外郎売
「仕方ない、天才に似つかわしくない行為だけどやるしかないね」
走りながらパーカーを脱ぎ、川を突き進む。水深は膝下程度、足を動かしづらいもどかしさはあるが、どうということはない。
フローリアの前に滑り込んだ或鳩は、パーカーを大きく広げて、息を吸い込んだ。
「拙者親方と申すは! お立ち会いの中に御存知のお方も御座りましょうが! 御江戸を発って二十里上方! 相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへおいでなさるれば!」
ばっさばっさとパーカーを仰ぎながら、目一杯の声を張り上げて威嚇する。
面を喰らった狼たちは、やがて、彼の奇行に哀れむような眼差しを残して引き上げていった。
「落ち着きのない狼だな。全体の一割も読み上げていないから発声練習にすらならないよ」
余裕をかましていても、額に噴き出した汗は尋常ではない。或鳩はパーカーを小脇に抱え、シャツの裾で顔を拭う。ずぶ濡れのチノパンに顔を顰めていると、背後から声をかけられた。
「ありがとう……ございます」
「天才の僕様にかかれば容易いことだから気にしないでいいよ」
軽く手を払ってから、「いや」と或鳩は振り返る。
「こんな森のなかで無防備に水浴びをしている君の失態は大いに気にしてくれ」
「ごめんなさい、ちょっと頭を冷やしたく――」
「言い訳は聞いてない。それよりまずはこれを着て」
「だ、大丈夫。着替え……あるから」
おずおずと川のほとりを指差すフローリアに、盛大なため息を返す。
「あそこに行くまで裸でいる気? 君が露出狂の痴女でないなら、着て」
押しつけるようにパーカーを渡すと、羽織った彼女はおっかなびっくりとしている。初めて目にするファスナーを持て余しているのだろう。しかし特に訊かれることもなかったため、或鳩は説明をせず、開かれたままの布地から覗く乳房をしげしげと観察していた。
「興味深い。君って、けっこう胸が大きいんだね」
「む、むむむむねっ!?」
「狼は一日に、体重一キロあたり百四十グラムの肉を食べる。あの大きさと数から概算するに、君の体重は五十キロ強だね。身長は……僕様より少し大きいから、百六十五くらいはあるか。BMI標準値下限ぎりぎりのスタイルでDカップ近くあるなんて、生理はちゃんと来てる?」
「何を言ってるか分からないけど見ないでぇっ!?」
羞恥に悲鳴をあげて、フローリアは襟を合わせて身を隠す。涙混じりの顔は、夜の深い闇の中でもわかるほどに赤く、パーカーの裾から覗く滑らかな脚はもじもじと擦れあっていた。
「心配しなくていい。彪や星呉じゃないんだ、僕様は裸を見た程度じゃ興奮しないから」
「……なんだか、それはそれで癪ね」
彼女がつんとそっぽを向いたことで舞い上がった裾から、形の良い小振りの桃尻が覗く。
彪たちがいれば狂喜乱舞していただろうな。などと呆然と考えながら、或鳩は川から上がることにした。いい加減、スニーカーの中を侵す水が気持ち悪い。
「いいから行くよ、僕様まで風邪を引いてしまう。馬鹿は風邪を引かないなんて言うけど、天才が風邪を引くのも、それはそれで癪だからね」
追い越しながら左の手首をつかむ。しかし、その手は反射的に引っ込められた。
「痛っ……」
どうやら拒絶ではなかったらしい。そっと腕を取ると、手の甲にうっすらと血が滲んでいた。
「草で切っちゃったのかしら。このくらい大丈夫よ。慣れてる」
「駄目だ。君が言ったんだよ? 女の子の肌に傷が残ったらいけないって」
そう言って、或鳩がポケットから取り出したスカーフに、フローリアはあっと声を上げる。
「そのシャルフ……持っていてくれたのね」
「水洗いだけで申し訳ないけれど、僕様は性病や肝炎を患っていないから安心してくれ」
適当に返事をしながら、或鳩は水際の草に目を走らせる。その中から、昨日星呉が見繕ったものと同じ薬草を摘み、手ですり潰した。
フローリアの手を取ると、彼女は少し恥ずかしそうに身じろぎする。それを逃がさないよう、手首を掴む或鳩の手に力が入る。
「い……痛いわ。そんなに強くしないで」
「君が逃げるからだ」
すり潰した葉を広げて患部に当てがい、細く折りたたんだスカーフを巻きつける。
「手当終了。行くよ」
「ねえ待って! もしかして、あなた――」
「何度も言わせないでくれるかな。服を着たいの? 裸を見せたいの?」
「うぅ……ごめんなさい」
うな垂れたフローリアと川を上がる。彼女はこちらに背を向けてパーカーを脱ぎ、キャミソールのような下着を身に纏った。或鳩は返してもらったパーカーに袖を通しながら、
「じゃあ僕様は行くから。服を乾かさなきゃ」
「待って。あなたに訊きたいことがあるの」
立ち去ろうとした足を、切実な声に呼び止められた。
「服を乾かすための火なら準備するから」
「……乾かす間だけだよ」
溜め息をついて、腰を下ろす。やった、と手を握っていそいそと着替えを急ぐフローリアを横目に見ながら、或鳩はその辺りに落ちている小枝をかき集めるのだった。
或鳩が去った空間で、彪と星呉はじっと座っていた。肌寒い夜風をしのぐために背中を合わせ、ぼうっと、エアヴェルメンを見つめる。
「こうして赤い色を見ていると、暖を取れてる気になるよな」
「気のせいだろ。俺らが冬服だから、多少は耐えられてるだけだ」
時折茶化すような言葉を発して苦笑し合うも、すぐに空しさが押し寄せてくる。
「あいつがいねぇと、静かだよな……」
ひとりごちた星呉に、彪は黙って頷く。口うるさくて煩わしい奴ではあったが、衝動的に突き放してしまったことで空いた穴は、思っていた以上に大きかった。
「あいつの言う通りかもな……。黒龍と遭遇した時だって、あいつが先陣切ってオレたちを案内してくれてなかったらどうなってたか」
完全に負けた気がして。彪は足元の草をむしり、放り投げる。
「今だってそうだ。オレたちとケンカしながら、あいつはフローリアのことを忘れてなかった」
「そういや、フローリアがオルカーンに吹っ飛ばされた時も、あいつはすぐに走ってったよな」
自然と口からこぼれた言葉に、二人ははっとして顔を上げた。
ずっと一緒にいれば、或鳩はうるさく面倒くさい。しかし同時に、彼のおかげで切り抜けたピンチがあるのも確かで。何より、自分たちより身長が低いくせに、視点は遥かに高い。
その存在の大きさに気づいてしまっては、意地を張ることなどできなかった。
「…………謝るか」
「…………だな」
立ち上がった彪たちは、互いの顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます