一線上のアリア
空良 明苓呼(別名めだか)
前編
2016年3月11日。湯気を上げる温かなコーヒー。ソーサーに添えられた小さなクッキー。僕は毎年ここを訪れている。
僕をもてなしてくれている目の前の女性は、コーヒーを啜りながら薄い微笑みを浮かべた。
「みーんな失くなっちゃったもんね。ぜーんぶ失くなっちゃったよ」
僕は毎年ここを訪れている。この言葉が癒えるのを確かめるために。
***
2011年5月。
皐月の熱気でゆらゆら揺らめく瓦礫の中を進む。これが太古の遺跡か何かならば、きっと蜃気楼の向こう側には、かつて栄華を誇った煌びやかな古都が浮かぶのだろう。
けれどもこの冷たい残骸たちは、2011年3月11日を剥き出しにしたまま、ただただ静かに、熱い日射に打たれている。
ふいにひらりとたなびく紙片を認め、サクサクと歩み寄る。近付くと当たりだった。視力2.0。たまには役に立つ。
小さな長方形の中に、『入学式』と書かれた大きな立て看板。その横に満面の笑みで並び立つ両親と女の子。見つけて欲しくて蝶のようにひらめく褪せた写真は、家族の想い出そのものだった。
入学式も、笑顔も、地震も、津波も。
全てはZ市で起きた出来事で、後者は前者を洗い流してしまった。三陸沿岸の地方都市であるZ市は、あの日、なすすべも無く大津波に飲み込まれたのだ。
被災地ボランティアとして東京から訪れた僕は、現在Z市内で写真収集を行っている。今まで避難所の雑用全般を引き受けてきたが、関西のNPOが被災した写真の洗浄を開始したため、しばらく回収係に任命されたのである。
Z市中心部は熱心な報道のお陰で、今やボランティア数が過剰になりつつあった。郊外への再配置を待つ間、少しでも人員を有効活用しようというわけである。
ジリジリと帽子を照り付ける太陽を睨み上げる。傾き具合からいって、そろそろ帰路に着かなければ。今日は宿泊先まで直帰することになっている。長距離を歩き回る肉体労働の後に早く帰れるのはありがたい。
昨日、ボランティアの途中で倒れた友人のことも心配だった。
津波に加えて火災が発生したZ市X地区。大規模火災の跡地を見た友人は突然嘔吐を催し、自力で立ち上がれなくなってしまった。大の男が急に動けなくなったことに慌てる自分の前に、颯爽と黒い軽自動車が現れる。
「どうしたの? 君大丈夫?」
顔を覗かせたのは30代後半辺りの男性。いかにも人当たりの良さそうな笑顔だった。
「お、思い出して……」
絞り出すような友人の言葉に愕然とした。
「そうや! こいつ神戸出身なんです」
自分の叫びに得心の行った顔になる男性。
「…………そうか、大変だったよね。俺アツシっていうの。何処泊まってるの? 送って行ってあげる」
当然といえば当然だが、被災地は深刻な自動車不足に陥っている。自家用車で被災地入りしていないボランティアは、自力で何とかするのが鉄則だ。この親切な青年がいなければ、僕は友人1人運ぶことが出来なかっただろう。
「こっちが助けられちゃったなあ。今度お礼しないとなー」
そんなことを呟きながら、近道と思しき通路を発見する。ここはすでに捜索済みだったはずだが、行方不明者が居るかもしれない。慎重に足元を確かめながら、恐る恐る水溜まりへ脚を突っ込む。
「そこの人!! すぐに止まりなさい!」
後ろからの叫びにギョッとして振り返る。てっきり捜索をしている消防団かと思ったが、声の主はスーツとシャツの中年紳士だった。この場にはまるでそぐわない格好。
「君、それ長靴だろう!」
「あ、はい。ホームセンターで買った……」
「ダメだダメだ! ほら、見なさい」
漁業用の長靴なのでそんなに不便していないが、一体何がダメだったのだろう。この人は何を一生懸命、自分の長靴を脱いでいるのだろう。何を見せてくる気だろう。
そんな甘ったるい好奇心は、中年紳士の足にぐるぐる巻きにされた包帯を見た途端吹き飛んだ。
「同じことを私がやったんでね。X地区の水溜まりはぬかるんでて、そこに瓦礫が突き出してるんだよ。鉄筋が足を貫通してこの
話を聞くと中年紳士は保険屋だった。にわかには信じられなかったが、震災当日から1日も休みを取っていないらしい。自身の家が流され、家族を避難所に置いたまま。
「一刻でも早く保険を下ろさなければ、みんなやっていけないし、こんなことで自殺者が出るかもしれないだろう」
紳士は語るだけ語ると静かに泣き始めた。身内には話しづらいことばかり、2ヶ月間心に降り積もっていたのだろう。
彼が教えてくれた帰りのルートには水没箇所がひとつも無く、宿泊先が見える坂に辿り着く頃、ちょうど太陽が沈み始めた。
避難所は高台にあるため、写真収集を始めるまでここを歩いたことはほとんどなかった。坂の下は瓦礫の海。ボランティア帰りに歩くこの長い上り坂こそ、黄泉比良坂なのではないかと思うことがしばしばあった。
坂に引かれた一線が、それを大いに際立たせていたのだ。
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