは落ちた砦から逃れてきた北辺の兵士がやってくるのは時間の問題です。陸丹りくたんの里の者もそれは分かっています」

 小花の里は、北の守りが破られるたびに、兵士たちがやってきて食糧をかっぱらっていくんだ。

 敵の北狄の騎馬兵も、味方のはずの北辺の兵士たちもね。

 食糧が取られるだけなら我慢もしようってもんだけど、女はいいようにされるし、男は荷物運びや兵士に取られてしまう。

 だから逃げるのさ。十年ほどは砦が落ちるようなことはなかったんだけど、実際、そうなったときにどうすればいいかは染みついてる。

 なんて、格好いいこと言ってるみたいだけど、正直なとこ、陸丹みたいなちいさい里じゃ、逃げるよりほかにできないからね。

 それにしても、いまなにが起きてるのかを教えてくれるのは有り難かったよ。

「それでは、送ろう」

 冥耀君の声がした。

「そなたが『落ちた』場所に送り返すこととなる。向こうはいまどのような状況か、詳しくは分からぬゆえ、里まで黎明君を護衛に付けよう」

 冥耀君のその言葉に、そこにいた無愛想剣士が顔を上げた。表情は相変わらず読めなかったけど、まあ、不満なのは分かったね。

 小花は殊勝にも冥耀君の心遣いに礼を言った。そのときだよ、「小花さん」って、小花は公主に名を呼ばれた。

「砦がふたつ落ちたのなら、しばらくは落ち着かないでしょう。山に隠れるのも長引けばきっと大変ね。困ったら、このわりふをお使いなさい。里の人を生きたまま冥界に通すための手形です。ただし、この月震宮に辿り着くか、わたくしの兄の治める冥界に辿り着くかは運なの。兄のところに行ってしまったら、わたくしの名を出しなさい。そうすれば兄も無下にはしないでしょう」

「どうしてそこまであたしによくしてくださるんだい? あたしなんかほら、ここに迷い込んできただけで、公主さまにとっちゃ迷惑な客なんだろう?」

「すべては天のお決めになったことです。だから迷惑などということはないのですよ、小花さん。それに、三垣さんえんのなかのひとつ、紫微垣しびえんの星が動くとがでております。数千年、動かなかった星、我が兄、光凜帝を表す星です。それにあなたがかかわるかどうかは分からないのですけれど、わたくしはそれにあなたがかかわり、兄を動かしてくださるのではないかとも期待しているのです」

 たいそうな話だったよ。だって小花はちいさな山里で、兄夫婦にやっかいになってる娘でしかないんだ。それが遙か昔の光凜帝の星を動かすだなんてね。

 途方もない。

 でも、小花は世間知らずのうえに怖いもの知らずだった。加えて、公主のお人柄に、ぽうっとなってたところもあった。だってそうじゃないか。冥界の君主の奥方が、わざわざ自分の手を取って名前を呼んでくれるんだ。

 自分になにかできることがあるなら、やってみよう、そう思ったんだ。

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