第2話 ファースト・コンタクト
全ては上手くいっている。内容も形式も完璧だ。
唯一残念なのは聴衆がたったの十一人しかいないことだが、この場は国際セミナーでもノーベル賞受賞講演でもなく、ただの大学教養課程のゼミだから仕方ない。けれどだからといって手は抜かない。最後まで精密かつ正確な論理展開を心掛ける。
「……以上です」
「武大くん、ありがとう。大変見事だったよ。このまま学会に持っていきたいぐらいだ。間違いなく高い評価を受けるだろうね」
竜仁は
「今日はここまでにしようか。次回の発表者もきちんと準備をしておくように……と言っても、武大くんほどのレベルは求めないから安心していい。そんなの僕にだって無理だ」
彦坂が本気っぽい調子で付け加える。ゼミのメンバーが小さく笑う。
「じゃあ解散」
おつかれさまでしたー、という挨拶や雑談、身支度の音などで周りが騒がしくなり、頬杖をついていた竜仁ははっとして面を上げた。
わらわらと人が集まってくる。ゼミを主催するのは教官の彦坂だが、中心たるべき存在は別にいた。
「おつかれー。ほんとにすごかったね。来週あたしの番なんだけどさ、超プレッシャーだよ」
二年の花見沢恭子がやれやれというふうに肩を竦めた。やや派手めの化粧と服装が目立つが、議論の際には積極的に発言することも多く、なかなかに優秀だ。それだけに嫉妬や嫌味と受け取れなくもない台詞だが、声の調子や表情から、素直に相手を認めているのが感じられる。
「ありがとうございます。初めての発表だったので、頑張ってみました」
「偉いっ。あたしが一年の時なんてさ、ゼミに入ってさえいなかったもんね。試験の時にはとっても頼りになりそうだわ。どの講義取ってるか教えてもらってもいい?」
「はい、いいですよ」
あ、俺も知りたい、私もー、と追随する者が次々と現れる。そして「せっかくだからこのあと飲み行こうぜ。今後のより良いキャンパスライフの実現を目指して」「なんだその寒い選挙公約みたいなの」「だけど賛成ぇー」となるのはごく自然な流れだった。
「いてっ」
傍を通る誰かの肘が頭に当たる。だが竜仁が呻いたのを気にする者はない。今いる皆の関心は、ひたすら隣席の
しまいには「邪魔だなこいつ」みたいな舌打ちをされるに及び、竜仁はそそくさと持ち物を片付けた。背中を丸めて立ち上がる。
「お疲れさま」
鷹司が
「……っす」
竜仁はぼそぼそと口の中だけでねぎらいを返した。あるいは聞こえなかったかもしれない。鷹司は無視されたと思っただろうか。気を悪くしていたらどうしよう。
だが振り向いて確認することもできぬまま、竜仁は小教室を後にした。
竜仁が志望の大学に合格し、一人暮らしを始めてから半月ばかりが過ぎていた。
これまでの地味でぼっちな日々は終わりを告げて、楽しく華やかなキャンパスライフの幕が開く、などと本気で期待していたわけではない。
それでも何かは始まるのだと思っていた。
趣味を同じくする仲間ができて、飲み会に参加したり、誰かのアパートに集まって一晩中だべったり、特別に美人じゃなくても気の合う女の子と出会って仲良くなったり、そういう普通のときめきが行く手には待っている。
そんなことはなかった。
同じ高校出身の知り合いもなく、サークルにも未だ入らず、自分から誰かに話しかけることもない。平均より小柄というほかは外見的にも取り立てて特徴のない竜仁だ。ただ歩いていても幸運にぶつかるわけもなく、息をしているだけで時は後ろに去っていく。
動画配信サイトでアニメを何本か視聴したあと、竜仁はパソコンの電源を落とした。部屋の灯りを消して、敷きっぱなしの冷たい布団に潜り込む。嫌な感じに体が重い。泥の中に沈み込んでいきそうだ。もう動きたくない。だけど動かなければ始まらない。新たな未来は開けない。きっと灰色に塗り潰された四年間はうたかたのように消え、その先はさらに暗い淵へと落ちていく。
しかし竜仁は間違っていた。古来よりの格言に曰く、寝る子は育つ。また曰く、果報は寝て待て。現実の殻を割り破り、夢の扉をくぐり抜ければ、新たな世界が生まれ出づる。
――あれ、なんだ。どうしてこんなに眩しいんだ?
まどろむ意識に導かれ、竜仁はぼんやりと上を見やった。
光る球が浮いていた。瞳を灼きそうなほどの輝きを放ち、輪郭が揺らめくごとに、白金のさざなみが宙に立つ。怪しい心霊写真などとは次元が違う。まさに完全無欠の超自然現象だ。
けれど不思議と恐怖は感じなかった。ずっと昔から知っている。手を伸ばせば触れられる。そんな懐かしく慕わしい気さえする。
――ああ、やっと見つけた。
心の中で声が響く。可憐なのに力強く、それは竜仁の最も深い部分を震わせた。
――我が君、どうか我を再び
ずいぶんと時代がかった言い回しで
竜仁は迷わなかった。ほとんど考えさえもしなかった。
――いいとも。君の主に僕はなろう。
自分という存在を認めてくれる。たとえ相手が何だとしても、受け入れる理由には十分だった。
だけどこんなに眩しいものが傍にあったら、ずいぶん苦労する破目になりそうだ。
再び闇に沈んでいく意識の片隅で思う。まさにその通りになった。
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