第7話 海辺の想い
展示会の会期も最終日となった週末。美加と食事をしてから、三日がたった。あれから頻繁にしゃべるようになったわけでもなく、少し早く出勤した朝にコーヒーを持ってきてくれた時にしゃべるくらいだった。もちろん、約束の進展もなく、彼女からもその話はしなかった。その場限りの話の流れだったのかと、がっかりしたのと安心したという感情が交錯した。
展示会場の片付けは、週明けにやればいいと言うことだったので、終了時間を過ぎたら望月たちと事務所に戻った。週末は、忙しいだろうからと、営業から応援に回ってもらった連中と話していると、望月が言った。
「打ち上げやる?打ち上げ。」
「あぁ、俺ちょっとこの後、予定があってダメ。」
「おれも。」
「付き合い悪いなぁ。おまえら。おい、橘は。」
望月は、少し離れたところにいた僕に声をかけた。
「俺は、受注を受けた分の発注伝票起こしておかないとな。」
「ハイハイ、わかりましたよ。じゃ、わたくしは帰りますよ。」
と、言って帰って行った。仕事のことは嘘ではなかったが、ここ二、三日、体が重いので酒をのんで馬鹿騒ぎをする気にはなれなかった。別に、熱があるみたいでもなく、風邪気味なわけでもなかった。
「あれ、橘さん。まだ仕事ですか。」
後ろから突然、声をかけたのは美加だった。事務所はもう僕しか残っていなかったと思っていたので、驚いて振り返った。
「あれ、高橋君、帰ったんじゃなかったの。」
「ええ、駅まで帰ってたんですけど、忘れ物に気がついて戻ってきたんですよ。」
「そうなんだ。で、その忘れ物はあったのかい?」
「えっ、ええ、もう見つけましたよ。」
美加は、僕に向かって笑ってみせた。
「橘さん、まだ、がんばるんですか?」
「うん、あともうちょっとなんだけどな」
「私、ここにいてもいいですか?」
「ああ、別にいいけど、遅くならないか。」
「大丈夫です。明日休みですから。」
美加は、そう言うと僕の隣に車いすを移動した。彼女は、黙って僕が進める仕事を見ていた。僕は、隣の美加を意識しながらも仕事を進めることに努めた。少し時間が空いて、彼女が口を開いた。
「橘さん。覚えてますか?」
二人しかいないのに、僕にだけ聞こえるくらいの声で、美加は言った。
「えっ。」
「ほら、この間の約束。」
「ああ、もちろん覚えてるよ。」
「私、展示会が終わるの待ってたんです。」
「そうなんだ。ごめん。つい、忙しかったから。忘れてたわけじゃないからね。」
「わかってます。」
「どうしようか。いつ、どこに行こうか?」
美加は、少し考えて、何かを決意したみたいに声を出した。
「明日、ダメですか。」
「えらく急だなぁ。僕はいいけど、君は大丈夫なの。」
「はい。橘さんが良ければ大丈夫です。私、お弁当作りますから。」
「いいよ、いいよ。無理しなくても。」
「いえ。大丈夫です。決めてたんですから。」 彼女のまっすぐな眼差しがこちらを見ている。その想いが、僕の胸の中で大きく広がってゆく。
「じゃあ、そうしてもらおうかな。」
「はい。」
美加は笑顔で大きく頷いた。今までで美加の見せた、一番の笑顔だと僕は思った。
「で、どこへ行きたいの?」
「もし、良ければ私、海が見たいんです。砂浜のある海が。」
「君が、いつか、砂浜に足跡をつけたいって言ってたところ?」
「橘さん。そんなこと覚えてくれてたんですか。」
「うん。記憶力はまだ大丈夫だからね。」
「なんですか。それ。」
そう言いながら半分、照明の消えた事務所で二人で笑った。
デスクの上を片付けて、
「明日の準備があるから。」
と言う彼女を家まで送っていった。
「じゃあ、明日9時に迎えに来るから。」
「わかりました。おやすみなさい。」
小さく手を振る彼女に、もっと小さく手を振り返して、車をスタートさせた。まだ、手を振っている彼女をバックミラーで確認してスロットルレバーを開けた。
家に帰ると、昼間から感じていた虚脱感が襲ってきた。ただ、疲れがたまっているのだろうと思い、早めにベッドに体を横たえた。いつもよりなお強力な重力に、体を縛り付けられるような感覚が全身を駆け巡った。そのおかげかどうかはわからないが、襲ってきた睡魔が僕を眠りの世界に引き込んだ。
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