捕獲

「今、何時なんだろうな」


 シーツにもぐり込みながら、星呉が誰に問うでもなく呟く。


「時計の文化がないからなぁ。夕飯も、日が沈んでからっていう計算だったし」

「腹時計じゃなくて良かったよ。彪に任せてたら常時食事になってしまうところだった」


 ベッドメイクを済ませ寝そべる彪に、消灯と戸締りの確認をしていた或鳩の軽口が飛ぶ。


「なぁ、たまには嫌味にも眠ってもらったらどうだ?」


 呆れたような声に、彼は一瞥だけ返すと、


「トイレに行ってから説得してみるよ。現実的に可能ならね」


 肩を竦めて部屋を出た。




 小用を足してすっきりした足取りで、暗い廊下を進む。時折光の漏れた部屋も見られるが、声のボリュームは抑えているのだろう。音がないというのは、それだけで恐怖心を煽られる。

 小便をした直後の体の震えがもう一度襲ってきたような気がして、或鳩は「馬鹿馬鹿しい」と一人ごちる。幽霊の類は信じていないつもりだった。しかし、


「――っ?」


 努めて明かりを見るように歩いていたせいで、現れた何かに気づくのが遅れてしまう。

 光を隔てた向こうの闇。明暗のせいで見えづらいが、何かが歩いてくることだけは判った。

 ひた、ひたと、おぼつかない足取り。時折聴こえる、喉だけを鳴らしたような低い呻き声。やっと視認できた輪郭は、流れるままに髪を下ろした長髪の女性に見えた。


「……定番だね」


 引きつった半笑いで自身を鼓舞しながら、さてどうしようかと人影を見据える。

 すると、不意に人影が言語を発した。


「うぅ、頭いったぁい……」


 その聞き覚えのある声と、ようやく明かりに照らしだされた顔に、或鳩は胸を撫で下ろす。


「あれっ? たしかあなた、王都で会った……」


 幽霊の正体は、フローリアだった。やはり気を張るだけ無駄だったとため息をついて、或鳩はフードを被ろうと頭の後ろに手を回す。しかし、就寝に向けて宿に備え付けの麻の上下を着ている今、パーカーで顔を隠すことはできない。

内心で舌打ちしつつ、足早にやり過ごそうとするが、


「ね、ね。お話ししましょうよ!」


 両手でこちらの手首を掴まれてしまっては、それも叶わなかった。

 母親以外では馴染みの少ない女性の手。その細い指の感触と、手のひらから伝わる冷たいような温かいような、不思議な温もりに困惑する。


「手を離してくれるかな。酔いやすい分醒めるのも早いと思うけれど、早く寝た方がいい」


 或鳩は冷静に諭しているつもりだったが、その声はわずかに上擦っていた。

 これまで他人から手を掴まれるケースといえば、彪たちと馬鹿騒ぎをした際に、説教のために拘束されるというものばかりだった。そしてそれは、乱暴に振りほどくことができた。

 フローリアの手は敵意もなく、優しい握り方であるというのに。何故振り払えないのか。


「その可愛い顔、やっぱりあの時の子よね? さ、こっちこっち!」

「またジェンダーハラスメントか。ほんと酔っぱらいは質が悪――ちょっ、引っ張らないで!」


 躊躇している間に、或鳩は手近な空き部屋へと連れ込まれてしまった。


 まだ酒は抜けきっていないのだろう。妙にテンションの高いフローリアは、或鳩の手を引いたまま嬉々としてベッドにダイブした。


「……本当に姫なのか疑わしいね」


 はしたないとも言える奇行に、或鳩は小さく毒づく。


「こうやってね、寝る前にお話することが夢だったのよ。お城では一人だったし、今日はソフィもナタリーも寝ちゃってるんだもの」


 寂しそうな口調とは裏腹に、フローリアの声色はうっとりとしていた。


「ねぇ、本当に男の子なの?」

「それについては証明済みのはずだよ」


 投げやりに答える或鳩に気を悪くする素振りもなく。それどころか、深夜トークの夢が叶った興奮からか、フローリアの眼は優しげに細くなる。


「うふふ、お姉ちゃん、また確認しちゃおっかなー」

「言っておくけど、姉じゃない。僕様と君は同い年だから」

「えっ、そうなの? ごめんなさい……うわぁ、ここはちゃんと男の子なのね」

「さーわーるーなー!」


 初めて会った時、こちらの局部に錯乱していた清楚な姫はどこへ行ったのか。或鳩は飲酒の恐ろしい一面を目の当たりにしていた。

 逃げようとしても、覆いかぶさられては太刀打ちができない。男とはいえ小柄なこともあり、剣を生業にしているフローリアには、どうしても力負けしてしまう。


「噂で聞いてはいたけれど、本当に固くなるのね」

「生理現象だ! ゲームやエロ本では『嫌なら感じない』とか言われているけれど、とどのつまり性感とは、摩擦によるダメージの錯覚だよ。患部を触られることに好きも嫌いもないっ!」


 じたばたともがいても、腰の脇に立てられた膝でがっしりとホールドされてしまっていた。


「私のこと……嫌い?」

「だからそれは無関係なんだって」


 手を払うと、フローリアは捨てられた子犬のようにしょぼくれてしまう。


「あーもうそんな顔しないでよ面倒くさい。分かった言うよ、君のことは嫌いではない」

「じゃあ……好きってこと?」


 お手上げだった。涙をうっすらと溜めた瞳で見つめられては、否定するだけ無駄である。闇の中でもはっきりと分かる彼女の瞳に吸い込まれるような気がして、思わず目を逸らす。


「もうそれでいいよ……」


 王宮でほとんど篭の鳥状態だっただけに、誰かに甘える経験も少なかったのだろう。そんな或鳩のぶっきらぼうな返答にさえ、彼女はぱっとほころんだ。

 喜び勇んだ指は、もっとしてあげると言わんばかりに或鳩の愚息を這ってくる。


「これが相対性理論か……やりたくもない行為をさせられては苦痛でしかない。三大欲求を唱える学者は、本能という言葉で下半身を正当化させようとしているな」

「何をぶつぶつ言ってるの、それより力抜いて。こっている時は揉むのがいいって聞いたわ」


 薄紅色の舌で悪戯っ子のように上唇を舐めたフローリアは、ズボンを脱がそうと手をかけてきた。これにはさすがに待ったをかける。無邪気という名の邪気に、或鳩は眉間を押さえた。


「もはや知っててふざけてるのかと思うレベルだよね……」

「……違うの?」

「全くね。『こっている時は揉む』とはどういうことか教えてあげるから、ほら、そこに寝て」


 話をすり替えた或鳩は、言われるがまま不安げにうつ伏せになったフローリアへと跨った。




 一方その頃。彪と星呉は律儀に或鳩の帰りを待っていた。


「或鳩の奴、遅いな……」

「だな。もう、戻ってきてうるさくなる前に寝ちまおうぜ」

「オレもちょっとトイレ行ってくる」


 のそのそとベッドから這い出た彪は、半ば眠りに落ちている目を擦りながら部屋を出た。

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