第8話 青い海

 次の朝、僕は体の気だるさを感じて目を覚ました。いつもとは違う、倦怠感が体を包んでいた。少し熱ぽいのかもしれない。だけど、今朝は起きなければならなかった。昨夜の美加の笑顔があたまの中にイメージを結ぶ。あの子を裏切ってはならない、そんな漠然とし想いが、僕の上半身を起き上がらせた。

 車いすに移り、窓際に近づく。カーテン越しにでも、外の光の強さが伝わってくる。今日も、昨日同様良い天気なのだろう。カーテンを開けるのを諦めて、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを一口飲み干した。食欲というものは全く感じられず、空腹という感覚もなかった。

 時計を見るとまだ7時半だった。それでも、歯を磨き服を着替えた。まるでドラキュラのように朝日を浴びることに恐れを抱いていた。今日という日が始まることの不安からか、踏み出してはいけないところに、足を踏み入れてしまう怖さなのだろうか。それでも、青い空が見てみたいという想いでカーテンを開けた。僕の体を突き抜けるような太陽の光と、蒼い空のコントラストが、僕の瞳に焼き付いた。窓を開けると、休日の朝のわずかな静けさと緑に染みた五月の風が、部屋の中に流れ込んでくる。少しの間、目を閉じてその場に身を置いた。目を閉じていても、周囲の明るさは感じられた。体の重さは相変わらずで、しばらく動く気にもなれず、車いすのポケットからタバコを取り出し火をつけた。

 美加との約束の時間を逆算しながら、出かける時間を考える。相手を待たせるのは、僕の性分には合わないので少し早めに出ることにする。部屋の鍵を閉めて、エレベーターに乗る。休日とあって、だれも乗っていない一人のエレベーターは地下へとまっすぐに向かって行った。車に乗り込み、地下駐車場から光の収束した表通りに車を出した。

 いつもより速い車の流れに乗りながら、若い緑の帯を通り過ぎてゆく。体は相変わらず重い。いつもとは違う自分に不安を覚えながらも、今日という日が特別な気がして気持ちは少し高揚していくのがわかる。本当にこれでいいのかという迷いも、置き去りにして車を走らせた。

美加のマンションに着いたのは、約束の時間の30分も前だった。

「少し、早すぎたな。」

 なんて、独り言をつぶやいて、エントランスに近い路肩に車を止めた。ラジオから流れるトラフィックインフォメーションは、休日の朝の順調な車の流れを教えてくれていた。吸い過ぎだと思いながら、またタバコに手を伸ばし火をつける。窓を開けると、朝の清純な空気と車の中の淀んだ空気がゆっくりと混ざり合う。ゆっくりとタバコの煙を吸い込み、同じペースで吐き出すと、車内の空気はタバコの煙で白く濁った。

「そうだった。彼女が乗るんだった。」

 ふと、そんなことに改めて気がついて、半分以上灰になったタバコを灰皿でもみ消した。煙が漂う車内を換気するため、助手席のウインドウも全開にした。車内を一気に風が通り抜けて行く。僕の心の不安まで流し去ってほしかったが、その望みは叶えられなかった。 5月の朝の少し冷たい空気にあたっていると、時計の針は約束の9時を少し回ったところだった。膝の上にバスケットを乗せた美加が、エントランスに姿を現した。すでに、こちらに気がついてる様子で、迷いもなくまっすぐに車に向かってやってきた。

「おはようございます。ごめんなさい。遅くなっちゃいました。」

 美加は、本当に急いできたのだろう。肩で少し息をしている。

「大丈夫。ボクも今来たところだから。」

 美加を安心させようと思い、つい口に出た言葉を彼女は静かに遮った。

「橘さんて、やっぱり優しいですね。私、部屋から観てたんです。橘さんが来たときのことを。」

「あっ、そうなんだ。いや、早く着き過ぎちゃって。」

「昨日、いろいろ準備してたら眠れなくなってしまって。今朝、少し寝過ごしちゃたんです。慌てて起きてお弁当作ってたら、橘さん、もう来てるんですもん。もっと慌ててしまって。」

「そんなに慌てなくても、約束の時間からそんなに過ぎてはないじゃない。」

「そんなこと言ってますけど、待ちあわせは、女の子が先に来て待っているのが、私の理想だったんです。」

彼女は本当に悔しそうに言った。

「じゃあ、この次はボクがちゃんと遅れてくるから。」

「えっ、それはそれで困るかも。」

「うーん。難しいなぁ。」

 ドア越しに目が合ったとたん、二人とも笑みがこぼれた。少し強めの風が吹いて、彼女の髪を揺らした。

「あっ、ごめん。乗って乗って。」

僕は体を伸ばして、助手席のドアを開けた。彼女の膝の上のバスケットを受け取り、彼女も車のシートに体を移した。

「ごめん、たばこ臭いだろ?少し窓開けるね。」

そう言って、僕はパワーウインドウのスイッチを押した。美加は、会社で会うときよりラフな格好をしていた。派手というわけでもなく、彼女らしいと言ったのが一番合いそうな質素だけれども可愛らしい服を着ていた。見とれていたというわけではないのだけれども、僕の視線を少し恥ずかしそうにしながら、シートベルトをはめた彼女が口を開いた。

「橘さん。今日はどこの海に連れて行ってくれるんですか?」

 美加は、こちらに体を向けて聞いてきた。僕は、シフトレバーをニュートラルからドライブレンジにいれながら答えた。

「うん。子供の頃、家族で行っていたところに行ってみようかなって思ってるんだ。」

「そうですか。」

「岬の先っぽの方だから、静かだしきれいな砂浜もあるし。」

そう言いながら、僕は車を西方向に向かう国道に走らせた。

「よく、行かれてたんですか?」

「うん。結構行ってたなぁ。」

 そう言ってから僕は、頭の中でその光景を思い出していた。


 子供の頃、夏になると家族でよく出かけていたその海は、岬の付け根にある海水浴場からは少し離れた岬の先端部分にあった。車がやっと通れるくらいの細い道しかなく、訪れる者はほとんどいないところだった。母は父に見張り役をさせて、車椅子を堤防において手を引いて波打ち際まで連れた行ってくれたのを覚えている。

「今日だけですよ。」

と、普段歩くことをしなくなったボクを支えて、足に付いた砂を波が洗うところまで歩かせてくれた。

 あれは母が発病する前の、最後の夏だったと思う。母と二人、波打ち際に立ち日の傾きかけたオレンジ色の海を眺めていた光景を今でも鮮明に記憶に刻まれている。

母は、僕の後ろに体を寄せて立ち、刻々と色を変えてゆく世界の中で独り言のように言葉をなげかけた。

「お母さんは、祐一に大きな重たい荷物を背負わさせたのかもしれないわ。祐一が、もっと大きくなった時、お母さんを恨むことになるかもしれない。バカなことをしたと思うかもしれない。でもね、お母さんは祐一を本当に愛していたの。だから、手放したくなかったのよ。あなたをこんな世界に、こんな体に産んでしまった事に責任を感じていたの。この時代に生まれてなければ、普通に暮らして行けたのに。お母さんに出来ることは、これしかなかったの。」

母の口から、苦しそうにはき出される言葉に、僕は不安を覚え振り返り、母の顔を仰ぎ見た。そこには、瞳からあふれた涙で、キラキラ光る母の頬が見えた。

「お母さん、大丈夫。」

 心配そうな顔で見る僕に、母は頬につたう涙を手でぬぐった。

「ごめんね、祐一。これからあなたには、辛い未来が待っているのかもしれない。だけど、祐一は祐一なの。あなたという人間は、一人しかいないんだから。ほら、見て。」

 母が指さした先には、砂浜の上にぽつんと転がっていた小さな貝殻だった。

「あの貝殻だって、幾度となく波に洗われようと、海辺のたくさんの砂に埋もれようと、深い海の底に沈んでしまおうと、その存在は変わらないのよ。だから祐一には、前を向いて生きていって欲しいの。」

 そう言って、半分もその言葉の意味を理解してない僕を、背中からきつく抱きしめた。

まるで、罪滅ぼしをしているかのように。 


 そして今、その思い出の場所に、美加を連れて行こうとしている。

「どのくらいかかります?」

 美加は、少し開けてある窓から入ってくる風を受けながら、目を細めて言った。

「そうだなぁ、一時間くらいかかるかな。」

「じゃあ、お弁当はそこで食べられますね。」

「防波堤の上に上がれるから、そこがいいと思うよ。海もよく見えるし。」

「そうですか。たのしみです。」

「お弁当は何かな?」

「あっ、それはお昼まで内緒です。」

 茶目っ気たっぷりに言う美加を、かわいいと自然に思える自分がそこにいた。美加の前だと素直になれる自分に少し驚きながらも、そのことをいやではないと思っている。

 市街地を抜けると、海沿いの道に出た。空の青よりももっと蒼い海は、少し強めの風に揺られてきらきらと光っていた。美加は、海が見えるようになるとどこか懐かしそうにじっと見つめていた。

「本当に、海が好きなんだね。」

 しばらく、海から目を離さない美加にボクは聞いた。

「ええ、海を見ると心が落ち着くというか、安心するんです。実家の近くの海は、こんなに穏やかではなかったけれど、波に洗われる砂浜が好きなんです。波が押し寄せてくるたびにきれいに書き換えられていく砂浜が。」

「そう。僕も好きだよ。家族とのいい思い出は海だったから。」

「わたしも。海では遊べなかったけれど、見てるだけで良かったんです。」

「ご両親は、海で一緒に遊ばせてくれなかったの?」

「うちの両親は、私が物心ついた頃には、もう発病していて。」

「あっ、そうだったんだ。早くに発病されてたんだね。」

「ええ、橘さんのご両親はどうだったんですか?」

「僕は、小さい頃はまだ両親は発病してなくて、僕を抱えて一緒に海にいれてくれてたよ。」

「いいな。」

 美加は、少しさみしそうに言った。ボクは、また嘘をついていると思った。僕の真実は隠さなくてはならない。それはわかっている。だけれども、目の前にいる彼女だけには、嘘をついてはいけないような気がしている。彼女のまっすぐな眼差しにさらされているからだろうか。それとも、その眼差しの対する罪悪感からだろうか。僕の真実が、彼女の前ではほんの些細なことにしか思えなくなってしまうのはなぜなんだろうか。

「今日は、結構近くまで行けると思うよ。海の。防波堤の上に上がれるって言っただろ。二人で岬の先の方まで行ってみようよ。」

 僕は、つまらない気休めを言ってしまったと思った。しかし、彼女は素直に微笑んで答えた。

「はい。」

と。

 車は、市街地と海の風景を何回か繰り返し、まだ誰もいない岬の海水浴場を通り過ぎた。道幅は急に狭くなり、雑草と防波堤の間をゆっくりと進んでいった。しばらく進むと、少し開けた場所に出た。右手の防波堤には、上に上がるスロープが見える。ここまで車で来る人もいるのだろう。ここの広場には、腰の高さまでの雑草は生えてはなく地面に張り付くようなものと、ところどころは白っぽい地肌が見えるところもあった。他の車の邪魔にならないように、且つ降りやすそうなところに車を止めた。

「到着したよ。降りてここからは歩きだよ。そこのスロープから、防波堤に上がれるから。」

サイドブレーキを引きながら、助手席で外をのぞいていた美加に言う。

「風、少し強いですね。大丈夫かな。飛ばされそう。」

美加は、そう言いながらドアを開けて自分の車椅子を後部シートから引っ張り出した。僕もまばらに雑草が生えている地面に車椅子を下ろした。土の上に降り立つのは久しぶりだった。アスファルトとコンクリートの上だけで、生活し始めたのはいつからだったろうか。まして、海をゆっくり眺めるなんていつぶりだろうと思う僕を、強めに吹いていた潮風が僕を取り囲んだ。風に煽られているらしい波の音が聞こえる。どこか懐かしい、繰り返しの波音を僕の鼓膜を揺らしていた。

 助手席のドアが閉まる音がして、美加が膝の上にバスケットを乗せて車の前に出てきた。「あそこから上がるんですね。」

と、スロープの方を向いて美加が言った。

「ああ、そうだよ。そのバスケット、持つよ。」

「ありがとうございます。でも、上に上がったら、返してくださいね。私が持ちますから。」

「心配しなくても、つまみ食いなんてしないよ。」

「そんなこと、言ってないですよー。もう。」

 わざと、頬を膨らませて怒って見せた美加と一緒にスロープに近づいた。たぶん、後付けされたのであろうスロープの勾配はそれほど急なわけではなかったが、ゆっくりと美加と上っていった。堤防の上にあがると、青い海と長く続く砂浜が見えた。少し風が強いので、白波が立っているのが見える。海辺にも、泡だって白く見える波が押し寄せている。二人とも、呼吸を整えるように黙って海を見つめていた。沖合から繰り返しやってくる波は、永遠のように思え、ただ黙って海の営みを眺めるしかなかったのかも知れなかった。

「連れてきてもらって良かったです。久しぶりに海を見られました。」

 一羽のカモメが、僕たちの上を通り過ぎたとき、まっすぐに海を見つめて美加が口を開いた。僕は美加の方に顔を向けた。そこには潮風に揺れる髪と、海の蒼さがあふれる瞳があった。

「僕も久しぶりだよ。君と来なかったら海なんて見られなかったかもしれないよ。」

「私のわがままも、少しは橘さんの役に立ったと言うことですよね。」

「そうだね。」

 波の音を聴くためのように、再び僕たちの間に沈黙が流れた。幾度波が押し寄せて引いていっただろうか。

「落ち着いた?君の心は。」

「ええ、海はいいですね。癒やされます。」

 僕たちは、海の呼吸のように見える波の動きを目を離さずに見つめていた。

「もう少し先の方へ行ってみようか?」

 僕は、相変わらず海を見つめている美加に声をかけた。美加は瞳をこちらにむけて応えた。

「そうですね。橘さん、何で海を見ると落ち着くんでしょうか?」

「そうだなぁ。海は生命の根源だって聞いたことあるなぁ。母親の胎内の記憶と近いものがあるんじゃないのかなぁ。」

「橘さんて、結構ロマンチストなんですね。」 美加は、先ほどまで海を見つめていた真剣な顔は、いつもの明るさを取り戻していた。僕たちは、ゆっくりと岬の先の方に歩き始めた。堤防の上は、幅が3メートルくらいあり、海側には50センチ位せり上がっていて、陸側にはなにもなかった。堤防の上は平坦だけれども、コンクリートの継ぎ目があり、注意してないとキャスターが引っかかったりするので注意が必要だった。なだらかに左にカーブしている堤防と、波に洗われる砂浜を見ながら進んでいった。

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