第2話

 三日ほど経って、紫雲は許由ら腹心を伴って泰原の街に入った。そこは古い城市がほぼそのままに残る典型的な江南の田舎町で、城壁の内外には洗練こそされていないが素朴で心惹かれる街並みが続いている。

 彼女は基本的に微行を好み、私的な用向きは許由と護衛役として副官数名を伴うだけに留めていたが、流石に公の職務でそれを貫く訳にもいかず、百人余りの随員を引き連れて向かう事となった。(これでも総督級の官吏には極めて少数である)

 一方唐突に雲上人である総督の来訪を迎えることになった楊県令は大いに驚いたが、急いで彼女と随員達を迎える為に宿所や饗応の準備を整えた。無論来訪前に特段の饗応や華美な宴は不要の旨を申し付けられていたが、それで馬鹿正直に質素な出迎えをするのは他ならぬ総督本人くらいのものである。結果として彼女は県令庁に着いた途端、役人総出の出迎えと贅沢な酒宴のもてなしを受けることとなった。

「公主殿下、この度はこの様な鄙びた所へおいで下さいまして…」

「御託は結構だ県令。少なくとも私は監察御史として来たのでも、其方を辞めさせる為に来たのでもない」

「はは…」

 県令の楊重民は、紫雲の見た所ある種模範的な王朝の中級官僚であった。過酷な試験を通って進士に及第し、有職故実に通じていてそれ相応の実務能力は有している。が、思考は硬直的で融通が効かず、また長年の抑圧から心が荒み、上には諂って下には大きな態度を取る。無論相手には相手の意見があり、皇族という生まれと軍才だけで成り上がった青二才の女を良く思っている筈も無い。

 が、それをお互い口や態度に出さずに穏便にコミュニケーションを取るのが大人と言うものだ。少なくとも結婚して親となってからの紫雲は、そうある様に努めていた。ー大人度合いで夫には未だ遥か及ばないとしても。

「それで、殿下。この度はどの様なご用向きで」

「伝えた通りだ。例の和尚殺人の一件について、私自ら調査をする為にきた」

「総督御自ら!?…しかし、あの一件はやはり豆腐屋夫婦の金目当ての犯行ではないでしょうか。和尚を刺殺した後財布と着物を奪い、井戸に投げ込んだのでは?」

「だが、その割にまだ剥ぎ取ったという着物は質屋にも流れておらんのだろう。もう少しよくよく調べたらどうだ」

「言葉は誠にごもっとも。然し乍ら、昨今多事多難の折、県令庁も人手が不足しており…」

「その事ならば問題無い。総督府の吟味方から精鋭を連れてきた。直接の調査はこの者らにやらせる。其方は長年培った人脈で、我らが泰原の街で滞りなく調査を進められる様計らってくれればいい」

「はっ、ではその様に…」

 楊県令は自分より二十五歳も歳下の女性に酌をしながら深く頭を垂れた。その様子を見て許由は流石にある種の憐れを催したが、無論敢えて口に出すことはせず盃を傾けた。

「ところで県令」

「はっ」

「この街一の富豪は誰だったかな」

「はい、この泰原の街には三つ大家が御座います。一つは米穀商で名を成した姚家、次いで絹織物を扱って分限になった張家、そしてかつては御用商人として街の塩の商売も手掛けていた曹家ですがーそれはもう没落をしております。今一番勢いが盛んな家は姚家と張家でございましょう」

「そう、思い出したその張家だが…最近娘が亡くなったそうだな」

「…ご存知でいらっしゃいましたか」

「無論後の顛末も知っているが、念のため詳しいことを聞いておきたい。話せ」

「しからば…」

 楊県令は、殺人事件と並行して起きた奇怪な死体消失事件について話し始めた。

「亡くなった娘というのは、張家の当主張百万殿の二番目の娘で玉珠と言います。この玉珠はとても見目が良く街の憧れの的でしたが、つい最近姚家の当主姚繁昌殿の息子で生員の姚思孝と婚約してまさに明日嫁入りするという矢先だったのです」

「何と」

「しかし、俄かに病を発して亡くなられたので百万殿はいたく悲しまれ、直ぐにきちんとした葬儀をあげてやろうと思い、生前着るはずだった晴れ着を着せて霊堂に安置していたのです」

「ふむふむ」

「しかし、その遺体が朝になると棺の中から消え失せて、どこかに行ってしまったのですよ!」

「なるほど…」

 紫雲は出された鳥の手羽先を噛み、話と共に飲み込んだ。

「ちなみにその霊堂というのは何処にある?」

「は、件の豆腐屋のすぐ側に…」

「なるほどのう。いや助かった、県令。早速明日行ってみることにしよう。手間をかけてすまないが、張家と姚家の方にも話を聞ける様に手配してもらえないか」

「承知致しました」

 それから少し後。宴が果てて寝所に案内された紫雲と許由は、共に同じ布団に寝転がりながらこの事件について考えを巡らせていた。

「どう思う許由。和尚の殺人事件と消えた死体の一件、繋がっていると思うか」

「繋がってる可能性は十分あるんじゃないかな…例えばそう、玉珠さんのお弔いの為に和尚さんが呼ばれたけれど、その時に何かあって寺に戻る途中豆腐屋の前で災難に遭った、とか」

「確かに。和尚殿が霊堂に法要の名目で呼び出されたと考えれば、豆腐屋の前で目撃されたことに合点もいく」

「だけど、犯人につながる手掛かりになるかと言えば、それは少し望み薄だと思うな。何しろ死体がどこにあるか分からないんだからね」

「そうだな…差し当たって明日、豆腐屋をまず調べることにしよう。その後で、張家と姚家の事情聴取だ。特に張家は大切だ、和尚殿が豆腐屋の側に行ったかどうかの証言がいるからな」

「だね」

「じゃあ、今日はもう寝よう。明日も早いからな…おやすみ…」

「ん、おやすみ紫雲」

 翌朝。兼例達に見送られた紫雲は、早速部下を引き連れて豆腐屋のある東の辻へと向かった。英雄李紫雲来るの噂が広がっていたせいか、現地は既に野次馬で取り囲まれていたが、それを兵士達が強引に押し退けて彼女達の道を確保した。

 サービス精神に富んだ紫雲は辺りに集まる群衆に手を振ってやったり、握手を求める子供に応じてやったりしていたが、店の前に立つと一転して仕事の顔になりテキパキと部下に指示を送り始める。

「徹底的に探せ。多少物を壊しても構わん、総督府の予算で補填する。但し商売道具の類は注意をして扱え」

「はっ」

 彼女自身も豆腐屋の間口から中に足を踏み入れた。土塀と木組の素朴な作りに違わず、中もいかにも昔ながらの豆腐屋といった風情で、豆腐を並べておく為の桶や付け合わせに葱、味噌などの薬味が盛られていたであろう笊が残されている。尤も中身は腐敗臭を避ける為既に取り除かれており、いつまた置かれるかも分からないのだが。

「中々いい店だ。軍務を終えて隠退したら、何処か田舎町でこういう店を二人でやるのも悪くないかもしれないな」

「一体何を売るの、紫雲?」

「そうだな…私は何かを作るのが不得手だからな。これまで溜め込んだ本や書画骨董の類を売ることにしようか」

「紫雲が溜めてる物をみんな並べようとしたら、こんな狭いお店じゃ足りないよ」

「違いない」

「総督!」

「何か見つかったのか?」

「はっ、こちらへおいで頂けますか」

 許由と二人で中を見ていた紫雲は、外からやってきた兵士に呼び出され、家屋に付属している庭の方へと回った。そこはどうやら厩だったらしく、土塊とツンと鼻をつく動物特有の匂いが漂っている。

「何か見つかったのか」

「はい。厩の中の干し草の束から、この様なものが」

 差し出されたのは店の見た目には遅しく不相応な黒檀の箱で、豪華な蒔絵の模様も施されている。彼女が中を開けてみると、そこには、

「何だこれは、女の晴れ着じゃないか!」

「これが彼方の干し草の束の中に隠す様に置いてありました」

「むぅ。盗まれた着物かと思ったが、女物とはな」

「それに紫雲、この厩も何か妙な感じがするよ」

「何?」

 許由は厩をさっと観察すると、

「だってほら、馬が居ないんだよ。飼い葉桶のまぐさや水も残っているし、小屋の中には『落とし物』もされっぱなし。でも馬だけが居ないんだ」

「しかしそれは、誰か役人が連れて行ったんじゃあ…」

「いえ総督。県令殿によりますと押収したものの中に馬の類はございません」

「無いのか?」

「はっ。そして、不審に思った吟味方が近隣に証言を取ったところ、元々この豆腐屋では驢馬ロバを飼っていたのですが、それが事件のあった夜の前日から姿が見えないとのことであります!」

「消えた驢馬か…」

 紫雲は取り出した帳面にそのことを書き付けると、引き続き家探しをする様に兵士達に命じた。そして自分は見つかった箱入りの衣装を持って八人かきの駕籠に乗り込み、

「ここから近いのは張家と姚家どちらだ?」

「はっ、姚家であります」

「ではそちらに行こう。出してくれ」

「はっ!」

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