小花、傷心の史官に遇うこと

 待てと言われたからには待つほかはなく、小花は薬研公主の宮城、月震宮で冥界の王、冥耀君めいようくんのお出ましを待つことになった。

 薬研公主の部屋には勝手に出入りできないみたいで、あとであの部屋に行ってみようと思ったけれども、小花ひとりではどうやっても辿り着くことができなかった。

 黎明君は薬研公主との謁見のあと、小花を客室に案内してくれた。

 ほどよく広くて、ちりひとつ落ちてないのはもちろん、気持ちの良い光と風が入ってくる。座り心地の良い椅子と卓子つくえもあった。

 寝台にはふかふかの布団が敷いてあって、小鳥の羽根みたいに軽い掛け布団は温かくて柔らかい。寝台のすみには、手触りすべすべの絹の寝間着が一揃い。

 自分の場所は家畜小屋のすぐ隣の小部屋だけ、寝間着も普段着もない、着た切り雀で洗濯のときには下着一枚で震えている小花にとっちゃ、夢みたいな部屋だ。

 黎明君はどこからか小花がなくしたと思ってた荷物……山菜の入った籠やら熊避けの札やらを持ってきて、

「ここの食べ物は一切食べてはいけない。食べたが最後、冥界の住人になる。現世に戻れなくなるぞ」

 そう、小花に忠告した。

「んなこと言ったって腹が空いたらどうすんだい? 三日も飲まず食わずじゃ乾涸らびちまうよ」

 と、小花が唇を尖らせると、

「空腹にはならない」

 それだけ言ってどこかに行っちまった。ほんとに素っ気ないやつだよ。小花は十七。ちょっと……どころかだいぶ風変わりだがいちおう『妙齢の娘』ってやつだ。ちったあ親切心起こして冥界の案内役くらいしてくれたって罰は当たらないはずだろ?

 と、まあ、ぼやいてても仕方がない。時間の無駄。

 小花はひとりで月震宮を探索することにした。

 薬研公主には待てと言われたんだけどさ、どこぞの部屋に籠もっておとなしく静かに待てと言われたわけじゃない。冥界なんてだれだって一生にいっぺん、死んだ後ははかならず行くところだから珍しい場所じゃないけど、生きたまま行って帰ってこられる保証がついてるのは、それこそ千年にひとり、千載一遇の機会さ。見聞を広めるに限るじゃないか。


 中州は、おおまかに言って大河のなかにぽっかりと浮かぶ、ひとひらの蓮の花びらのかたちをしてた。

 薬研公主の宮城はその中州の真ん中あたりを四角に切り取って建っていたんだ。

 四角のかたちにぎょくの壁があって、そこが縦横よっつずつ、十六に区切られて、北面の四区画分が公主のおもな住まいになってるほかは倉庫や庭だ。

 わかりやすいつくりだったから、慣れれば道にも迷わなかった。

 ただ、思ってたよりは広かった。建物のそとがわはいいんだ。問題は建物のなかさ。

 外見よりずっと広くて果てが無いんだよ。

 中州のなかに建ってる宮城だろ? いくら広いったって、半日も歩き回りゃ、全部の部屋を見て回れると思うじゃないか。

 でも、いくら行っても新しい部屋が次から次へと出てくるんだよ。そのくせ、建物の外に出れば、大通りにすぐに戻ってこられる。

 まったく変な場所なんだ。冥界だからね。たぶんなんだってありさ。

 加えて夜も昼もわからない。お天道様が見当たらないのさ。

 宮城のなかは光があって「昼」だったし、壁の外は河のなかの珠が光るほかは真っ暗。

 仕方がない。眠くなったら寝よう。ってんで、さんざ歩き回って疲れてきたら、元の場所に戻ってふかふかの布団で一眠り。起きてまた歩き回った。


 月震宮の庭に桃や梨の木があるって話はしたな。

 小花が最初に見たとき花の盛りだったその木は、半刻もあとにもう一度通りがかったときには、実がってた。

 そりゃもう、見事な蟠桃ばんとうやら梨やらが鈴なりだった。紅玉みたいに艶々したすもももあったし、その木の根元には丸々と肥えた鶏が巣を作ってた。その実や鶏の産む卵は、例のもやもやした雲の塊みたいな官吏が収穫してどこかに持っていくんだ。なんに使われてるのかは分からない。西王母せいおうぼの主宰する蟠桃会ばんとうえの桃は人を仙人にしたり不老長寿を与えるっていうから、仙薬かなにかの材料になるのかも知れない。

 そんな美味そうなものがわんさかあるのを、指をくわえて見てなきゃならないんだよ。食い気だって人並みにはある小花にとっちゃ、苦痛以外のなにものでもなかった。たしかに腹は減らないんだ。でも、別腹ってあるだろ? 食べたいものは腹が減ってなくても食べたいのさ。

 いつかちゃんと死んでここに来たら、絶対、薬研公主にお願いしてここにあるものみんな味見させてもらおう、って、小花は心に決めたもんだ。

 ああ、みんな気をつけなよ? 「冥界のものは食べちゃいけない」。

 うっかりこの手の場所に迷い込んじまったとき、現世に生きて戻るためには絶対だ。でもさ、落とし穴がひとつあるんだよ。「桃源郷の桃は食べて良い」ってところさ。

 はじめて迷い込むところで、「ここは冥界」「ここは桃源郷」って見分けなんかつかないだろ? これ見よがしに雰囲気満点の髑髏が転がってるわけでもなし。

 これ、絶対罠だと思うんだよな。小花は偉い人にちゃんと教えてもらったけどさ。

 でもひとつ冥界と桃源郷を見分ける方法はある。桃源郷は朝昼夜がちゃんとあるけど、冥界は昼も夜もよく分からない。だからおかしな場所にたどりついたときは落ち着いて確かめるんだ。同じ場所にいて、時間が流れるようなら、そこは桃源郷ってわけさ。覚えといて損はないよ。だって、ああいうところはいつ、どんな弾みに迷い込むか知れたもんじゃないからね。


 で、小花は月震宮をうろうろと見て回っていた。

 南西の隅っこに秘書省って扁額へんがくを掲げた建物があった。小花は最初に見たとき、その文字が読めなかったけど、ほかの月震宮の建物に掲げてある文字や、庭にある四阿あずまやの銘板の文字なんかと比べたら、ずいぶん……なんてったらいいんだろうね。下手くそに見えたよ。というか、その建物自体が掘っ立て小屋みたいだった。

 扉は開いてたんで、なかを覗いたら、そこには人がいたんだ。

 ずいぶん恰幅のいい鰌髭なまずひげの男だった。濃い緑のお役人風の服を着てたね。たぶん歳の頃は四十ばかりだろう。竹の板を手に、うんうん唸ってたよ。

 見てくれは掘っ立て小屋だったけど、なかはほかの建物と同じで見た目よりずっと広かった。おじさんの背後には造り付けの書棚があって、古くさそうなのから新しいのまで、巻物がぎっしりと詰まっていた。おじさんのいる部屋の奥にも、そういう部屋がいくつもある感じだったね。

「これ娘、生者がここに来るのは珍しいの。どこから来た?」

 なにしてるんだろ? って、小屋の入り口でおじさんの顔を見てたら呼びかけられたんだ。

 あとはまあ、決まり切った挨拶さね。

 鰌髭のおじさんの名前は、虞博ぐはく。いにしえの帝、光凜帝の宮廷の侍御史じぎょしのひとりだったそうだ。

 小花は彼のことをあれこれ知りたかったが、そいつのほうが一枚上手だったね。

「なに、おぬしは二三日はここに留め置かれるのか。ちょうど良い、いまの帝の名はなんと仰せじゃ? どんな国の仕組みになっておる?」

 矢継ぎ早に質問攻め。小花だっておしゃべりだけど、何千年も年期の入ったやつには勝てやしない。でもさ、そんなこと聞かれたって、小花は山奥の里から一歩も出たことないんだ。知ってるわきゃないね。

 小花は知らないよって、いいながら、まあ適当に知ってることを話したもんだよ。里の暮らしのことなら分かってる。山里には何人くらいの里人がいて、里長がいて、中央の役人の代わりに税を取り立てる胥吏しょりがいて……そんなことさ。おじさんはそんな詰まらない話も興味深そうにいろいろ書き留めてた。

 でも、すぐにネタは尽きちまう。小花の話は次第に思いつくままの話に変わっていったんだ。

「西の果て、西山のひとつ、崇吾すうごの山から西へ西へとずうっと行くと、丹水の流れる河があって、白玉はくぎょくが沈んでるそうなんだ。それが水を玉膏ぎょっこうって酒に変えるんだよ。この美味い酒を黄帝は飲んで、登仙したんだって」

「娘、それは『山海経せんがいきょう』じゃな。そんな話をなぜ知っておる? 里に遊行師ゆぎょうしでも来たときに聞いたのかの?」

「センガイ……? んなの知らないよ。こう、頭に思い浮かぶんだ。ほかにも……『むかし、碧山へきざん角淑かくしゅくという男がいて、仙人になりたいと知恵を絞った。麻黄まおうと金、水銀、鶏角けいかく……丹薬の作り方を学んだものの彼は文無しだった。真面目に働き食べるものも着るものも節約し、女にも酒にも貢がずに二十年。ようやく金が貯まった角淑のもとに親戚の娘が預けられた。さて、それからが大変だ。女っ気のなかった角淑、仙人になるために穀断こくだちをはじめあらゆる欲を捨てなきゃならないが、預かった娘の顔が夜な夜な夢に出てきて寝付けない』とかね」

塙阮こうげんの『仙草千夜せんぞうせんや』に出てくる話じゃのう」

 もちろん小花はそんな話を聞いたことはないんだ。

「おぬし、物語に憑かれておるのやもしれんな」

 虞博は鰌髭をなでつけながらそう言ったんだ。

「なんだいそりゃ?」

「人は死ぬとな、魂魄のうち、まず魄のちからが弱まり、肉体と分離する。肉から抜け出た魂魄はこの冥界の河、聯河れんがを流れ下って冥耀君の御座所に辿り着き、そこで魂と魄に分かれることになる。魂は天に昇り、魄は地に沈む。草木や動物、人間の男女が和合すると天地に分かれた魂魄がふたたび結びつき、実ったり子が生まれたりするんじゃ。魂は気に繋がり、魄は肉に繋がる。しかし、死んでもこの魂魄がうまく肉体から剥がれん者がたまにある。たとえば黎明君や、儂のようにな」

「へえ、おじさん、変わり者なんだね」

 まあ、人気のない月震宮に居座ってるところからして変なやつだと小花は思ってたんだが、やっぱりだ。

「おじさんとは言いぐさじゃの。娘、儂のことは虞御史ぐぎょしと呼ばんか」

 まあ、「面倒くさい」だの「失礼」だの、「あんただってあたしのこと娘とかおぬしって呼ぶじゃないか」「あんたとはなんだあんたとは。歳上を敬わんか」などなど、ありきたりなやりとりがあって、結局、この件は虞博が折れた。小花は「おじさん」と呼ぶし、虞博は小花のことを「娘」とか「おぬし」と呼ぶ。そういう取り決めになった。

「心残りが強いとな、魂魄はなかなか肉体から剥がれんものじゃ」

 訳知り顔で、鯰髭を撫でながら虞博が言う。自分もそのひとりだから、いろいろ調べたんだろうね。

「じゃあ、おじさんとあの愛想なしの兄ちゃんは、と――――っても心残りがあるんだね」

「まあそうじゃ。儂は光凜帝が崩御なされたおり、帝の殉葬の列に加われなんだ。儂の夢は、帝の死後の宮廷に侍り、御前で帝の生涯の偉勲を記した史書を捧げることじゃったのに。生きて国の行く末を記せと命ぜられたのじゃ」

 殉葬ってったら死んでもないのに死んだ人と一緒に墓に入ることじゃないか。それを免れたんなら、あたしなら自分の僥倖とお天道様に感謝するね。と、小花は思ったけど、もちろんそれを言わないほうが良いことくらいは分かった。

 このあたりは好き好きだね。変わったやつもいるもんさ。

「あの兄ちゃんは?」

「儂は知らん。黎明君はここに流れ着いてくるまでの記憶を失っておるという話じゃ。なにが心残りか覚えておらんのに魂魄が肉体から剥がれん、というのはなかなか凄いことじゃがの。それはともかく、娘、おぬしもまたそういう者のひとりではないかと、儂は睨んでおる。肉は剥がれたが、そのあと、こんのほうにはくの一部が剥がれきらずに憑いたまま、つぎの魄と結んでおるのじゃろう。そなたの魂には物語が憑いて離れておらんのじゃ」

 要は以前、生きていたときに聞き知ったことは天地に溶けて、魂魄は真っ新になって別の組み合わせで和合するもんだが、小花はどうもちょっとだけ昔のことをくっつけたまま新しく生まれたってことらしい。

 小花は思ったね。

「どうせくっついて離れないなら、もっと役に立つようなことを覚えてりゃ良いのに。ほら、偉いお役人になるための試験じゃ、四書五経を覚えとかなきゃいけないんだろ? そんなのとかさ」

 もちろん、物語だって大好きだけどさ。どう考えたって役に立たないよね。

 こんな道ばたで物語を売ってる、あたしみたいに小花も口八丁くちはっちょうで稼ぐつもりなら、「役に立つ」んだろうけど。

「そう腐るでない。物語もいいものじゃ。どうじゃ娘、儂の書いた書を読んでみんか? だれも目にしたことがない光凜帝の足跡を記した史書じゃぞ」

 虞御史はそう言って、自分の背後にあった簡牘かんとくを一山、小花の前に積み上げた。

「このあたりは帝が生まれてから十七にして即位されるまでの事績じゃ」

「光凜帝って、そんなにちっちゃいころからいろいろやってたの?」

「いやいや、才気煥発さいきかんぱつ、お姿の美しさにおいても聡明さにおいてもほかに並ぶもののない皇子でいらしたが、帝がまつりごとにあってその徳によって民を潤し、四方をよみしたもうて千族ぜんぞくふくせしめるのは、登極されてのちのことじゃ」

 じゃあ、その「まだ活躍するまえの時代」の書巻の山にはなにが書いてあるのかと、小花は思ったが、黙っていた。物語として面白くなるのはいま山積みされているやつのあとだな、と目星をつけたね。

「興味津々なんだけどさ……あたし、読めないよ」

 虞御史は死人だけあって浮世離れしているから、山奥の里の小娘は、たいてい文字が読めないこともご存じないのさ。

 でも、浮世離れしてるけど、虞御史はいいやつなのは間違いなかった。

「おお、それは済まん」

 そう言って、

「おぬしさえよければ儂が読み上げるが、聞くか?」

 って続けたんだよ。

 小花はほかにやることもなかったし、物語と聞けば聞かない手はない。

 小花は一も二もなく頷いたのさ。帝が十七になるまでのちょびっと退屈なこども時代の話も、我慢して聞いたよ。

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