小花、里人を冥界に誘うこと
里社と里の境にある壁の下には細い割れ目があった。里の門が正面だとすると、里の裏側にあたるところさ。最初は猪が地面を掘った窪みだった。雨水がたまって緩くなり、それを
北狄もやってくる土地柄なのに不用心だな、と思うだろう? 『蟻の一穴』って
それはともかく、十七の小花にはかなり小さな割れ目だけど、ひょろりとしてる彼女ならなんとか通れたんだ。でもさ、穴に腕の傷が擦れて痛いのなんのって! おまけに泥だらけさ。
でも、小花がこれからやろうとすることを思えば、
里は息を潜めているようだった。ざわついてはいたんだ。あちこちで男が言い争いをする声がした。日常の騒がしさじゃない。浮ついた騒がしさの底で、つぎになにが起きるのか、息を潜めて伺ってる……そんな感じだったね。
まったく、逃げるってな、勢いがいるんだね。
もちろん「里を守る」ってのも一案だ。逃げたら命以外は
北狄は
でも、やつら、里人を探して山狩りすることは滅多にない。
なんでかって?
そうやって里人を生かしておいて、大麦や
都のやつらだって税だの労役だのって収穫やら人手やらを取っちまうからね、さて、どっちがいいのかね。あたしなんかにゃもう、分からなくなっちまった。
あたしの考えはともかくもね、そのとき、若い小花は逃げた方がいいと思った。
たとえ収穫物を根こそぎにされようと、家を荒らされようと、逃げて身を隠せば、命は取られないし、女だって酷い目に遭わない。それがなによりだと彼女は思ったんだよ。
山里はなにもかもがごちゃごちゃしてる。壁の内側にみんな入れておかなきゃならないからね。いまあたしの立ってる
小花はとりあえず里でいちばん目立つところ……里長の家の脇に立って、声を張り上げたものさ。
「聞いとくれよみんな! もうすぐ北狄の騎馬兵がここにくるよ! 西のほう、三里のあたりさ。いまはもっと近づいてるかも知れないね。この里に続く道を探してる! あたしゃ、やつらから命からがら逃げてきたんだ!」
そう大声を張り上げて、剣の傷を示して見せた。
ほかの里人もあっちこっちからぞろぞろ姿を現した。
里人はみんな、あたしが三日ほど姿をくらましてたことは知っていた。狭い里だからね。行方知れずになってた娘が、突然、帰ってきて騒いでる。怪我もしてるし、なんだなんだと思うじゃないか。
「あたしは里の一大事だと、
これ見よがしに左腕を振り上げれば、剣の傷口がぱっくり開いて腫れてるって寸法だ。血はかなり流れてた。服に染み通って片袖が真っ赤だった。
「里の大事を言付かって、こっちに呼び戻されてみりゃ、もう北の山の峰を越えてやつらが迫ってた! 四、五百人はいたね! 息を潜めてやり過ごそうとしたけど、見つかっちまってご覧の通りさ! でも槐爺の言付てを届けなきゃって、死に物狂いで逃げてきたんだ!」
騎馬兵の人数とか、話はずいぶん盛ったけど、大事の前の小事ってやつさ。
小花は日頃からおかしなことを喋ってる娘だったから、ただ「里社爺から聞いたんだ」と言うだけじゃ、またいつもの
だから怪我をしてる必要があった。剣傷があれば、北狄兵に遭遇したって作り話の部分がもっともらしくなる。だれも自分で傷を付けたなんて思わないからね。
紅い血は目立つし、人を慌てさせる。
「逃げるなら里社だよ!」
小花は里社のほうを指差して駆けだした。あれこれ問いただされたら
「怖い北狄がここに来るよ! すぐ来るよ!」って声を張り上げながらね。
里人は砦がふたつ落ちたのも知ってる。もともと逃げるつもりで荷造りもしてたんだ。
胥吏の衛建の顔色も変わった。自分だって北狄は怖い。そう思った瞬間、浮き足だったんだろうね。どうせ『もしかしたらたいしたことにはならないかもしれない』そんな甘い期待で逃げるなって言ってたんだ。
「五百人の北狄兵とどう戦うんだよ! 逃げるが勝ちさ! 匿ってやろうって、里社の槐爺さんのお告げなんだよ!」
小花は盛大に痛そうな顔して、左腕をあげて里のあちこちを駆け回った。
衛建もまた自分の家に駆け込んで、出てきたときには金目のものを袋に詰めて出てきたんだ。
里に残れと言ってた胥吏が逃げ出す。
あとは早かったね。
「里社だ! 槐爺さんのご加護がある!」
みんな怖いな、と思ってるんだ。
そんな気持ちだから、だれかが逃げ出すとあとは早いのさ。
「騎馬兵がやってくるよ! 逃げろ! 里社爺さんのところだ!」って言い回ってると、
婆さんは一年前に連れ合いの爺さんを亡くしててね、「逃げたってしょうがないよ」と縮こまってた。
「あたしゃね、じいさまの位牌を守ってここで死ぬんだ」ってね。
手を牽いても、背を押してもびくともしない。
気持ちは分かるんだ。婆さんは里で育って三軒隣の
でもそうじゃない。
小花は思った。
家には思い出がたくさん詰まってて、運が悪けりゃ荒らされるだけじゃなくって今日を限りに燃やされちまうかもしれない。でも、違う。
爺さんのことは、寧寧婆さんが生きてる限り、残るんだ。この村の誰かが生きてる限り、思い出せるんだ。
爺さんの思い出は、物に宿ってるんじゃないんだ。
小花は言葉を尽くしたよ。でも、婆さんは耳を塞いで聞いてくれなかった。
小花は聯星にもらった丹薬を思い出した。
人の陽の気でできてるって、やつさ。
『魂魄のちからが弱っている者に与えれば、気力が湧く』……聯星はそう言った。 なら、なんとかなりそうじゃないか。
小花は婆さんの鼻を摘まんで、丹薬を一粒、口に押し込んだ。
するとどうだい。「勝手にさせとくれよ」「ほっといておくれよ」と泣いてた婆さんが泣くのをやめて鼻を啜り始めた。
「ね、今日のところは逃げようよ。方爺さんの位牌を持ってさ」
今から行くのは冥界だからさ、もしかしたら向こうで爺さん待ってるかもしれないよ、ってのは言わなかったよ。いろいろ誤解されそうだし、もし会えなかったら末代まで祟られそうだったからね。
ほかにも何人か、駄々を捏ねる爺様やら風邪を引いて寝込んでた孺子がいて、丹薬を飲ませたところで、薬もなくなった。小花はのろのろと動き始めた逃げ出す人混みを掻き分けて、自分の家に寄ってから里の
気がつくと、陽がだいぶ傾いていた。
里社には祀りのときみたいに人が集まっていた。
みんなありったけの荷物を持ってたから、祀りのとき以上の雑踏だったね。
まだ完全に日が落ちてたわけじゃなかったけど、里社には背の高い木も多かったから、足元はもう暗かった。
ここまで来たら、もう大丈夫だ。里社には有り難い姿の槐爺がいる。みんな姿は見たことないけど、槐爺が里を守ってくれてることを疑ってるやつはいないからね。あの姿を見たら、「ああ、助かった。もう大丈夫だ」って思うはずさ。
小花も家から自分の荷物を引っ張り出して
といっても、たいしたものはないよ。衣装は着たきりだし、兄夫婦のやっかい者だから自分用の家財道具もない。
身の回りの小物と、酒の壺をひとつさ。
遠州のこのあたりじゃ、
小花の地方にも似たような風習はあってね、壺に鳥の絵を描くんだ。
こっちだと米で仕込むんだろうが、陸丹のあたりじゃ蜀黍で仕込む。
蜀黍酒は、十年以上寝かせりゃ、そりゃあもう、きっつぅい酒になるんだよ。熊だってひと舐めでイチコロだね。
それを婚礼の酒宴で花婿にしたたかに飲ませて潰す。新婚の床で花嫁に待ちぼうけを食らわせた花婿を笑いものにする、ってとこまでが婚礼の仕来りだ。
初夜についちゃ、二晩めが本番ってことになってる。一晩めでちゃんとやる男もたまにいるけどね。
なんでこんなしきたりがあるのか、だれが決めたのか小花は知らないけど、なにせ黄帝の御代からある由緒正しい婚礼作法ってことになってて、娘を授かった親は、大切に酒を仕込むんだよ。槐爺に挨拶してから山に入って取ってきた土を父親が捏ねて壺を焼き、母親が鳥の絵を描くんだ。
そうしてその年の一番出来のいい蜀黍を選んで酒にする。大事な娘を取ってく
小花にとっちゃ、それが唯一の親の形見だった。
里社の真ん中にある
槐爺さんが里長と話してるのさ!
「いまから行くところでは、そこにあるものを食べてはいけませんぞ。鶏は籠から出さないようにな、牛にもきちんと
里長なんかちゃんと話を聞いてるのかね……涙を流さんばかりに拝んでたよ。
槐爺さんは人だかりのうしろのほうにいる小花に気づいたようだった。小花は聯星のことが気になって、熊避けの札を額にあてて、彼がなにをしてるのか、無事なのかを確かめようとしてたんで、槐爺のことはあんまり見てなかったんだけどね、小花を見てにこりと笑ったよ。
小花が来たからにはこれで里人は最後だろう、そう思ったんだろうね。槐爺さんの皺くちゃの手の中で、薬研公主から預かってた
で、槐爺さんの横に、棨は立ち上がって広がったのさ。牛や人が通り抜けられるくらいにね。
そのときだったよ。里の表側、門のほうでおおきな物音がしたんだ。馬の嘶きも聞こえた。大声がした。北狄の言葉はよく分からないけど、たぶん「門を開けろ」とか「食料をよこせ」とかだろうね。
そうさ、間一髪、間に合ったのさ。
里の者は我先にと棨の輪っかのなかに入っていったよ。兄夫婦も、小花もね。
棨の輪っかのなか……ぽっかり開いた黒い穴だったんだが、小花は自分が落ちたときの穴も、きっとこんなだったに違いないと思ったね。
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