ブッコローで恋して

渡唯

第1話 夜空には願わない

 小さな窓にかかる薄いレースを超えて、淡い月明かりが部屋を照らしている。古い屋敷の最上階に位置する半ドーム状のこの倉庫は、もう三十年近く手入れがされずに時が止まったままだ。

 正確にいうと、僕と一緒に放り込まれた棚やら机が盛大に崩れたりしたから、時は動いているけれど。まぁ、鳥肌感覚的には、何も起こっていないことに変わりはない。

 埃だらけのカビだらけ。割れた窓から吹き付ける雨で腐った木の匂いに、雨宿りに来た猫とか狸とかの鼻を刺す糞尿の臭気。体に積もった綿あめみたいなグレーの毛クズのせいで全身がこそばゆいし、何より体が全く動かせない!

 なんで俺がこんな目に遭っているんだ!

 ああ!

 俺が何をしたっていうんだ!


 もう限界だよ…

 限界だって…


 声が埃に吸われていく。

 何度目の癇癪だろうか。

 どんなに叫んでも声が出ないのは喉がつぶれる程試したが、もしかしたら今日こそはと淡い希望を持ってしまう。

 足は、頭は、腕は、手は。どれも繋がっている感覚はあるのに、これっぽっちも動かせる気がしない。

 でも、目は見えるし、音も聞こえて、鼻も利く。味は分からないけど、触覚だって機能している。

 以前、ここに来た奇妙な猫に頭をふんずけられた時、やんわりとふぎゅって頭が沈む感覚があった。その瞬間、認めたくなかった現実を否が応でも受け入れざるを得なくなって、三日三晩泣いたことは秘密だ。

 一通り、涙も哀しみも、希望も出し切った後、もう体が人間でないことを受け入れることに、意外と抵抗はなかった。

 それから何度か、その猫に頭を踏まれることがあった。屈辱的な思い出だが、その猫のおかげで、まだ僕が生きていることが実感できたから、ちょっとだけ感謝もしている。

 全く動けず、嫌な臭いにまみれ、埃被って床に転がるオレンジ色の割とでかいミミズクのぬいぐるみ。

 これが今の僕だ。

 元はごく普通の人間だった。東京のIT企業の営業として働く普通のサラリーマン。競馬が趣味で、冗談で周りを賑やかにすることが好きだった。仕事はきつかったけど、チームのみんなとはそれなりに仲良くやれていたし、休日も身の丈に合った楽しいことをして、恋もしていた。毎日に満足していたのだ。それが、どうして。

 部屋の天窓からは、真っ黒い夜空に浮かぶ無数の星々が見える。白に赤に薄い青。ここに置かれてから、本当にたくさんの星空を見てきた。あの星に生まれ変わりたいなんて俗っぽく考えたりもした。でも、今は、星なんてどうでもよかった。名前も、形も輝きも、全部僕の人生には関係がない。そんなメルヘンな願いなんかじゃなく、星を見に行ける体。ご飯を食べられる体。生きていることを感じられる体が欲しい。

 突然、体にかかっていた埃のベールがフワッと舞った。

 あぁ、秋の風だ。

 レースを持ち上げて流れ入ってくる柔らかい風は、ちょっと乾いていて生ぬるい。

 なんかちょっとサンマを焼く匂いもする。

 ああ、腹へったなあ。飯食いてぇなあ。おふくろの飯が食べてぇ。

 この時期だと煮つけかな。あのちょっと味醂を入れすぎて、甘く煮られたほろほろのキンメダイの煮つけ。うちは貧乏だったから、骨だらけの身だったけど、煮汁を白米に掛けてうまい、うまいって何杯もおかわりをした…。

 そんな気がする。

 最後に食べたのは、いつだったか。親父としょうもないことで喧嘩して、家を出てった日が最後だったかな。ああ。もっと実家に帰っていれば、良かったかな。

 三十年分の虚無と星空の記憶に、人間だった頃の記憶が圧迫されて、僕の脳内記憶から思い出がどんどん追い出されていく。僕がこうしている限り記憶の欠落は止まらない。何もできないまま、記憶が崩れて、夜空の記憶ばかりに埋め尽くされて、僕は人間星屑記憶装置にでもなってしまう。ああ、居酒屋の皿洗いでも、眼鏡売りでも、椅子の営業でも、なんでもいいから、僕に役割を、生きる意味を、生きている実感をください。どうか、大川慶次郎様、私に新しい思い出を作らせてください。

 今まで何千、何万と祈ってきたがこれだけは、どうしても辞められない。希望なんか、未来なんか来ない、真っ暗で永遠に続くトンネルを掘り続けると分かっていても、縋るしかない。星に、崩れた机に、小さな雪粒に、埃に、奇妙な猫に。ここが日本かどうか分からないけれど、八百万の神に祈れる無信教の日本人で本当に良かった。何十年も毎日同じ神だけに縋ることは、僕にはキツイ。競馬と同じだ。オッズが低くたって、僕が賭けたい馬にベッドする。いつもナンバーワンに賭けていたって面白くない。競馬はあのワクワクを金で買うことが楽しいのだ。

 今年の菊花賞はどうなっただろう。コテンヤクワポップの子供たちでも走っているんだろうか。それとも、ビョウデトリケラの孫たちかな、新生もいるだろうし、ああ、金を賭けてぇなぁ。

 うぉう。寒っ。

 ピユッと。先ほどまで暖かかったそよ風が、温度を捨ててまた舞い戻ってきた。

 うう。寒い。不思議と綿の詰まったこの体でも寒さを感じるのだ。けど手足が冷える感覚はない。寒いという事だけが分かる。偽物の鳥肌が立ってる感じだってある。

 あれ?

 でもなんか、そんなに寒くないか?

 それよか熱い気さえする。十月の夜にしては…

 というか、昼間よりも熱くね?

 何!?

 何、どうなってんの?

 ここ三十年でダントツに熱いんだけど!

 体が焼けてる感覚があるんだけど!ハートに火をつけてなんだけど!焼き鳥さん太郎なんだけど!

 仰向けで床に転がされてる状態では、確認できなかったが、どうやら周囲に火がついているらしい。確かに、いつもよりもちょっと周囲が明るいし、空が黒い。この態勢だと火を目視することはかなわないが、体が感じる熱さが尋常でないのと、久しぶりに吸い込んだ鼻を衝く黒煙の刺激臭からして、この建物が炎上していることは想像に難くない。

 やっべぇ。俺、綿だよ。焼けるよ。火種候補だよ。どうすんだよこれ。体動かねぇっていうのに。なんもできねぇよ。クソッ。

 うっ、こほっ。ごほっ。がふぁ。け、煙やばいな。

 ぐほっ。がはぁーっ。があはっ。

 喉が詰まる。呼吸なんて形だけのくせに、なんでだよ。クソが。まじか、ここで終わりかよ。三十年、なんもしないで、星空だけ眺めて、死ぬときは秒かよ。なんなんだマジで。くそ。なさけねぇ。初恋だってまだだってのに。やりたいことだって、行きたい場所だって、まだまだ…

 ヴぅはぁ。ぐふぉぐ。がぁっ。

 ああ。あれだけ祈ったのになぁ。

 あれだけ、縋ったのになぁ。

 結局、どこにも、神なんていなかったんだ。どこにも。なにも。俺自身も。


 いなかったのだ。


 悲しいかな。燃えカスも残らない綿の体で、本当に、塵になって消えてしまうのだ。

 ああ、俺の人生…。悔しいなぁ。せめて羽の一枚くらい残ってくれねぇかな。それぐらいもダメかい?なぁ、神様。

 足元で轟音が響いた。朽ちた机に火が移り、崩れた棚にも炎が燃え広がったのだ。そのうちあのレースも、窓も、天井も形を保てなくなるだろう。盛大な火葬だと、プラスに捉えておくか。最後くらい派手に散りたいぜ。

 炎が目に入るくらい大きくなっている。ふらふら揺れるそれは、机の脚やら椅子の背の影を壁に映している。右に左に、まるで海藻みたいに影は靡いている。右に左に、手を振るみたいに影は靡いている。きっと最後のお別れなのだ。現世が俺にさよならを言っている。


煙と落ち 煙と消えにし 我が身かな 動きことにか 夢のまた夢


 ふっ。三十年前に読むべきだったかな。

 薄れていく意識の中、炎で揺れる影絵の中に、見覚えのあるしっぽと、帽子を見た気がした。あの、たまにやってくる猫だ。こんな熱いなか、一体どんな用でこんなところまで来たのだろう。物好きな猫だぜ。全く。

 火がついてからはあっという間だった。そりゃ、そうだ。なんだってこちとら、燃焼材だもの。熱さを感じずに焼かれていく中で、ふとこんなことを思った。

 ああ、俺があの猫だったならなぁ。こんなところから簡単に脱出できたのに。身軽な体に自由な手足。俺だったらもっと有効に使ってやれたのに。もう少し生きることができたのに。

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ブッコローで恋して 渡唯 @yui_watari

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