陸丹に伝わる冥界の話

 さて、どうしようかね。

 好色魯鈍こうしょくろどんな帝をたらし込み、いにしえの王朝を滅ぼした妖狐妲己ようこだっきの話は昨日したな。主君のために知力を尽くして戦い、悪逆非道の皇帝を倒して新しい王朝の礎を築いた魚釣りの話は一昨日おとといだ。ちょっとした善行をして龍神の娘に惚れられ登仙とうせんした男の話は……ありきたりか。そうだねえ……耳の肥えた臨京のお歴々も唸らせるってんなら、これだな。今日はとっておきもとっておきの話をしよう。

 お立ち会いのみなさまは、冥界が実はふたつあることをご存じか?

 道家と儒家の説く冥界の違いってことかって?

 違うんだよ。ありゃ宗派違いというやつさ。ものの見方が違うってだけで、行く先は一緒なのさ。そもそも儒家はあんまり死後どうなるって言わないだろ?

 たとえばおなじ宗派、おなじ里の生まれの隣人でも、行く冥界が違うことがある、そういう話さ。

 なに、そんなの聞いたことがない?

 でもさ、言い伝えはいろいろあるだろ?

 そちらさまは……ほうほう、そんな話を聞いたことはあるけど、ほかに冥界はひとつだって言い伝えもあるから、なにが正しいのか死んでみるまで分かりゃしないって?

 そうだね、あたしだってこの目で確かめるまではなんとなく冥界はひとつだと思ってたよ。じつはあたしの故郷には『ふたつの冥界』の言い伝えがあるんだ。でも、いくら伝説があるったって、もうずいぶん長い年月が経ってるんだ、とっくにひとつにくっついてると思うじゃないか。でも、いまだってふたつに分かれたままなんだよ。

 馬鹿言うんじゃない、どうやって確かめたんだって?

 そりゃね、ふとした弾みってもんなんだよ。

 いまからあたしの語るのは、このあたしが冥界に下ったときの話さ。

 まあ、そのまえに、冥界の縁起をひとくさりしとこうか。遠州のこのあたりじゃ、すこし違う話で伝わってるかもしれないけどね。

 あたしの生まれた英州枇岳びがくの山の奥、陸丹りくたんの里に伝わるのはこんな話だ。


                  *


 現世うつしよと冥界が分かたれぬころ。そう、これは昔々、妖狐妲己がしゅうの帝をたらし込むよりももっとまえ、天地開闢のあとにおこった三皇五帝の時代のことさ。


 太古の三皇のひとり神農しんのう氏にはたくさんの息子があり、そのひとりの祁元きげんは西を治めていた。祁元の息子は祁鴻きこうといい、たいそう英邁な皇子だった。

 祁鴻は長じて国を継いだのちに、神農氏の教えを深く学んで農地を開墾し、氏に学んで治水をして国を拡げ、東海を治めていた燧人すいじん氏に教えを請うて火を国にもたらし……まあ、八面六臂の働きで国を富まし、民からは光凜帝こうりんていと崇められていた。

 光凜帝の国のさらに万里の西、この中華の西の端も端に冥界があった。

 このころは現世と冥界は地続きだったのさ。

 冥界を治めていたのはこれまた三皇のひとり伏羲ふぎの血を引く氏、その時の君主の名は微啓伯びけいはく。君号を冥耀君めいようくんと号した。彼は中原の姫をめとったんだ。

 光凜帝が現世と冥界との永遠の友誼ゆうぎあかしにと勧めたのさ。輿入れが決まった姫の名は祁梓萱きしかん。光凜帝の妹で、婢妾の母の形見の薬研やげんを大切にしており、薬研公主とあざなされていた。

 彼女はこころ穏やかで美しく、兄とともに神農氏の教えをよく学ぶ賢さも備えていた。

 だが、この婚姻は譎詐けっさだった。いや、婚姻自体はつつがなく、盛大に行われたし、姫は万里の山河を越えて冥耀君の宮城の一角に宮を得たよ。

 光凜帝の『友誼』、ってのが嘘だったのさ。

 光凜帝は時を置かず冥府に攻め入った。つまり公主は故郷に棄てられたってことだ。

 虚を突かれた冥耀君は、一時は国土のほとんどを獲られ、冥界の深奥、死者しか足を踏み入れること叶わない難攻不落の闇盈宮あんえいきゅうに立て籠もって戦わざるを得ないところまで追い詰められたんだ。

 だが、冥耀君もさるものだった。

 死者の魂魄を白鳥に宿して、光凜帝の軍の背後を突いたのさ。

 冥耀君は自身の大いなる祖、伏羲のきさきだった女媧じょかに教えを請うて漆黒の龍に変化し、光凜帝の首を獲ろうとした、とも伝わるね。これは光凜帝の腹心中の腹心、常厳じょうげん将軍が己が身と名剣森羅しんらを犠牲にして守ったことで食い止められた。

 冥耀君のこの起死回生の策で常勝の将軍が亡くなったこともあり、戦は五分に戻った。

 光凜帝をはじめとした人界の将軍たちも強かったが、冥耀君だってそれに劣る者ではなかったから、戦は一進一退、どちらが勝つとも分からない。

 戦火数歳。

 戦の酷いのはいつの時代、どこの国だって同じさね。

 家が焼け田畑が荒れ喰うものに困り、娘や母が酷い目に遭い、息子や父が死ぬ。ほんとなら遠い国の関わり合いになるはずもなかったやつらのことを憎むようにもなる。

 光凜帝と冥耀君の戦いもそうだったのさ。

 山河は枯れ、民はことごとく屍となって大地に腐臭を放った。現世の民が死ねばそのぶん冥府は力を得る。しかしその百万の屍をまえに、冥耀君は現世と冥府を分かつこととした。天のことわりに依らない繁栄を冥耀君は望んでいなかったんだろうね。

 薬研公主は現世に帰されなかった。もちろん殺されもしなかった。

「来よ」

 と、冥耀君は公主をいざない、彼女を自身の座所である冥府と現世の境、月震宮げっしんきゅうに封じたのさ。

 現世から冥界へと流れる大河の中州にその宮城はあるんだ。昔も、いまも、ずうっとね。

 敵の姫とは言え、冥耀君は彼女のことをずいぶん好いているようでね、冥府の深奥、闇盈宮の彼の玉座のあるところから、足繁く通ってくるそうだ。

 なんでずっと一緒にいないのかって?

 薬研公主はもともと生者で、生者のまま死者の世界に輿入れしたから、生者の気が必要なんだ。加えて冥耀君は戦の最初に龍に変じたことによって、冥界の奥深くからあまり長いあいだ出られない身体になってしまっていた。

 だから、冥界の真ん中と端っこがふたりの住まいで、そんな境遇に負けず、事情が許す限りいちゃいちゃしてるのさ。いまだってそうなんだ。何千年もまえの話だってのに、理無わりない仲っていうのかね? まだまだふたりは熱々なんだよ。


 ま、まあ、そんな話はさておき、さ。

 ……そっちをもっと詳しく話せって? 姑娘おじょうさん、その気持ちは分かるが、それはまた別の話さ。

 ともかくそれで戦は終わった。そりゃそうだな。戦ってた相手が跡形もなくいなくなったんだから。光凜帝はだれもいなくなった荒地に国を拡げて、さらに国を富ませた。光凜帝の名声はさらに高くなったのさ。

 それで光凜帝の望みは果たされたのかって?

 どうだろうねえ……じつは彼の本当の目的は違ったって話がある。国盗りが彼の目的じゃなかったんだってね。

 一書いっしょによれば、彼は死後の世界が怖かったと云うね。生きてるうちは彼は帝だ。なにも恐れることはない。しかし死んだらそんな地位は無意味になっちまう。みんな冥耀君の威光に服さねばならない。

 そんなのはまっぴらだ、彼はそう思っていた、ということだ。

 もちろん光凜帝にも終焉のときは来る。いくら神農氏のすえとはいえ、人の血が混じっているからね。

 でも、その説に従えば、光凜帝は冥耀君の座す冥界に降りるのは死んでもいやだった。だから彼はもうひとつ、冥界を造ったんだ。

 光凜帝は現世の地下に巨大な墓陵を造り、死してなお冥府に降りなかった。

 だからいま、あたしらの行く冥府は、ふたつある。冥耀君の冥界と、光凜帝の造った冥界。どっちに行くかは運次第……今日のあたしの話は、このふたつの冥界と、人界と冥界のあいだ、月震宮に御座います薬研公主、そしてひとりのおしゃべりな娘っこについての話さ。


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