小花、薬研公主に会うこと

 小花は大河のおもてをおっかなびっくり歩いたよ。

 青年に手を牽かれていると、河に沈むことはなかった。

 河はゆうっくりと流れていて、ほとんど水音がしなかった。そしてまるっきり底が知れないんだ。

 ぼんやりと光る珠は河のかなり深いところにも流れているようだった。

 ゆらゆらと光で水を滲ませていたけれど、どれだけ小花が目を凝らしても、河の底は見極められない。

 水の上を歩けるっていっても、水を固めたりしてるわけじゃないのは、時折、爪先が水を蹴ってバシャバシャいうので分かった。

 どういう仕組みなのか小花にはサッパリ分からなかったが、こんなおかしな場所にいる男だから、彼は仙人かなにかで、水のうえを歩くのは仙術のたぐいだろうかとあたりをつけた。まあ、なんにしても人のわざじゃない。

 爪先で水を蹴るっていっても、濡れるほどでもなく歩くのに難儀はなかった。

 ……たださ、こう、微妙に……半寸ほど足の裏が水に沈むんだよ。小花は山里の里人がよく履くような猪の皮を鞣した靴を履いてたけど、爪先やら足の裏に珠が触れると、猪の皮越しにあのぼやき声が聞こえてくる。どうせ仙術みたいなので水を渡れるんなら、この珠に触れないように宙に浮かしてくれりゃいいのに、って小花は思ったよ。

 河の珠にしてみたら踏みつけにされたり蹴られたりしてるわけで、良い迷惑なんだろうけどさ。

 ずいぶん河幅のある流れをようやくのことで中州まで渡りきって、水のないところにたどりつくと、青年は、用は済んだとばかりに小花の手を放した。

 なにも言わずに宮城のなかに入っていく。

「ついてこい」も「こっちだ」もなしだったね。

 小花は追いかけるのに必死だったよ。

 青年は娘の足が彼ほどは速くないことを気にも留めていなかった。いや、小花だって山の民だ。そんなに足が弱いわけじゃない。むしろ健脚のたぐいだったね。

 青年がびっくりするほど機敏で、遠慮がなかったのさ。

 宮城のつくりは、そりゃあ立派なものだった。

 壁は巨大なぎょくを切り出した石材でできていた。ほんのりと透けて、鳳の羽根のような模様が浮かび上がっている。

 門の支柱は玄石げんせきでできていて、牡丹、蓮、夾竹桃、藤、桃……びっしりと花が彫塑ちょうそされていた。門はくろがね。普通なら扁額へんがくのある場所には尾を絡めて飛ぶ二羽の鳳凰の絵が掲げられていた。

 門をくぐるとまっすぐに道が通ってた。河の中州にある宮城さ、そんなに広くはなかったよ。左右に三棟ずつ建物があって、奥にあるじの住む御殿が見えた。

 この臨京りんきょうみたいな城郭都市の、街の部分がないのを想像してくれりゃいい。政庁の集まる宮殿の部分だけが、中州に建ってたんだ。

 宮城のなかは、驚いたことに「昼」だった。

 回廊から見える庭は光で溢れてて、桃や梨の花がいまを盛りと咲き乱れていた。

 楽しげに蝶もひらひら舞っていたね。爽やかな風が吹くと花の甘酸っぱい香りが漂ってきたよ。でも、回廊の端から覗いて上を見上げても、空は真っ白で、太陽があるようには見えなかった。

 軒反は鳥の翼のように天に延びていて、瑠璃瓦の艶はついいましがた磨き上げられたばかりのように輝いていた。

 御殿の柱という柱にはすべて彩畫さいがが施されていたね。塗りの柱に花青かしょうの梁。そこに月や星、朱雀、白虎、玄武、青龍……いろんな意匠の絵が描かれてたんだ。小花にもっともっと学があったら、その意匠の意味するところとか、どうしてそんな順番で描かれてるのか、とか、そんなことも分かったんだろうけど、もちろんそんなの彼女には分かりゃしない。

 ただ美しかったよ。仙郷ってこんなところかも、なんて思ったりした。

 あんぐり口を開けて眺め回すほかなかった。


 宮城で立ち働いている官吏は薄ぼんやり光る人々だった。しっかり人のかたちをしてるんじゃない。なんだか雲のようなものが、ふわふわと人のかたちをしてるんだ。

 男か女かもよく分からない。

 ちゃんと生身があるように見える人は、小花をどこかに連れて行こうとしてる目の前の彼しかいないようだった。

「女、驚かないのだな」

 どこまで続くか分からない宮城の回廊を右に折れ、左に折れしていたときだ。

 宮城に入ってはじめて愛想なしの剣士が口を利いた。

「驚いてないように見えるって? 驚きも驚きさ、魂消たまげたってこういうときに使うんだって思ってるよ」と小花が言い返す。

 胆力があると褒めてもらったとも思えたが、驚いてないと思われるのはさすがに心外だった。

 そうさ、あの口から生まれてきたようなおしゃべりの小花が、青年に話しかけられるまでひとこともしゃべらずにいたんだからね。

「大丈夫だ。貴様の魂魄こんぱくは和合したまま、どちらも消えていない」

 たいして面白くもなさそうに、青年は小花をちらりと振り返って請け合った。もちろん、娘の言った『魂消た』はそういう意味じゃない。

 しかしまあ、はじめて来た場所で、どう考えても尋常じゃない手段でやってきて、目の前の異様な光景を見ても叫びもしなければ泣きもしない、口をぽかんと開けて、きょろきょろあたりを見回して夢中になってる……おかしな娘なのは間違いなかったね。

 ずいぶん歩いて娘が行き着いたさきは、翠羽すいうのような絹を張り巡らせた部屋の前だった。花々を描いた格子の天井から布を垂らして、目隠しにしてるんだ。部屋の奥には偉い人がいる、呑気ものの小花にだってそのくらいは見当がついた。

 丹塗りの柱にはすべて金泥で牡丹をくわえたおおとりが描かれていて欄間には竹林で鍬を振るう美髯びぜんの男と種を播く結い髪の女が彫刻されている。

薬研やげん公主、常ならぬ者をお連れしました」

 青年が絹の向こうに話しかけると、

「ご苦労でした」

 と、おっとりした女の声が返ってくる。

 小花はこれまた魂消たものさ。もう何回、魂消てるかしれたもんじゃないけどね。

 だって、薬研公主といえば、小花の集落の言い伝えによれば冥界の女主人だ。

 あたし、いつのまに死んじまったんだろう?

 常ならぬ者って、そりゃあたしのことかい? あたしのどこが普通じゃないって?

 小花はもう、疑問で胸が張り裂けそうだった。それでも黙ってたのは、遠慮してたんじゃなくて、喉元で言葉が渋滞を起こして、もごもごしてただけさ。

 そのときさ。

 さっと絹が払いのけられて、声の印象と変わらない、おっとりした表情の貴人が姿を現したんだ。

 凛とした立ち姿が小花の目に飛び込んできた。

「女、が高い」

 青年が不愉快げに言ったけれど、まあ、小花はそれどころじゃなかったね。

 だって、出てきた貴人はそりゃあもう、夢みたいに綺麗だったんだよ。

 歳はよくわからない。一見いちげん、小花とおなじくらいに見えたけれど、ゆったりと落ち着いてるさまからして、とても小花と同い歳には見えなかった。

 衣装は混じりっけなしの黒一色、黒曜石ってのがあるだろ? あんな色だった。

 つるばみ染めってあるだろ? 士大夫したいふが好んで着る色さ。知ってるかい? あの色は小花の住んでる陸丹みたいな山里の女が染めるのさ。穀物のほかに、そんな税も納めてるんだ。

 山里の若い娘が重ね染めして国府に納める絹の色だってそりゃ、美しいけどね。でも、薬研公主の召し物、あれは橡を千回重ねて染めたってあんな色は出ない。

 あまり派手はお好みでないのか、装飾といえば金の冠に飛鳥を象った鼈甲の簪、簪の飾りに紅玉の珠飾り、そのくらいしか見えなかったけれど、そのひとつひとつが溜息が出るほど美しくてね。

 なにより、薬研公主によく似合ってた。

「黎明君、よいのですよ」

 薬研公主はそう云った。

 ここで小花は自分をここに連れてきた無愛想な剣士が、黎明君って君号持ちってことを知ったんだ。

 辛気くさい表情と言い、愛想の欠片もないとこといい、黎明君ってよりは落陽君ってほうが似合ってると思ったね。

「突然、こんな場所に来てしまって驚いたことでしょう。大丈夫、もとの場所に戻れますよ。わたくしは、この月震宮の主で、薬研公主と呼ばれています。あなたの名は?」

「英州、陸丹の里の小花ってんだ。あ、小花はあざなで……。あの、月震宮で薬研公主というと、ここは冥界ってこと?」

「そうね。冥界の端。でも心配ないわ。あなたは死んでここに来たわけではないの。まれにあるの。千年に一度くらいかしらね。なにかのはずみにあちらとこちらが繋がって、たまたまその繋がりを辿ってひとがこちらにやってくるようなことが」

「ああ、そうか。あの穴!」

 小花は納得した。

 裏山で落ち込んだあの穴が、薬研公主の言う、なにかのはずみに繋がったみちだったんだ。

「いまはもう、あなたのやってきたところは塞がってしまっています。ですから、あなたをあちらに還すためには夫の手を借りる必要があるの。心細いとは思うけれど、二、三日だけ待ってもらえるかしらね」

 心細いなんてとんでもないことだった。薬研公主の声も姿も、どこもかしこもまろやかでね、小花はすっかり信用したのさ。ああ、この方がそう言うなら大丈夫だって。

 それは決して裏切られることはなかったよ。

 この物語の終いまで、ね。

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