05_いらだち

 次に高瀬が目を覚ましたのは、翌日の昼を過ぎた頃。慌てて身支度を整え(と言っても、顔を洗い歯を磨き、左右非対称の靴下を履いただけで、着替える時間が惜しくてパジャマの黒地に可愛くデフォルメされた凶悪な兎が一匹、胴部分にプリントされたスウェットスーツ姿の儘)、寮を飛び出した。



 相も変わらず白い風景が続く地下研究所内は、とても静かだ。時折すれ違う白衣姿の者達が、「おはよう」と声を掛けてくる。息も絶え絶えに会釈を返しながら廊下を早歩きで進み、白衣に袖を通しながら前田の居る研究室に転がりこんだ。


「おはよ、ござっ……ますっ……」

「おはよう、高瀬‼ お前、解剖実習サボったな」


 からかうように笑いながら、先輩に当たる研究者が言う。


「サボったわけじゃ……。つーか、午前は解剖実習だったんか……」


 内心で「寝坊してよかった」と呟いたつもりが、声に出ていたようで笑われた。


「喜べ、高瀬‼ 今日はみっちり解剖実習だぞ」

「うげ……。論文の為に培養したウイルス眺めてる方がよかったっす……。ところで、前田さんは?」


 室内を見渡しても、ボリューム満点なメタボリック体型が見当たらない。


「休憩室じゃないか? 糖分切れたーって、顔だけゲッソリしてたし」

 顔だけやつれた前田を容易に想像でき、小さく口元を緩めて笑う高瀬は、「了解っす‼」と言い残して研究室を後にした。



 行けども、行けども、白、白、白、白……。休憩室までの道のりは、すっかり身に染み付いたものだと思っていたが、この日ばかりは方向感覚を見失い、十字路に佇んだ。


「やべぇ……。来た方向も分かんなくなった……」


 近くを見ても案内表は無い。あったところで、歩いている内に迷ってしまう。前田に連絡を取ろうにも、スウェットスーツも白衣もポケットを探したけれど、携帯電話が見つからない。じっとしていても埒が明かないので、歩きだした。


「拷問であったよな。こう、白い空間に閉じこめるってやつ」


 閉じ込められてこそないが、高瀬にとって代わり映えの無い白い空間を歩き続けるのは、拷問と同じ感覚だ。


「先が見えねぇ……」


 深い、深い溜息が漏れていく。


「あ、霧島さん‼ ソレ、次の実習で使う遺体?」


 角の方から聞きなれた柔らかい声が聞こえた。


「……なんだか、人間にしては珍しい匂いがするね~?」

「僕はニオイが分かりませんけど、イヌボクリ線虫のニオイかもしれないですね」

「イヌボクリ線虫?」

「久世の先祖が、性犯罪者の刑罰ように作ったと言われている、寄生虫です。独特なニオイが特徴らしいのですが、嗅覚が鋭い人にしか分からないそうですよ。主に睾丸に巣くい、宿主を生殖不能にします」

「そうなんだぁ……」


 ストレッチャーのキャスターが廊下を転がる音がする。高瀬は慌てて追いかけようとしたが、「高瀬君の件だけど」と前田が言い、高瀬は立ち止まる。


「本国から取り寄せた記録、何でお兄さん事が載ってなかったんだろうねぇ?」

「また其の話ですか。前にも説明したでしょう」

「でも、僕は憶えてるもん‼ 二人がよく一緒に――」

「黙ってください。研究所内では、其の話をしない約束でしたよね」

「大丈夫だよ~。今日は高瀬君、居ないもん……。連絡もないし、心配だなぁ。ちょっと見に行ってみようかな~?」


 話し声が遠のいていく。


「……どういう事だ?」


 高瀬は頭を抱えた。


「前田さん、俺達の事を知ってる? 霧島さんは、何かを隠してる? 何で?」


 ぐるぐる、ぐるぐる思考は廻る。


「あっ、道……」


 白い空間に一人取り残され、高瀬は慌てて二人の後を追いかけた。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 無事に迷子から脱却し、解剖実習を終えた高瀬は前田と一緒に研究室に戻り、ぐったりしいてる。


「お疲れ様ぁ~」


 前田はふんわり笑いながら、ココアで満たした紙コップを差し出した。


「あざっす……」


 火傷防止に重ねた紙コップを微かに浸透する熱を片掌で包み、フーッ、フーッ。と息を吹きかけてから少し啜る。熱いが火傷をする程ではないと判断し、もうひとくち啜った。ミルクのまろやかな甘さに包まれたカカオの香りが鼻孔へ抜け、食道を伝い落ちて行く熱が、身体の中で余韻を残しながら溶けるように消えていく。


「あ、キャシーさん。このイヌボクリ線虫の標本なんだけど――」


 キャスター付きの椅子に腰をおろしながら、標本片手に近くにいた研究員と話す前田の横顔を眺めながら、ココアを啜る。


「――そう言うことだから、よろしくねぇ~」


 小さく手を振って標本を持った研究員を見送る前田が、不意に高瀬を見た。


「なぁに? 高瀬君」


 瞬時に高瀬は思考を巡らせたが、言葉に詰まり、「いや……何でもないっす」と言いながら視線を逸らす。


「……夜は、ちゃんと休めてる?」


 足で漕ぐように椅子のキャスターを転がしながら、近付いてきた。其の仕草が、まるで二歳児が車の玩具に跨って遊んでいるような光景に見えて、高瀬は小さく噴き出し笑う。


「えぇ、何で笑うの~? そんなに、面白い?」

「さーせん。デカい赤ちゃんだなぁって」

「いくら僕が赤ちゃんレベルのむっちりボディだからって、笑うことないよ? でも、まぁ高瀬君が楽しそうならいっか~」

「ムッチリっつーか、ぼってりっすけどね。前田さんは」


 高瀬は言いながら、目尻に浮かんだ涙を拭う。


「もぉ~、高瀬君、笑い過ぎだよぉ……。ところで、昨晩は眠れなかった?」

「それが、薬を呑み忘れてヤバかったんすよ。変な夢を見るし、頭が痛てぇしで……」

「どんな夢?」

「……憶えてねぇっす。薬、呑む前までは憶えてた気がするんすけどね。呑んだら昼過ぎまでぐっすりで、寝坊したっす……」

「そっかぁ~」

「前田さん、俺の兄の事を知ってるんすか? 廊下で霧島さんと話してるの、聞いちゃったんすけど」


 高瀬は、前田の透き通るブラウンの目をじっと見た。前田は、ふんわり笑う。


「高瀬君にとって、お兄さんは大切な人だったのに、今まで忘れて過ごしてきたんでしょう? なら、この先もずっと忘れた儘でいいじゃない。その方が幸せかもしれないよ~?」

「いいわけねぇだろ‼?」


 高瀬は声を張り上げ、前田の胸倉を掴む。手元から落ちた紙コップが白い床と接触し、汚れが広がっていく。


「こっちは思い出せなくて苦しんでんだよっ‼」


 視線を集めようとも構うことなく、高瀬は続ける。


「それなのに、それこそ忘れた儘でよかった胸糞悪りぃ事ばっかり思い出すし、霧島さんも何か隠してそうだったし‼ なんで自分の事なのに、俺が蚊帳の外なんすか‼?」

「……何でだろうねぇ~?」


 前田はのほほんと言う。


「僕が取り寄せた記録もね、お兄さんの記載がなかったんだぁ。高瀬君、すごく期待に満ちた目をしていたから、言い出せなくて……。ごめんね~。今日は、もう帰っていいよぉ? きっと、今の高瀬君には休憩が必要なんだと思うなぁ」


 慈愛を浮かべた前田が優しい声音で言うと、高瀬は掴んでいた胸倉から手を離す。


「……さーせんっした……」


 シュンと肩をおろして、其の場を立ち去った。




 地下を繋ぐ電車に乗って本館(高里役所第一庁舎)の地下駅に向かい、地上を目指す。本館を出て、森林公園内を暫く歩いている内に、自分が白衣を着た儘である事に気付く。


「あー‼ やっちまった……」


 言いながら頭を抱えて其の場に蹲る。原則、使用済みの白衣は関連施設外への持ち出しが禁止となっていた。後々医療に携わる者としての認識の甘さに、自己嫌悪が満ちていく。


「……はぁ……」


 脱いだ白衣が荷物になるのも億劫で、寮へ戻る気分にもなれない高瀬は、半ば自暴自棄になりながら気の向く儘に歩き続けた。



 行き交う人達から擦れ違いざまに挨拶を投げかけられても無視を続け、ひたすら歩き続けた末、開けた場所に行き着いた。地面を覆う芝生は初々しく、中央には枝葉を広げ、黄色く小さな花を咲かせた大きな月桂樹が佇んでいる。ぼんやり眺めていると、其の根元に座る人影に気付く。


 なんとなく気になって近付き、高瀬は「あ」と声を漏らす。


 風が撫でる白髪。貧血を疑う白い肌。着崩すことなく纏った白いスーツに、白縹の薄いブランケットを膝に掛けた青年は、頬に睫毛の影を落としながら眠っていた。其の中性的な美貌は、まるで作り物のように無機質で、腕の良い人形師が作った人形と見間違えるのには十分だ。


「……霧?」


 ピクッと瞼が動き、ゆっくり開く。光りを呑み込む闇色の目が高瀬を捉えた。


「……僕は、眠っていましたか」


 霧島とよく似た落ち着いた声音が尋ねる。


「え? あぁ、そうだな。寝てたと思う。顔色が悪りぃけど、大丈夫か?」

「はい、大丈夫です。……僕に、何か用ですか」

「いや……なんとなく歩いてたら、偶然見つけたっつーか……。起しちまったよな、悪りぃ……」

「いいえ、問題ありません」


 霧は腕時計を眺めながら答えた。


「此処での生活は、慣れましたか」

「まぁ、それなりに……。今日、久し振りに方向感覚を見失って、焦ったけどな」

「研究所内の迷子防止に、要所要所に案内板を設置している筈なのですが……分かり難かったですか」

「いや。案内板を見つけて現在地を確認しても、歩いている内に分からなくなったっつーか……」

「そうでしたか。代わり映えの無い光景が続くから、頭が混乱してしまったのかもしれませんね。改善案を考えてみます」

「へ? ああ、まぁ見やすいにこした事はねぇもんな。……ところで、霧島先生と兄弟なんか?」

「いいえ。他人です」

「そっか。すげぇ似てるからさ、てっきり兄弟かと……」

「そうですか」

「…………」


 霧は、ジッと高瀬を見ている。其の視線から読み取れる感情がなく、ぼんやりとした居心地の悪さだけが高瀬に芽生えた。


「じゃあ、俺は帰る――」

「霧島から、話は伺っています」

「え?」

「此処で会ったのも、何かの縁でしょうから……少し、お話をしませんか」

「…………」


 躊躇したものの、高瀬は霧の隣に腰をおろす。


 何を話せばよいのか頭を悩ませたが、霧に促される儘、高瀬は顔が思い出せない兄が居る事。霧島や前田が記憶を思い出す手伝いをするとは言ってくれて有り難いが、彼等に対する不信感を吐き出した。


「そうでしたか。ですが、彼らには彼等の立場があるのです。迂闊に知っている事を話したら、情報漏洩で処罰の対象となってしまいます。


 僕達は少しだけ特殊で、本国では〝ヴェルダンの犬〟と呼ばれることがある立場なのです。貴方よりも皇帝に近く、誰よりも忠誠でなければならない」


 溜息を漏らしながら言う霧の横顔は、相も変わらない静寂を称えている。


「睫毛長げぇ……」

「空気が汚い所で過ごすと、目を保護する為に睫毛が長くなるそうです」

「え? あ、へぇ……」


 高瀬は言葉に困り、沈黙した。


「……とは言っても、霧島も前田さんも、高瀬家とは関りがないので大した事は知らないかと。貴方の心情を考えて、言葉選びに慎重になりすぎていた結果、不信感を与えるような言動が増えてしまったのかも」

「でも、前田さんは言ってたんだ。僕は憶えてる、って。その後、何か言おうとしてたけど、霧島さんが止めちまって……」


 思い出した瞬間、煮えくり返るはらわたを鎮める為に、深い、深い溜息を漏らす。


「二人が取り寄せた記録に、お兄さんの情報が記載されていないとすれば、可能性は二つです。お兄さんの存在が、高瀬さん自身の妄想、妄言の類である。或いは、犯罪者として表向きに存在を抹消された」

「は? 犯罪者って、なんだよソレ‼? 兄貴は、結婚を見据えた彼女が浮気しても、責める事なく身を引くようなお人好しなんだぞ‼ そんな兄貴が、犯罪なんてするわけがねぇだろ‼」


 ギュッと拳を握りしめた。


「可能性の話です。ヴェルダンでは、犯罪の種類にもよりますが、存在自体を抹消されるケースがあるのです。大体は個人ですが、稀に一家、一族が消される事もあります」

「なんだよ、それ……」


 言葉を無くし、押し黙る高瀬。


「ヴェルダンで犯罪を犯した者が、どうなるかご存じですか」

「え? あー……前に、片倉さんが話してたような……?」

「久世がおこなう、人体実験に利用されます。実験体の情報が他国に漏れては、面倒事が増えてしまう。それを避ける為に、最初から存在しなかった事にしてしまうのです。存在が消えてしまえば、追う手立てがないでしょう?」


 霧は自分の手に視線を落とした。


「友達がある日、忽然と姿を消すって事もあるっつーことだよな?」

「そうですね」

「関わった人達はどうなんだよ‼?」

「忘れます」


 感情の無い声音は、言葉を続ける。


「今が過去となるように、忽然と姿を消した者達も、関わった人達の記憶からやがて消えるのです」

「なんだよ、ソレ……。普通、仲の良い友達の事を忘れる奴なんて居ねぇだろ‼? 家族や、恋人はどうなんだよ‼?」

「死んだ家族の事を、毎日、思い出しますか」

「え」

「引っ越して行った友達を、別れを告げた恋人を、毎日思い出しますか。どんなに思い入れが強かろうと、いずれは忘却を受け入れるのです。生きる上で必要ですから。何事も、一生背負い続けることは容易ではありません。楽しかった思い出さえ、悲しみを思い出す要因となりえます。なら、いっそのこと忘れてしまった方が幸せではありませんか」


 霧の言葉は、けっして高瀬を責めるものではない。だが、心臓を握り潰されるような不快感を覚え、反論しようと口を開くも言葉につまってしまい、俯く事しかできなかった。


「でも、俺は……」


 声を振り絞ったところで、続かない。沈黙していると、春の陽気を乗せた穏やかな風が、髪を、頬を、撫でていく。


「なんか、虚しいな」


 高瀬は呟いた。数十秒の沈黙を挿んで、霧は口を開く。


「第玖では、記憶に関する研究を中心に、関連する精密機や薬剤の開発もおこなわれています。少々強引な手段となりますが、お兄さんの顔と名前を思い出すくらいなら、既存の精密機や薬剤を使えば可能かと。ただ、脳への負担がまだ一定ではないので、例え思い出す事ができても……」


 霧は言葉を濁す。続きを確かめようにも、想像通りの返答だったら気分が滅入るだけなので、高瀬は沈黙し、思考を巡らせた。


「……そういや、霧は人と話す時に目を見ろって、教わらなかったんか?」

「教わりました。でも、目を見て話すのは、どうにも苦手で……」


 霧は自分の手元から視線を逸らさない。其の横顔が、なんとなく悲しそうに見えて、高瀬は出しかけた言葉を呑み込んだ。


「お兄さんの顔と名前を思い出したいのは、貴方の意思、ですか」


 真っ直ぐ高瀬を見る、闇を称えた霧の目から読み取れる感情はなく、深層を覗きこまれそうな不気味さを感じずにはいられない。きっと中性的な顔立ちが整い過ぎている所為だ。高瀬は内心で呟いた。


「俺の、意思。俺の意思で、ちゃんと兄貴の事を思い出したい‼」

「分かりました。船で助けて頂いたお礼の代わりに、貴方の為に僕ができる事をしましょう」

「悪りぃ、言ってる意味が分かんねぇ……」

「言葉通りの意味です」


 言いながら霧は立ち上がり、数歩離れるとズボンの汚れを払う。


「では、さようなら」


 高瀬を振り返り、会釈を残して立ち去った。


「……あいつ、全然表情が変わんねぇのな。俺より年下であの落ち着きって、ヤベェな」


 溜息を漏らす。



 霧と別れてからの高瀬は、当てもなく森林公園内を散歩し、日暮れと共に帰宅した。其の晩、高瀬は寝る前に薬を飲んだ。悪夢に魘される事なく、朝まで熟睡できる事を祈りながら、深い、深い眠りへ落ちていく。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 翌朝。目覚めが良かった高瀬は、いつもより少しだけ早い時間に、前田の研究室を訪れた。


「…………」


 こっそり覗くも、誰も居ない。


「……わっ‼」

「うひょぃっ‼?」


 背後から突如聞こえた声に驚き、其の場で飛び跳ねる高瀬は膝から崩れ落ち、落ち着きなく肩越しに振り向いた。


「おはよう、高瀬君」


 人懐っこい笑みを浮かべる、メタボリーな体型がボリューミーな前田。


「もぉー……前田さん、もぉ‼ なんすか‼ あー、もうっ‼ ちびりそうだった……」

「ごめん、ごめん~。あ、でもねぇ、お漏らししても、大丈夫だよ~。仮眠室の自販機に下着売ってるから~」

「まだ漏らしてねぇっす‼ ちょっと危なかっただけで……」

「そういう事にしておいてあげるよ~」


 前田があまりにも優しい笑みを浮かべるので、高瀬は反論を呑み込んだ。


「今日、来てくれたんだねぇ。高瀬君の顔が見れて、僕は嬉しいよ~。皆が来るまで時間があるから、少し話そうか」

「うっす……」


 二人は、研究室に隣接した応接室へ移動する。



 セピア色の濃淡で統一された応接室は、大小様々な額に入れられた写真が壁一面に飾られていた。森林公園でシャボン玉を拭く母子。チワワに引き摺られている老爺。道端のタンポポ。木の枝で休む鴉。前に行ったBiancoのマスターや、熱心に試験管を見つめる岡田の横顔など、見知った顔も何枚かある。


「カメラが趣味なんすか?」


 横長のキャビネットの前に立ち、電気ポットでお湯を沸かしている前田の背に、問い掛ける。


「趣味ってほどじゃないよ~。こうやって残すのも悪くないなぁって、思ってさ~」

「あ、霧島さんだ」


 白衣姿の霧島が机に身を預けて腕を枕に眠っている写真を見つけ、高瀬は安堵に胸を撫で下ろす。


「あの人も寝落ちるんすね。若いわりに遊んでなさそうだし、変に真面目そうだからちょっと親近感湧いたっす」

「霧島さんは、多忙だからねぇ……。はい、ココアはいったよ~。お菓子はクッキーでいい? 其れともお煎餅?」

「前田さんが食べたい方でいいっすよ」

「高瀬君は優しいねぇ、ありがと~」


 前田は応接用のソファーの上座側に高瀬を座らせ、ココアで満たされたマグカップを差し出した。紙皿にこんもり盛られた一口サイズのチョコチップクッキーと、自分用のダイエットココアをたっぷり注いだマグカップを持って、高瀬の真正面から少し外れるように、上座へ腰をおろす。


 ゆったりとした沈黙の中で、高瀬はマグカップに視線を落とした。サクッ、サクッ。と、前田がクッキーを頬張る音が小さく響く。


「良い音っすね」

「でしょ~? 高瀬君も、遠慮しないで食べてみて~」

「いただきます」


 チョコチップクッキーを口へと運ぶ。歯を食い込ませると、表面がサクッと弾けて、咀嚼すればするほどに、バターの風味が香るしっとりした触感にチョコチップが溶けていく。手作りならではの素朴な優しさが癖になり、一つ。また一つと口へ運んだ。


「気に入ってくれたかなぁ?」


 嬉しそうな前田の声にハッとして、掴んでいたクッキーを口へと放り込む。


「食べ出したら、止まらないよねぇ~。コレね、ビアンコでバイトしている子の手作りなんだよ~」

「へぇ、そうなんすか。……美味い」

「ねぇ~、美味しいねぇ~」

「相変わらず、すげぇ幸せそうな顔してるっすね」

「そりゃぁ、幸せだからねぇ~」


 溶け落ちそうなほどに柔らかい笑みが浮かぶ。


「昔飼ってた犬も、すげぇ食ってたな」


 言い終わるや否や、高瀬は、「あー、クソッ‼」と呟き、頭を抱える。


「どうしたの~?」

「嫌な事、思い出しちまったんすよ。俺の親父、俺を誘拐するダシに犬を使いやがって。いつもみたいに餌をあげに行ったら、小屋に居なくて、血痕がずっと続いてて、俺が見つけた時には、もう……」


 血の海に浮かんだ犬は、既にこと切れていた。だらしなく垂れる舌。濁り始めた目。抱き起した首はぐったりとしており、傷口からどろりとした血液が零れ落ちていく。あの時の感情がよみがえり、高瀬の胸を締め付けた。


「何で、こんなタイミングで思い出すんすかね……」

「そうだね~。ソレこそ、忘れた儘でよかったのにねぇ。高瀬君のことだから、きっと沢山泣いたんだろうねぇ?」

「まぁ、それなりに……。」

「忘れるお薬、飲んでみる? 今ねぇ、治験のボランティア募集中なんだぁ。軽減負担金でるよ~」

「遠慮しとくっす」

「忘れたくなったら、いつでも言ってねぇ?」


 前田はにっこり笑う。



 高瀬は、前田に聞きたい事があった筈なのだが、中々言い出せずにココアとクッキーを堪能した。時間を改め、日を改め、幾度も勇気を振り絞って声を掛けたとしても、いざとなったら怖気づいてしまう。


 そうこうしている内に数日が経ち、カウンセリングの日を迎えた。



 病院の前で行き会った高瀬(グレーのスウェットスーツとスニーカー姿)は、霧島(片手に表紙付きのクリップボードを持っており、細いストライプがはいったネイビーのスリーピース・スーツにブラウンの靴姿)と行き会い挨拶交わし、散歩日和だからと、森林公園内を無言で歩き続けていた。


「次のベンチで、座りましょう」


 そう言った霧島の横顔は、相も変わらず整っており、血色が悪い。


 一人分の空間を挿み、二人はベンチに座った。


「大丈夫っすか?」

「大丈夫ですよ。少し、やる事が多いだけで……」


 疲労を隠しきれていない愛想笑いが浮かぶ。


「最近、夢は見ましたか」

「全然。寝る前に薬を飲むようになってから、夢は見ないっすね」

「そうですか。ところで、霧君に会ったそうですね」

「あー、そうなんすよ‼ この前、ここ散歩してたら偶然。霧って、すげぇ霧島さんと似てるっすけど、本当に赤の他人なんすか?」

「其の件に関してなら、前にも言ったと思いますが。あぁ、高瀬さんは忘れるのが得意そうだから、憶えていなくとも仕方ないですね」

「霧島さん、やっぱ俺のこと嫌いっすよね?」


 高瀬が笑うと、霧島から深いため息が漏れた。


「貴方と会う度に、そう言われている気がします」

「え? そうっすか?」

「貴方が嫌い、と言うわけではないのですが……。其れより、霧君から預かっている物があります」


 片手に持っていたライトブラウンのクリップボードを手渡す。


 高瀬は表紙を開けて、目を丸くした。


「誰っすか、コレ」


 真っ先に高瀬の目を奪ったのは、一枚の写真だ。落ち着いたブラウンの髪をした、秀才さが窺える顔立ちが優しげな好青年が映っている。


「高瀬秀明。貴方の、お兄さんです」

「この人が、俺の……っ‼」


 激しい頭痛と共に、視界が歪む。目まぐるしい勢いで、記憶の断片が繋ぎ合わさり、走馬灯のように巡っていく。


 上昇する心拍。息苦しさを覚えながら自分の胸倉を掴み、前屈みになりながら肩を揺らして浅く激しい呼吸を繰り返す。


「高瀬さん。まず、息を止めてください」


 霧島の落ち着いた声が言い、片手がまるまった背中を撫でる。


「少しづつで大丈夫です。吸ったら、なるべく長く息を止めて。……ゆっくり吐いて……。そう、其の調子です。ゆっくり続けてください。……大丈夫そうですか」

「……大丈夫、っす……」


 落ち着きを取り戻しつつある高瀬は、力なく笑う。


「僕、飲み物を買ってきますね。何がよいですか」

「え? あ……、甘いのがいいっす」

「分かりました」


 近くの自販機へ向かう霧島の背で、一本に結われた腰に届くほど長く艶やかな黒髪が揺れた。


「手入れ、大変そうだな……」


 高瀬は霧島が自販機に着いたところで、視線を手元に落とす。写真の下に挟まっていたのは高瀬家全体の記録と、兄の個人記録だ。


「よかった。兄貴は、ちゃんと居たんだ」


 安堵に胸を撫で下ろすと同時に、胸を締め付けるような苦しさに満ちていく。


「お待たせしました。甘いの、ホットココアとお汁粉しかなかったのですが、ココアで大丈夫でした?」

「あざーっす‼」


 缶の熱を片掌で包みながら数回振り、プルタブに指を引っ掛けスコアを開けた。鼻を掠めるココアのねっとりした甘い香り。一口啜ると、意外にも飲み頃の液体が口腔内へ流れ込む。


 何気なく横目で見た霧島は、無糖の珈琲を飲んでいた。

 

 屡々二人は沈黙し、手元に視線を落とす。


「……兄貴が、殺したんすよ。俺の実父」

「……そうですか」

「なんだ、霧島さんも見たんすね。コレ」

「はい。確認させていただきました」

「どうしたんすか、コレ」

「霧君が用意してくれたのですよ」

「霧が?」


 言いながら視線を向けた霧島の横顔が、一瞬だけ霧と重なり目を疑う。


「霧君は、本国での地位が高いから、閲覧制限を掻い潜れます」

「へぇー。霧ってばすげぇう奴なんすね?」

「今は、霧君の話はやめておきましょう。言い合いをしたばかりなので、ほんの少しだけ腹立ってきました……」


 底知れぬ深い溜息を漏らす霧島。


「言い合い……。想像つかねぇや。へぇ、そっか。霧も言い合う事があるんだな。霧、どんな顔で霧島さんに物申すんすか?」

「高瀬さん、僕の話を聞いていましたか。余計に腹立ってきたのですが」

「さーせん」


 笑いながらココアを啜る。


「……返り血で汚れた兄貴、すげぇ冷たい目で、親父を見てたんすよ。でも、俺に気付くとすげぇ優しい顔して、抱き締めてくれたんす。『怖かったよね、ごめんね』って、兄貴だって怖かったろうに、震える声で俺を気遣ってくれて……。

 なんか、変な感じがするっす。夢で見る兄貴はいつも子供で、大人になってからの出来事を思い出しても、やっぱうっすら顔がぼやけるっつーか……」


 言葉が続かず、溜息が漏れていく。


「高瀬秀明、二十一歳」


 霧島が言葉を紡ぐ。


「大学へ行く途中、駅のホームから転落。電車に撥ねられ、瀕死の状態で病院へ搬送。其の後……箱庭へ渡航しています」

「……え? 搬送先の病院で死亡って、なってるっすよ?」


 高瀬は記録に視線を落としながら言う。 


「兄貴、ここに居るんすか?」

「はい」

「なんで‼?」

「……貴方のお兄さんが、久世の研究機構で諜報活動をしていたから、本国で生かす事ができなかったのです」

「え?」


 高瀬は耳を疑った。


「ヴェルダンは侵略と奪略を繰り返して、今の地位を築いてきました。自国の利益になると判断された者は、ヴェルダンで地位と言う名の鎖で繋がれます。貴族階級が第一種、第二種、第三種とあるのは其の為です。

 第一種は生粋のヴェルダン人。第二種は余所者。第三種は混血。ヴェルダンで高瀬さんや片倉さんのように苗字が先に来る人達は、名前で第二種だと判断しやすいです」

「えっと……話しの意図が、よく分からねぇんすけど?」


 高瀬は目を丸くしながら、霧島の言葉に耳を傾ける。


「同じ子爵でも第一種の方が第二種よりも立場が上で、第三種は第一種に部類される親の権力で左右されます」

「…………」

「……大丈夫ですか」

「難しい話はちょっと……」

「……そう、ですか……」

「…………」

「…………」


 二人は手元に視線を落とす。あんなにも熱かった缶は冷めはじめ、啜ったココアが微かにぬるく感じた。


「高瀬家は第二種男爵です。男爵は最も低い階級ですが、第一種男爵よりも更に低い。なので、最も捨て駒にされやすい立場になります」

「なんすか、捨て駒って」

「第一種貴族達は、第二種貴族達が例え国利になるからと言っても、其の存在を容易に受け入れたりはしないのです。久世が良い例ですね。

 ヴェルダンに連れて来られた余所者の中で、唯一最上位の伯爵を与えられ、第二種貴族にも関わらず、第一種伯爵よりも優遇され、皇帝直属という立場に置かれて……。久世の参入で没落した貴族は、第一種、第二種関係なく多いのです。其の所為もあって、他の貴族達の間で妙な結託が生れたりもして、ごたごたが尽きません。

 貴方のお兄さんは、其のごたごたに巻き込まれてしまったようですね。理由はどうであれ、スパイ行為は犯罪です。皇帝直属の配下に手を出したという事は、間接的ですが反逆罪に値します。久世は皇帝の意向で動いているから、当然です」

「ちょっとたんまっす‼」


 高瀬は薄型の携帯電話を取り出し、反逆罪を検索する。


「げ。一族死罪……。でも、親父さんも母も健在っすよ?」

「貴方のお兄さんが家族との縁を切り、皇帝に忠誠を誓う為、自ら久世がおこなう新しい実験への参加表明をしたからです」

「それって、兄貴も研究者としてここに居るって、ことっすか?」

「実験体の方です」


 一瞬、時が停まったような感覚が高瀬を襲う。


「……サラッと言うんすね」

「…………」


 霧島は何も答えず、缶珈琲を飲み干した。其の横顔は、暗く沈んで見える。


「霧島さんは、やっぱり兄の事を知ってたんすね」

「貴方に伝える為の言葉を、沢山探しました。でも、貴方が傷付くと知っているのに伝えるのは、忍びなくて……。お兄さんに、会いたいですか」

「会いたいっす‼」

「分かりました。許可は取ってあるので、行きましょう」

「ちょっと待ってほしいっす。缶、捨ててくるんで。霧島さんも、飲み終わったっすよね?」

「はい。……ありがとうございます」

「せめてものお礼っす‼ 奢ってもらったんで‼」


 高瀬は霧島の空き缶を受け取り、自販機の隣にあるゴミ箱へ向かう。



 本館(高里役所第一庁舎)を目指して再び森林公園内を歩く二人は、沈黙していた。


「…………」


 チラッと目を向けた霧島の横顔は、相も変わらず血色が悪い。


「大丈夫っすか?」

「……え? あぁ、大丈夫です」

「そうっすか」


 会話が続かず、モヤッとした間隔を芽生えさせながら歩き続けた。

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