閑話

臨京の大通りで剣士が盗人を捕らえること

 里人さとびととともに小花しょうかが冥界に下っていったところで、物語売りの語りが一段落した。うらうらとした春の陽射しは幾分、西に傾きつつあったが、まだ暖かい。江帝廟の真新しい巴黎緑パリーリューいらかに照り返す陽の光も、昼のまばゆさだ。

 しかしそろそろ風向きが変わり始めていた。

 河風は、昼間は河から陸に、夜は陸から河へと吹く。

 とはいえその名を延天北路えんてんほくろと称する臨京の大通りは相変わらず賑やかで、夕暮れを予感させるところはまだその河風くらいしかなかった。

 物語売りはふところから竹筒を取り出し、栓を抜いて一口、なかの水を口に含んだ。

 そのときだ。

 一閃いっせん、銀光がはしって聴衆のひとりが腰を抜かした。

 しばらくまえまで帝の座所すらあった臨京の大道だいどう、綺麗にならされた地面に尻餅をついて震えている。へたり込んだ男の着物のあわせ、そして右足に履いたくつが、すっぱりと斬り裂かれていた。

 着物の袷からは男物、女物、五つばかりの財布が地面にこぼれ落ちている。

 ――聴衆を装った巾着切りだ。

 物語売りの話に夢中になっている聴衆の懐狙いに精を出していたとき、剣士に服を斬られた、ということなのだろう。

 慌てて逃げだそうとしたところが、すでに沓も斬られていたために片方脱げてしまって蹌踉よろけた、というところか。

 けれどもはだけた男の胸、沓の脱げた足の甲には傷ひとつない。

 男の動きは素早かった。盗みが露見するような折所せっしょには慣れているようで、すぐさま我に返ると足をばたつかせて立ち上がり、なにが起こったのかと集まりだした聴衆を、右に左にぶつかるように押しのけて逃げだそうとした。

 盗人のもとどりが飛んだ。

 逃げる男の左足、まだ沓を履いているほうの足が地面に縫い止められる。

 男は足が地面から離せなくなり、逃げようと駆けていた勢いもあって、どう、と派手な音を立てて地面に倒れ込んだ。

 縫い止められた盗人の足は、沓の口から剣先を突き入れられている。

 やはり男に傷はなかった。

 剣士の腕前は、薄紙一枚を見極める神技だ。

 盗人には傷ひとつないとはいえ、髻を切られてしまって被髪ひはつのありさまで、成人すれば髪を結わないまま人前に出るのは恥ずべき振る舞いと考えられているこの中原ちゅうげんでは、なかなかみっともない姿になってしまってはいる。

 いまのありさまでは、このまま首尾良く逃げ出せたとしても髪が長くなるまで人混みに紛れ込んで盗みを働くのは無理だろう。

 盗人がなおも藻掻いているところを、聴衆のなかでも身体のおおきい男たちが盗人の背を踏みつけて押さえ込んだ。

 剣士は盗人の沓と地面を縫い付けていた剣を抜いて構え直す。

 剣士の持つ剣、丈は三尺。柄と鞘はあおぐろ、刀環には南海の三つ首の獣、双双そうそうが金で意匠されていて、柄には菱紋のかたちに革が巻かれてある。

 白刃は春の光を写したかの如く清く蒼く澄み、日輪をうけてきらりと光る。

 それが、物語売りが物語のなかで語った聯星れんせいの得物、玄河げんかとそっくり同じであることに、聴衆の何人が気付いたものか。

 剣士が剣を抜いて盗人ぬすびとを斬ったのだ、というのは周りにいた客、だれしも理解できた。

 だが、彼が盗人に近づき剣を抜くところを、見た者はなかった。

 なにか視界の隅で光った、と思った途端、このありさまだったのだ。

 剣の一致に気づかぬ者でも、その剣技の冴えに、物語のなかの聯星を思い起こさぬ者はいない。


「貴様の手練てれん、余罪もおおいと見受ける。いまここでその首刎くびはねて、冥耀君めいようくんのもとに魂魄こんぱくを送ったとて大過たいかあるまい」

 剣士が不機嫌にそう言った。彼はつねに物語売りのうしろに立って、不機嫌に見える無表情以外の表情をその顔に浮かべたことはなかったのだが、いまは『ほんとうに不機嫌だ』と分かる。

「ちょいと旦那、済まないが急いで警邏けいらを呼んでくれないか?」

 物語売りが押さえ込まれた盗人の近くにいた聴衆に声を掛けた。

「ほっとくとこの不届き者の命が危ない。もちろんあたしのお客の巾着を狙うなんざ、ゆるせない悪党だが、命まで取るのはさすがに物騒が過ぎるってもんさ。こんな小悪党、冥界の獄に送るよりは現世の裁きをきちっと受けさせて、この臨京の城壁の修繕でもさせた方が世のためだよ。頼むよ」

 やすいことだと、聴衆のなかのひとりが小走りに去って行き、ほどなく廟前市びょうぜんいちを見回っていた警邏を連れてくる。

 警邏が地面に突っ伏してバタバタしている男と、すこし離れたところに散らばっている財布を確認し、物語売りの聴衆、数名の証言を聞いた。

 盗人に間違いなしとして引き立てていったあと、物語売りは地面に落ちていた財布を持ち主に返していく。

 この財布はだれのだい? という呼びかけに「私の」「いや俺のだ」「いやいやあたいのだよ」なんていういさかいは起こらなかった。

 みな、なにごともなかったように剣を鞘に収めたのち、ふたたび貝のように押し黙って物語売りの背後に戻った剣士の視線が気になるようで、ほんとうに自分のだと確信している者しか名乗り出ない。

「まあ心配しなくていいよ、この剣士殿はときどき加減を知らなくなるが、道理はわきまえてるいいやつなんだ。そうだ、ちょうどいい。ここで物語の剣士殿……聯星がどうしてたか、すこし話しておこうか。小花と別れた後の話だ。北狄の騎馬兵相手に鬼神の働きをした彼の話さ。小花があの遠見のできる熊避け札で見てたことさ」

 てててんてんてんてん

 物語売りが骨張った指で、鼓をった。

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