黒子として
一方その頃。トイレから戻った彪は、星呉の「おかえり」の声に出迎えられていた。
一人分の声に違和感を覚えた彪は、端のベッドが空であることを確認して、首を捻る。
「あいつ、戻って来てないのか? トイレにはいなかったんだけど」
「……マジで?」
さすがに体を起こした星呉だったが、暫く考え込んでから、
「ガキじゃあるまいし、あいつのことだから適当に戻ってくるだろ。静かでいいし」
「んー……まぁ、宿代はこっちにあるし、問題ないか。静かでいいし」
心配もそこそこに、おやすみを言い合った二人は各々のベッドへと戻って行った。
或鳩は半眼で天井を睨んだ。どうしてこうなった。
たかがマッサージにフローリアが腰を抜かしたことはまだいい。おそらくフランドルフの世界では一般的でないから、体がほぐれる解放感に慣れていなかったのだろう。しかし、だ。
「どうして添い寝までする必要があるのかな……?」
天井に向けていた視線を、隣で満面の笑顔を浮かべる少女へと降ろす。傍にいることくらいは甘んじるが、まさかベッドに引っ張り込まれるとは思いもしなかった。
「もう。その質問、五回目よ?」
「納得できる回答がもらえたなら打ち切る」
「だから、お喋りしたいからって言ってるじゃない」
理屈もなにもあったものではない。拗ねたように唇をとがらせたフローリアに、或鳩は何度目かのため息を吐く。椅子に腰かけて看ているだけでも、会話はできるだろうに。
しかし、そんな或鳩の苛立ちをよそに、彼女はぽつり、と語りはじめた。
「私ね。今日、ある剣士に負けたの。……凄まじく強かったわ」
知ってる。……とは言えずに、或鳩は適当に相づちを打つ。
「悔しかった。ソフィやナタリーを守りきれなかったことも、見逃される形になっていたことも。この宿で目が覚めた時には、本当に……」
酔いもだいぶ醒めてきたのだろう、フローリアは真剣な表情で歯噛みしている。
「幼い頃から剣術を学んできたわ。人の上に立つ者は民や兵士に守られているだけではいけない、いざという時、民や兵士を守れる力を持っていなければならないんだって」
ぎゅっと、弱々しく袖を握ってくる小さな手。
或鳩は無視を決め込もうとしたが、なぜだか意識を離せずにいた。
「けれど、負けた。……私は箱入り娘だったのかな。世間知らずだったのかな?」
不意に問いかけられ、或鳩はあー、と間抜けに言いあぐねる。
「まぁ、そりゃあ勿論。王家の人間が世間知らずでないはずがない」
「うっ……やっぱり」
ずばりと言い切られたフローリアはうな垂れる。或鳩は彼女の縮こまった肩を起こすと、その影が差してしまった目を真っ直ぐに見つめて、
「でも気に病むことはない。日本の内閣が良い例だよ、民衆の立場を経験してきた人間ばかりのはずなのに、世間の声なんて聞いていないような的外れの政策を打ち出してる」
「ニッポン? ナイカク?」
「ああ、そこは聞き流して」
語彙の齟齬に手を払う。外来語や和製英語といった横文字を使わなければいいというだけではなく、フランドルフに存在しない概念の言葉も使えないとは、骨が折れる。
「とにかく。失敗したならまた挑めばいい。そのために反省があるんだ」
「あり……がとう。少し、気が楽になったわ」
フローリアは少しだけ涙をにじませると、その目を隠すように伏せ、そのまま頭を或鳩に預けてくる。こつん、と頭を触れさせた彼女は、気恥ずかしそうに舌を出した。
美しい姫と密着しても或鳩が平然としている理由は、別に触れ合いなどに興味をもっていないからなのだが。そんなことも露知らず、フローリアはほっとしたように顔を埋めてくる。
「ちなみに、あれは負けイベントだろうからね。次は勝てるっていうのがお約束だよ」
或鳩が思い出したように補足を入れたが、しかし、その言葉への反応はない。
見ると、ひしと腕にしがみついたまま、フローリアは静かに寝息を立てていた。
「やれやれ、一番大事なヒントだったのに聞いていないとは。だから箱入りなんだ」
嘆息してから、起こさないように腕を抜こうと試みる。無事に抜けこそしたが、その際に彼女の胸に触れてしまったのか、んっ、という悩ましげな顔を見せられる。
「……この場に彪たちがいたら危なかったね」
一応はフローリアの貞操を気にかけつつ、彼女が起きないことを確認して、或鳩はベッドから降りた。彼女にそっとシーツをかけ直し、部屋を出る。
「やっぱりフローリアは勇者としてまだまだ未熟だ。だけど――」
ドアを閉めたところで足を止め、中にいるだろう勇者へと扉越しに振り返る。
「アインシュタイン曰く『私たちは、人々に奉仕するために最善を尽くさなければならない』。僕様が黒子として、箱入り娘を一流の勇者に育て上げるのも悪くない……かな」
自分が勇者ではないことはたしかに不服。しかし、今の立場に甘んじることを受け入れた或鳩は、自分を奮い立たせるように頷いた。
我ながら当然のことだが、ここまで選択ミスはなかった。龍を遠ざけ、全滅したパーティを宿まで送り、回復の手引きもつつがない。
唯一、今しがたフローリアと遭遇したのは誤算だったか。しかし、自分が黒子であることがバレていないどころか、マッサージでさらなる体力回復に貢献できたと自負している。
「やっぱり僕様は天才だな」
或鳩は身震いした。己の怖いくらいの実力に武者震い……したわけではなく。
「……トイレ」
単なる尿意だったことを自嘲気味に笑いながら、或鳩は再び暗い廊下へと踏み出した。
辿り着いたトイレの格子窓から差し込む月の光は、暖かい月白色のエールか、その先にある闇を匂わせた警告か。その答えは誰も知ることのないまま、夜は更けていく。
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