フローリア・フォン・フランドルフ
「いったぁ……。デマ本掴んだわ、
彼女は腰に手を当てながら立ち上がると、はっとして或鳩へと寄り添う。
「ねぇあなた、大丈夫?」
「……大丈夫の定義が不明である以上、その質問には答えられない」
不貞腐れたのか、或鳩は頑として潰れたカエルのような態勢を崩そうとしなかった。
「これには答えられる。君が僕様に声をかけた時点から落下をはじめたと仮定しても、衝突するまでの時間と実際の衝撃を比べるに、君の読んだ本は嘘じゃない。でなきゃ死んでるよ」
地に付したまま恨み言のように考察を述べる彼に、見かねた彪が通訳をする。
「大丈夫みたい。君は?」
「私は平気よ。この子にも怪我がないといいのだけど――」
振り返ったところで、少女はあっと小さな悲鳴を上げた。ようやく上体を起こした或鳩の、わずかに捲れたチノパンの裾から覗く肌を見たからだ。
「やだ、擦りむいてるじゃない! どうしよう。ソフィがいればすぐ治せるのだけれど」
「自然治癒能力で対応できる程度だよ、支障はない」
やや赤くなった足首の具合を確認しようと覗き込む顔を、或鳩は鬱陶しそうに手で払う。しかし、少女はずいと身を乗り出し、真剣なまなざしを向けてくる。
「駄目よ、女の子の肌に傷が残ったらいけないわ」
「んなっ!?」
思いがけない言葉に、或鳩は思わず仰け反った。ぱくぱくと口を動かし、ショックのあまり声を出せずにいる彼をよそに、少女は彪と星呉に左手で手招きする。
「あなたたちも、この子を起こすの手伝ってもらえるかしら? 手当をしたいの」
声をかけられた星呉は、彪の耳に手を添えた。
「(この子も、勘違いしてるよね)」
「……なぁ『残念イケメン』さんよ、空想の世界でも女性と話せないのか?」
「(仕方ねぇだろ、元の世界に戻ったら診断書見せてやるからな!)」
元いた世界では残念イケメンと揶揄されることが多かった星呉は、女性を前にすると、同性への耳打ちでしか意思を表明できなかった。それは、フランドルフに来ても同様らしい。
そして、或鳩の容姿が女の子と間違えられることもまた、同様だった。
彼らにとっては過去に幾度も出くわした勘違い。とはいえ、慣れた様子をぞんざいな態度と受け取ったのだろう。事情を知る由もない少女は、軽蔑するような目で二人を睨んでくる。
「ちょっと! 女の子が怪我をしているのよ、手伝ってくれてもいいでしょう?」
非難されるのも初めてではない。彪は慣れた様子で或鳩を指差し、告げた。
「残念だけど、そいつは男なんだよ」
「えっ、と……?」
振り返った少女は、口を真一文字にして腕を組み、無言の抗議をしてくる或鳩に硬直する。
彼はその童顔と耳までかかる髪も相まって、女子と紹介されれば大抵の人が信じる。母親が無理矢理買ってきたものとはいえ、桜色のパーカーを着ているのだから尚更のことだった。
しかし、男と言われれば男に見えるのもまた確か。少女は素直に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!」
「……中性的顔立ちを総じて女と呼ぶジェンダーハラスメントにはいい加減うんざりだよ」
「ジェンダーハラ……なんですって?」
子猫のように首を傾げる少女を見て、或鳩はほう、と目を見開いた。
「なるほど。とぼけるという方法でのセカンドハラスメントとは新しいね」
たたみ掛けられた嫌味にも、しかし、彼女の首はますます横に倒れていく。
「もしかして、言葉が微妙に通じてないんじゃないか? 英語がダメとか」
彪からやんわりと入れられたフォローに、或鳩は心あたりがあるのか、
「それなら納得だよ。さっきのおばちゃんの呪文もドイツ語だったしね」
少女に向き直り、即座に言い放った。
「
「ごめんなさい、なんて言ってるのかさっぱり」
「駄目だ、ドイツ語が通じるわけじゃないらしい」
おおげさに肩を落とす或鳩。一方で記憶の発掘に勤しんでいたらしい少女は、何やら思い当たることがあったのか、ぱっと目を輝かせた。
「もしかして、それが最近の若者言葉というものかしら!」
「ぜんっっっぜん違うよ!?」
やっと行き着いた答えを物凄い剣幕で否定され、彼女はひっ、と首を竦めた。
「遥か昔に偉大な厨二病患者が創り上げた意思伝達手段を、脳みそ空っぽな奴らが考えた言語というにもおこがましい呪文と一緒にしないでくれるかな? 今の僕様の気持ちを若者言葉とやらで表現するならこうだ、『がんなえ~』。意味は常識人の背筋を凍てつかせること!」
「なあ或鳩。初対面の子なんだ、いつもの理屈責めもその辺にしとけ。それに『がんなえ』はとっくに死語だぞ」
堰を切ったように地面をばんばんと叩く或鳩に、彪は少女へ助け船を出そうと試みる。
しかし彼女は、申し訳なさそうに首を振った。
「いいのよ。ちゃんと言葉で訴えようとする人、素敵だと思うわ」
ぴしっ。彪と星呉は、一瞬時間が止まったような錯覚に陥った。何度か、いや何度も目をしばたたかせた後、世界の終わりに匹敵する恐ろしいものを見たような顔を見合わせる。しかし少女の真摯な眼差しは、これが冗談などではないことを示していた。
ただ、本当に恐ろしいのは、好意を向けられてもため息で返す或鳩の方なのかもしれない。
「どうでもいいけど、右手、いい加減どかしてくれない?」
「あっ、ごめんなさ…………い?」
慌ただしくどこうとした少女の手は、しかし、寸前で彼女の表情ごと固まってしまう。
「これって……短剣、よね? こんなところに武器を隠し持っているだけ、なのよね?」
細い眉を引きつらせながら、少女は或鳩の下腹部を軽く握り直す。
「一応言っておくけれど、違う。剣はこっち」
或鳩がパーカーから柄を覗かせても、好奇心に火のついた手は止まらない。軽いタッチから始まった確認作業は、確信を得られないことに業を煮やしてか、たどたどしい手つきのストロークへと移行していく。雪のようだった頬はほのかに上気し、瞳は蕩けて焦点を失っていた。
「アインシュタイン曰く『同じことを繰り返していながら異なる結果を期待するのは、頭がどうかしている』。もう一度言うけれど、僕様は男だ。確かに男性器を剣だと遠まわしに表現する風潮はあるけれど、たとえ君が処女でも、さすがにこれが男根だということは解るはずだよ」
ついに手を払われて我に返った少女は、その手をわなわなと震わせて、
「シュ、シュシュシュ、シュヴァンツだったの――――!?」
目を白黒させながら飛び上がった。「今のドイツ語は解った」と、彪たちがニヤついている。
「本っ当にごめんなさい! とりあえず、シャルフしかないけれど足の手当をさせて!」
土下座する勢いで口元のスカーフをむしり取った拍子に、少女の頭を隠していたフードまでもが脱げてしまう。露わになった彼女の素顔に、或鳩たちは目を疑った。
「「「フローリア!?」」」
声を上げる三人――内一人は心の中でだが――に、少女はしまった、とフードを被り直す。
彼女こそ、『フランドルフ』のヒロインにして、舞台であるフランドルフ国の王女フローリア・フォン・フランドルフその人だった。
「ひ、人違いじゃないかしら? つ、続けるわね」
声が裏返りながらも手際は冷静。或鳩の靴下をずらし、自身の口が触れていた部分を隠すようにスカーフを折ると、手早く幹部へと巻きつけていく。
さすがに偏屈屋の或鳩といえど、ここまでされては何も言わないわけにはいかなかった。
「ありがとう、フローリア」
「気にしないで。私の方こそごめんなさい」
処置を終えて立ち上がったところで、違和感にはたと視線を宙に彷徨わせたフローリアは、すぐに手をぶんぶんと振りながら三歩ほど後ずさる。
「だ、だから私フローリアじゃないわ!」
「その否定は無意味だよ。君がフローリアであることは明らかだ。公式サイト、パッケージ、店頭ポスター、取扱説明書のすべてにおいてキャラ絵の横にあった名前が誤植じゃない限りね」
しかと頷く或鳩の傍ら、だから横文字は通じないんだってばと空を仰いだ彪が、ふと目についた塔を指差し、フローリアに訊ねた。
「君が降ってきたこの塔も、お城の一部だよね? やっぱり――」
「お願い! 今私を見たことは誰にも言わないでもらえるかしら?」
だめ? と顔の前で手を叩きあわせた彼女に、彪は頬を掻きながら唸る。
「……まぁ、構わないけれど」
そう言ったところで、城の窓から「姫様がいらっしゃらないぞ!」「何っ、出立は明日だぞ、探せ探せ!」なんて野太い声が聞こえてきた。
「もう、散歩くらいいいじゃないの。別に任務を放棄するつもりはないと言っているのに」
苦い顔で城を見上げるフローリア。語気にはいくらか焦りが見えた。
「申し訳ないけれど、私は行くわ。傷口は後でちゃんと洗って、改めて手当してね」
素早く、しかしながら慎ましやかな一礼をして、フローリアは颯爽と身を翻し駆けていった。
「フローリア、綺麗だったな……」
たなびくローブの裾が小さくなっていくのを見送ってから、彪が熱に浮かされたように声を漏らした。それに同調するように、星呉が問う。
「おう?」
しかし、未だ夢の中にいる彪の代わりに、反応したのは或鳩だった。
「やっと喋ったと思ったら、アシカの鳴き真似?」
「違ぇよ。追いかけるかどうか聞いたんだ!」
がるる、と歯を剥き出す勢いで睨み合う二人に、ようやく我に返った彪は頭を抱える。
「喧嘩している場合か、行くなら行くぞ!」
「「賛成!」」
一触即発の空気はどこへやら。或鳩と星呉はあっけなく矛を収めると、赤髪の姫を追って走り出してしまう。言い出しっぺのはずが、すっかり置いて行かれた彪は、
「オレは動けるデブ、動けるデブ……あいつらに追いつくのもわけがない!」
頬に二、三の気合いを叩きつけて、地面を蹴った。
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