第6話 淡い想い
展示会場は、夕方になっても客足は増えず予定通り6時には店じまいを始めていた。やはり週末にならないと、なかなかお客は来ないようである。帰りも、いやがる望月に運転させて、僕は暗くなりかけた空を眺めていた。今朝の話は、避けているわけではないのだが、あれっきり話題には上らずじまいだった。多少、夕方のラッシュにぶつかったが6時半過ぎには事務所に着くことができた。
望月は、早々に片付けを終えて
「お先に。」
と言って帰ろうとしていた。
「今日は素直に帰るのか?」
望月は、背中に投げかけられた言葉に振り返りもせず、片手を振りながら事務所を出て行った。事務所を見渡してみると、もう残業しているのは数人しかいなかった。その中に、高橋美加の姿があった。僕が美加を見ていると、美加もこちらを向き視線が合った。何か一生懸命、書類と格闘している様子だ。資料を書庫に戻すついでに、美加のデスクの脇を通ってみた。
「何かわからないことがあれば、言ってきてね。」
美加は、少し困った顔をしながらこちらに向き、
「ここの部品の単価って、どこで調べたらいいんですか?」
「ああ、それね。」
僕は、美加のデスクに乗っかっていた資料のページを開き、指さした。
「あっ、ホントだ。橘さん、ありがとうございます。助かりました。ホント、困ってたんですよぉ。」
「大げさだなぁ。早く聞けば良かったんだよ。さて、お疲れでしょうからコーヒーでもお持ちしましょうか?頑張り屋さんのお嬢様。」
と、おどけて言うと
「とんでもありません。橘さんにそんなことさせられないですよ。」
思いっきり恐縮してる彼女を見て、僕は思わず笑ってしまった。美加も少し照れながら笑みを浮かべた。
「もうこれさえわかれば、大丈夫なんです。これで、やっと帰れますから。」
「なら、コーヒーの代わりに食事でもどうかな?俺、腹減ってんだよ。」
自分で自分の口から出た言葉に驚きながらも、美加の反応と返事を期待して待った。
「えっ、本当ですか?」
美加は、少し戸惑いながらもうれしそうにこちらを向いた。
「ああ、本当だよ。ただし、給料日前だから、フランス料理のフルコースは無理だよ。ファミレスでも良ければの話だけど。」
「あっ、私がごちそうしますよ。仕事もおしえてもらったから。」
「フルコースを?」
「ちがいますっ。ファミレスです。」
美加との、たわいもないやりとりで自分の心が、少し柔らかくなっていくのがわかる。この時間が、もう少し続いてくれと無意識に祈っていたのかもしれない。
「大丈夫だよ。先輩に任せなさい。」
「じゃあ、お願いします。」
「あれ、そこはえらく素直なんだね。」
そんな、会話を楽しく思いながら、各々の仕事を片付け事務所を出て、二人で会社の駐車場に向かった。
「ボロ車だけど、どうぞ」
と言って助手席のドアを開けた。
「知ってますよ!」
「えっ。」
「うそうそ、うそですから。」
誰もいない駐車場に、二人の笑い声が響いた。車いすを後部シートに突っ込みながら、彼女は僕の部屋にでも来たみたいにあちこち観察していた。
「フーン」
「どうしたの?何か珍しい物でもあった?」
「いえ、橘さんの車だなって思って。」
美加は、まだなじめていないシートに体を静かに沈めた。
「高橋さんは、免許持ってるんだよね。」
「ええ、持ってますよ。学生の頃は、実家の車で運転してました。」
「こっちでは、車ないんだ。」
「両親に、都会は車が多くて危ないから、ダメだって言われてるんです。私の実家は田舎だし、一車線の道路しかないんですもん。」
「そっかあ。」
「いいなぁ。車。」
「そんなに運転したいんだったら、山口さんに言って営業車を運転させてもらえば?」
「違うんです。どこか、行きたいなって思って」
美加は、そんなことを言ったしまった恥ずかしさを醸し出して沈黙の時間を作った。僕も、話の意味をうすうす理解していたが、わざと、その意図を汲まなかった自分に嫌悪感を感じ彼女の沈黙を破った。
「今度、ドライブに連れて行ってあげるよ。このボロ車で良ければね。」
僕の言葉に、素直に反応して美加はうれしそうにこちらを向いた。
「本当ですよ。約束ですからね。」
「ああ。約束ね。」
美加の率直な意思に、僕も素直に答えた。その後も美加は、どこかうれしそうにあれこれ話し続けた。近くのファミレスで食事をして、彼女の道案内で家まで送り届けた。
「今日は、ごちそうさまでした。約束、本当に期待してますからね。おやすみなさい。」
ドライブの日にちも、行き先さえも決めてはいないのに、約束の言葉を最後に残して、彼女はマンションに帰っていった。
あんな約束をして、良かったんだろうか?そんな思いが、胸の中に広がったが、美加の笑顔の残像が、それを打ち消した。
今まで、異性との付き合いがなかったわけではない。大学の時も彼女と呼べる存在はいた。しかし、あまり長く深く付き合うことはなかった。どこかで真実の姿を見られてしまうのではないかという恐怖感が、自分を縛り付けていたのかもしれなかった。
では、美加はどうなのかと言えば、まだはっきりとした意識はないものの、彼女ならという感覚があるのかもしれなかった。その自覚が、今まで彼女との距離をとっていた証拠かもしれない。
このまま進んでも大丈夫なのか?。秘密を持っている僕が、これ以上どうするというのだ。だけれども、その迷いも不安も「約束」という希望の言葉には勝てないように思えた。何かが、急に進み始めた。先の見えない何かが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます