第5話 現実の重さ

 昨夜の伸子の言った言葉が、少し気になったからだろうか、眠りにつくのが遅くなってしまった。そのせいで今朝の目覚めはいつもより一層、頭と体の重さが気になった。それでも、いつもよりはまた早く目覚めてしまった。このまま、ベッドの中で微睡みを楽しんでいるほどの余裕はなく、仕方なく布団を跳ね上げた。

 今朝の僕は、自分の足で立ち上がるほどの気力はなかった。ベッドの脇に置いてある車椅子に腕の力で乗り移り窓際に行った。天気予報というものを、最近見てないような気がする。カーテンの隙間から、明るい光が差し込んでいる。外は、きっと良いお天気なのだろう。いつもなら明るい光が目を突き刺すのがいやでカーテンに手をかけるのを躊躇させていた。だけれども、今朝は、完全に目覚めていない体に光を浴びさせたくて、思い切ってカーテンを全開に引きあけた。太陽は、もうかなりの高さまで上っていて、青い空に浮かぶ白い雲を上から照らしていた。

 ひとしきり空を眺めた後、冷蔵庫の扉を開けてミネラルウォーターを空腹な胃に流し込んだ。昨日の酒は残ってはいなかったが、胃壁にへばりついたものが流されていく清涼感が腹一杯に広がった。いつもなら、何も食べる気にはなれないのだが、今朝は何となく何か食べ物をお腹に入れようという気になった。とはいえ、いつも朝食なんて食べたことがないのでまともな食料などあろうはずもなかった。前に、おやつ代わりにと思って買っておいたシリアルを引っ張り出しミルクと一緒にほおばった。

 歯を磨き、服を着替えて時計を見るとまだいつもより時間に余裕があった。ふと、昨日の朝の光景が思い出された。美加はもう会社に来ているだろうか。またあの笑顔を見せて、コーヒーを入れてくれるだろうか。僕はいったい何を考えているんだと自問した。昨日、伸子が言ったことが少しでも気になっているんだろうか。それとも、伸子からあんなことを聞いたからだろうか。

 そんなことを考えながら、体は勝手に身支度をして出勤の準備を整えつつあった。ドアに鍵をかけて、エレベーターに乗る。今朝は誰も乗っておらず、少し広い感じがする箱の中に車いすを滑り込ませた。地下駐車場から車を出すと、五月の朝は新しい緑が光を跳ね返していた。ウインドウを開けると、まだ太陽に暖められてない少し冷たい空気が車内に吹き込んできた。少しスロットルレバーを開けて車をスピードに乗せると光と影の間隔も速まった。

渋滞らしい渋滞にもかからず、思っていたよりも早く会社の駐車場に車を入れた。車いすを下ろし、事務所の自動ドアの前まで来た。ドアはスモークが入っており、外からは中をうかがい知ることはできない。意識しなくていい、いつも通りにしていればいいんだと思い、車いすを前に進めた。自動ドアが開き視界が開ける。いつも通りの順路で、自分のデスクに向かった。昨夜、適当に突っ込んで帰った書類を引っ張り出して整理していると背中から声がかかった。

「おはようございます。橘さん。」

 いつも見慣れていた笑顔の美加がそこにいた。

「あっ、おはよう。」

「どうしたんですか?今朝もいつもより早いですね。」

と、膝の上に置いたトレーからコーヒーを手に取り僕のデスクの上に置いた。

「どうぞ。」

「ありがとう。今朝も少し早く目が覚めてしまって。」

「また、歳のせいにしたら怒りますか。」

 美加は、いたずらっぽく目を細めて笑みを浮かべた。

 僕はその笑顔を見ながら言った。

「別に、怒らないさ。」

 ぶっきらぼうに言った僕から目をそらしながら、声のトーンを落として

「何だ、怒らないんですか。」

 僕は彼女が持ってきてくれたコーヒーを手に取り一口飲んだ。

「ああ、怒らないさ。まんざら外れてるわけでもないしね。」

「橘さん、何かありました?今日なんか変ですよ。」

「そんなことないさ。いつもと同じだよ。」

再びこちらに瞳を移した美加は

「本当ですね。」

 と、少し不安げに言った。

 事務所は、出勤してき者たちで少しずつ静寂がかき消されていった。美加はもう少し何か言いたげだったが、小さく会釈をして自分のデスクに戻っていった。

「ちゃんとやってくれてるみたいね。」

 デスクの向こうから言ったのは、伸子だった。

「おはようございます。先輩。」

「おはよ。昨日はお疲れ様。」

「はあ。」

 と、僕の曖昧な返事が聞こえたのか聞こえないのかわからない前に、伸子はこちら側に回ってきた。

「どんな感じなの?結構しゃべってたみたいけど。」

「普通ですよ。普通。」

「そうなのぉ。」

 こちらの反論を躱すように、さっさとどこかへ消えてしまった。視界の中に、遠くでちょっと不安そうにしている美加の姿が映った。始業時間も近づき、今日も展示会に出向かなければならないので、準備を始めていたところへ事務所の自動ドアが勢いよく開いた。

「ふぅ、セーフだ。」

 勢いよく車いすを滑り込ませてきたのは望月だった。

「何が、セーフなんですか?望月君。始業時間前に仕事の準備を済ませておかないといけませんよね。」

 窓際のデスクにいた所長の長野の声が事務所に響いた。

「はい。すみません。」

 所長の言葉を背中で受け流しながら、僕の隣のデスクにたどり着いた。

「昨日、おまえに振られたから大学の時の友達を誘って飲んだら飲み過ぎちゃって。」

「おい、早くしないとおいていくぞ。」

「わかったって。」

「先、行ってるぞ。」

 慌てて準備に取りかかった望月を残して、僕は駐車場に向かった。太陽は、ますます高度を上げ、雲は少し急ぎ足で天空を流れて行った。僕には、少しまぶしすぎる季節だと感じて空を仰ぐのをやめた。事務所から猛スピードで飛び出してくる望月の姿が見えた。

「今日は、おまえが運転しろよ。」

と言ってキーを放り投げた。さっさと助手席に潜り込み車いすを後ろのシートに放り投げた。不満そうに乗り込んできた望月は

「何で俺なんだよ。」

「遅刻寸前の罰だよ」

「寸前だろ。遅刻したわけじゃないんだぜ。所長が大声で言わなきゃ、ばれなかったのになあ。」

 望月は、仕方なさげにエンジンをかけ、ステアリングに手を伸ばした。人の運転する車はいまいち落ち着かない。ましてや望月は普段は車を運転せず電車で通勤している。だからなおさらぎこちない運転が気になってしまう。やはり、彼に運転を任せたのはまずかったな、と思っていると車は急にウインカーを左に出して土手沿いの道に入った。

「タバコ、吸わしてくれよ。」

と言って、車を川の見える路肩に止めた。河口に近いこの場所では、川幅は広く流れ自体もどちらに向かって流れれているかはここからではわからないくらいの穏やかな水面だった。

 望月は、スーツの胸ポケットからタバコを取り出し、僕に向かって差し出した。

「吸うか?」

「いいや、いらない。」

 そう言って断ると、箱から一本取り出して火をつけた。車のウインドウを開け、肺まで吸い込んだ煙を外に吐き出した。フロントウインドウまで回り込んだ煙は、ゆっくりと消えていった。

「昨日さあ、大学の時の友達と飲んだって言っただろ。」

 深くゆっくりとタバコを吸い込みながら、望月は話し出した。

「そいつがさ、この前、中学で一緒だった友達と偶然街で出会ったんだって。」

「ああ。」

「その出会ったやつっていうのが、中学の時、突然いなくなったやつだったんだって言うんだ。」

「あっ、そう。」

「そいつにどこで出会ったと思う?」

「さあな。」

「それがさあ、火事の現場だって言うんだよ。」

「えっ。」

 そこまで、適当に聞いていた僕は少しからだが反応して、それを望月に気づかれまいとして体を硬くした。

「そう。それが、消防士の姿でそこにいたんだって。」

 そうだ。この病気の感染は幼児から始まった。だから、初期の頃は成人の人間は歩行可能であって消防士のような危険な仕事も継続させていた。だが、感染率が上がって行くに従ってそういう仕事をする人間にも感染者が出てきた。事態を重く見た政府関係者が考え出したのが「社会貢献法」なのだ。発病しない子供を集め、教育をし歩行可能者でしかできない仕事に就かせることを目的としたものだった。

「それで?」

 ボクは、あくまでも望月の話に付き合っていることを装って話を前に進めた。

「ああ、こっちはすぐに気がついて、火事が収まるまで待ってそいつに話しかけたんだって。そしたら向こうは全然覚えてなくて、がっかりしたって言ってたよ。」

「再教育ってやつか。」

「たぶん、そうだと思う。人が変わったようになってたって。」

「そいつって、歩行可能者だったのを隠してたんだろうか?」

「中学の時は、ちゃんと車いすに乗ってたって話だぜ。」

「急にいなくなったって、やっぱり・・。」

「ハンターに捕獲されたってことだと・・・思う。」

 その会話を最後に、しばらくの間黙って望月はタバコを吸い、ボクは川面に映る空を眺めていた。

 やはり、ハンターは存在する。どこかで絵空事だと思いたい気持ちが胸を埋めるが、望月の話を聞いて現実を見なければと思ってしまう。注意しなければならない。見張られているかもしれないという恐怖と圧迫感がボクを襲う。いつの間にか握りしめていた拳に汗がにじんだ。

「さあ、行こうか。」

 望月が一本のタバコを吸い終えてそう言った。時計を見ると五分くらいしか経っていなかったのだが、長くここにいたような気がした。

「そうだな。」

 僕は、シートに強く押しつけられていたような気がして体の位置を少し動かした。

 その日の展示会の会場は、閑散としてい時間の進み方もゆっくりと感じられた。今日のような日こそ、忙しくて仕方ないと思いたかった。会場の窓から、外を行き交う人たちを眺めていると、この中にも僕と同じ思いに駆られている人がいるのかと思ってしまう。逃げているわけではない。でも、追われてるかもしれない。

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