【中編ミステリ】総督公主と「歩いた死体」
津田薪太郎
第1話
とある王朝の末期。世の中の乱れと時代のうねりに合わせてか、幾つもの怪事件が起きた。その中でも特に世間に大きな影響を与えたものを歴史家達は「末代四大奇案」と呼ぶ。
この物語は、その一つにして当時の広州を大いに騒がせた、ある奇怪な事件の物語である。
光和三年三月のある日。
彼によると、少し前に街の郊外にある古井戸で僧侶の死骸が発見される事件があり、その犯人として豆腐屋の老夫婦が捕えられ有罪の判決を受けた。それについて総督府に身柄を移送し、第二審の判決を仰ぎたい、ということであった。付属の量刑申渡し書と理由には、科挙官僚らしく細かい文字で書かれた「斬首刑」についての記述が上から下まで詰まっている。
「
「うーん…いや、知らないかな」
「私も今しがた初めて聞いた。殺人事件となれば総督に報告が上がるはずなんだがな」
「最近の治安の悪さのせいかな。街の中はともかくとして、路上での追い剥ぎや強盗は多すぎて報告が上がらないことも多いらしいし」
「困ったものだ」
夫兼補佐役の許由に書類を渡すと、紫雲は容疑者の身柄引き受けについての指示を獄吏に与え、一週間以内に裁判を開始できる様に手配した。彼女にとって裁判は基本的に下級審の判断をそのまま踏襲するもので、自分の意思で判決を変えたり賄賂に応じて判断を枉げたりはしない。余程不当と思われる処罰については減刑を言い渡すこともあったが、県令達の面子も考慮して原判決を破棄することは殆ど無かった。
そして、今回の事件も基本的には同じ刑を言い渡すことになるだろう。そう彼女自身も考えていた。しかし、
「ん、待って紫雲。ちょっとここのところ読んでみてくれない?」
「どうした許由」
許由は細かい字で書かれた報告書のある点を指差した。そこには次の様に記されている。
「…被疑者である莫夫妻は、『全く身に覚えがない。被害者の花和尚が事件のあった夜に店に来たのは事実だが、程なくして帰って行った』と供述をしており…」
「これがどうかしたのか、許由」
「なんというか、少し引っ掛かるんだ。被疑者夫婦も無罪の申し立てをしているし、尋問記録にも一貫してそう主張してる」
「だが、二人の他に犯人と思われる人間はいないのだろう?」
「そうなんだけどねぇ…」
紫雲は考え込んだ。夫の言う「引っ掛かり」を単なる考えすぎとして排除するのは簡単である。しかし、これまで彼の示唆が彼女にとって重要なものを教えてくれたことは何度もあった。果たして無視して良いものだろうか。
「わかったよ許由。夫婦がこちらに移送されてきたら、改めて話を聞くことにしよう。だが、私が判決を変えるとは限らんからな」
「ありがとう紫雲」
にこやかに許由が笑いかけると、紫雲は恥ずかしそうに目線を外し、改めて記録を前に自分の考えに耽ったのだった。
数日後。予定通り老夫婦は、木組の牢獄を乗せた馬車で広州の総督府に送られてきた。瓦版か何かが出回っていたのか、二人の護送には多くの野次馬が詰めかけ、総督府の門前まで市を成していた。紫雲はこの騒ぎを不機嫌そうに眺めていたが、事件を物珍しく思うのは街の治安が良い証だ、という許由の言葉を聞くと頷いて邸内に戻っていった。
「総督閣下の御出座ー!」
銅鑼の音と掛け声という派手な演出と共に、法廷の代わりとなる総督府の大きな中庭に紫雲が姿を表すと、先に来ていた吟味役の官吏、及び容疑者の夫婦がはっと地面に頭を下げる。面を上げよと命じ、彼女は一番高い判事席に着いた。その席の上、庭を見下ろす軒桁には「
「それではこれより、泰原県に於いて起きた和尚の一件につき吟味を始める。まずは吟味方、事件について説明をせよ」
「はっ」
吟味方が読み上げた事件についての概要は次の様なものであった。
今から一週間前、泰原郊外にある古びた家宅の井戸の中で、同地の寺の花善隣和尚が死体で発見された。死体は胸を突き刺されており、誰かに殺害された後井戸に投げ込まれたものと思われた。
司直が疑いの目を向けたのは、和尚らしき人物の姿が最後に目撃された豆腐屋の主人である老夫婦であった。真夜中に豆腐屋の中へ入っていく和尚の姿を見た、と言う者がおり、夫婦もそれを認めていたからである。
第一審を担当した県令の楊重民はこの目撃証言を重視し、豆腐屋の主人夫婦が懐に持っていた金目当てに和尚を殺し、その死体を井戸に遺棄したものと結論づけたのだった。一方夫婦はこれに真っ向から反論し、和尚が真夜中に店に来たことは事実であるが、それは寺の豆腐が切れてしまったので買いに来ただけである。自分達は一切事件とは無関係だと主張した。
しかし判決は無慈悲にも有罪とされ、二人は広州において第二審を受けるまで入獄を申し付けられる事になった。もし第二審まで有罪となれば、斬首刑はほぼ決定的なものとなる。
「尋問で夫婦は罪を認めたのか」
「いいえ。楊県令が老齢を案じて糾問を致しませんでしたので」
「正解だ。老人に拷問はすべきでない」
この頃裁判で最も重要視されたのは自白である。基本的に容疑者の自白があれば、他の証拠がどうであれ判事は有罪の判決を下すことができた。しかし、逆に言えば自白がなければ有罪の判決を下すことは難しく、その為しばしば容疑者は拷問にかけられることがあった。建前上拷問は有罪の疑いが極めて濃い者のみに行う、とされて居たが実質それは有名無実の規定と化しており、冤罪の温床ともなっていたのである。
「さて、其方ら名前は」
「へい、私どもは莫と申しまして、先祖代々泰原で豆腐屋をしておりますへい」
「子供は居るのか」
「へえ、三人おります。上二人は兵隊に取られましたけんど、来年帰れることになりまして。下一人は娘で、もうすぐ嫁入りが決まっておりましたんに」
この一件次第では破談となるだろう、と紫雲は察した。それだけでない、長い間手塩にかけた子供達がそれぞれの形で幸せを手にしようとした矢先にこの事件である。そのさめざめと泣く様子は彼女の心に憐憫の思いを起こさずにはいられなかった。
とはいえ、その憐れみで裁判の判決を左右される様なことがあってはいけない。この夫婦が金目当てに僧侶を殺した憎むべき罪人である可能性も無論あるのだから。
「ところで、この二人が金を目当てに和尚を殺したとあったが。実際和尚は金を持っていたのか?」
「分かりませぬ。ですが、目撃者によれば和尚は常ならぬ豪奢で華やかな着物を着ていたとか」
「なるほど。それで懐に金があるのではと思い殺した、という可能性があるわけか」
「また、井戸から見つかった時僧侶の服は質素なーそう、まさに今あの豆腐屋夫婦が着ている物にそっくりな物に変わっておりましたので。服を剥ぎ取って金に変えたのだとも、楊県令は仰っていました」
「真だとすれば憎むべきことだ」
「お、おら達はそんなことはしませんだ!この五十年、正直一本で豆腐屋の商売をしておりますに…」
「ふむ…ちなみに、その金や着物は見つかったのか?おそらく家を捜索したであろうが」
「金は見つかりました。二十両余りが家の箪笥に仕舞い込まれていたそうです」
「着物はどうだ?」
「質屋などを当たりましたが、まだ見つかってはいないとのことです」
「となると…彼らはその二十両をどう手に入れたと?」
「真面目に働いて貯めた金だ、と」
二十両。確かに庶民が持つには分不相応な大金ではある。だが、それが他人の財布から抜かれたものではなく、彼らの言う通り、夫婦が正直な商売をコツコツと重ねた末に貯めた金の可能性も考えられはしないだろうか。それに、彼らが盗んだと言われる服も見つかってはいないのである。
「どう思う許由」
「有罪の可能性は濃いけれど、まだ殺したとは言い切れないんじゃないかな」
「そうだな。私もそう思う」
二人の意見は減刑に傾きつつあった。だが、そう簡単に原判決破棄を言い渡せば、楊県令の面目は丸潰れになる。元より皇族出身の権力者は科挙官僚からの嫉妬と憎悪を買い易い上、紫雲はまだ二十代そこそこの女である。自分の身分と権力を振り翳してやりたい事をやる、だけでは上手く世の中を渡っていけない事は流石に彼女も学んでいた。
「(さてどうしたものかな…)」
そう椅子にもたれかかって考えに沈もうとしたその時、
「ああ嫌だ。本当に世の中どうなっちまったんじゃ。外国は攻めてくるし、先の皇帝陛下はお亡くなりになってしまうし…あんの死体が消えたって事件も、何かの凶兆じゃあ」
「ちょっと待て。死体が消えた?一体何のことを言っているんだ?」
「へ、へえ。実はですな…おら達の店のすぐ近くに、古い霊堂があるんで。そこに事件のあった日の夕暮れに、一人死体がーあの近所じゃ押しも押されもしない大富豪、張家のお嬢様がご病気で亡くなったとかでー運び込まれたんで」
「それが、消えたと?」
「へえ。夜が明けてみると、いつの間にやら消えてしまって…その上和尚さんが死んでたというんで、街はもう大騒ぎ…」
「むむ…」
紫雲は再び考え込んだ。やはり許由の予感というのは、かなりの確度で当たるものだ。慎重に話を聞いてみてよかった。彼女はそう思うと同時に、自身もこの奇怪な二つの事件に興味を抱いた。もしかしたらこれらは一本の糸で繋がっているかも知れない。元より何かに首を突っ込むのが好きな性分の彼女は、俄然やる気を出して事件を調べることに決めた。
「皆の者。ひとまずこの夫婦は牢に入れておけ。判決は後日に延ばすこととする」
「はっ」
「許由、すぐに旅支度をせよ。泰原に参り事件の真相を私自らが調べる!」
「わ、分かった紫雲!」
かくして総督が直々に調査にあたるという、古今稀な事件が幕を開けたのであった。
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