04_悪夢

 前田と出掛けた日から一週間後。スウェットスーツに、履き潰したスニーカー姿の高瀬は、月里大学総合病院を訪れた。一階の受付に行くと三階に通され、受付を済ませて誰も居ない待合室で待つこと数十分。Aと書かれた診察室へ。


「あれ? 霧島さんって外科医なんじゃ……?」

「はい、そうですよ」


 細いストライプが入ったネイビーのスーツを纏った、中性的な美貌に静寂を浮かべた霧島は、執務椅子に座った儘、フレームが薄い眼鏡のレンズ越しに高瀬を見て会釈した。


「カウンセリング程度なら、精神科医でなくても資格があればできるのです。実績はありませんが……どうぞ、お掛けください。書きとる努力はしますが、記録を作る際に使うので、会話を録音させてください」

「いいっすよ」


 執務机とローテーブルを挟んで対面するソファーに促され、高瀬は腰をおろす。座り心地が良いと頭の端で考えながら、「やっぱりブラックなんすか?」と尋ねた。


「相手が高瀬さんだから、とでも言っておきましょうか。本国からの研修参加者の面倒を見るのも仕事の内なのです」


 溜息交じりに言う顔に、微かな疲労が浮かんで見える。


「貴方がお兄さんの事を思い出す手伝いをして欲しいとの事ですが、間違いないですかね?」

「間違いねぇっす」

「では、高瀬さんがどの程度お兄さんの事を思い出したか、確認をしましょう。お兄さんの年齢は?」

「……年齢……」


 高瀬は思考を巡らせた。


「…………」

「…………」

「分からないのですね?」


 霧島はクリップボードに挿んである紙に、質が良さそうな万年筆で文字を綴る。


「そうっすね……。でも、年が離れてるのは確かっすよ」

「分かりました。何故、確かだと言い切れるのですか?」

「誰にだか覚えてねぇっすけど、歳が離れてるんだね。って、言われたことがあるんすよ」

「何歳の頃に、どこで言われたのか覚えていますか?」

「……犬の散歩してた時だから、五歳か、六歳くらいっすかね?」

「犬を飼っていたのですか?」


 霧島がクリップボードから視線を高瀬に移す。


「アイボリー色って言うんすかね? ゴールデンとラブラドールの雑種で、俺が拾ったんすよ。親父さんは捨ててこいって、反対したけど、兄が交渉してくれたんす」

「そうだったんですか。そう言えば、前田さんが本国から高瀬家の記録を取り寄せる。と言っていましたが、何か報告を受けました?」

「いや、なんも」

「そうですか。高瀬さん、お兄さんに繋がる写真などはお持ちでない?」

「ねぇっすね。俺、中等部から寮に入ったんすよ。入学に必要な物しか持っていかなかったっす」

「へぇ。全寮制だったのですか?」

「屋敷が、居心地悪かったんすよ。あれくらいの時期って、自分に対する周りの対応の差に敏感だったりするじゃねぇっすか。俺、あんま出来が良い方じゃねぇから、親父さんに嫌われてたし……。俺が嫌われる度に、母さんも俺の事を嫌っていくから苦しくて。親って普通、子供の味方だと思うじゃないっすか。母さん、再婚してから俺にあたりが酷くなって、事ある毎に兄さんと比べられて、苦しかったんすよ」


 モヤッとした感情が、高瀬の中で芽生える。


「ご両親は再婚なのですね。高瀬さんが何歳の頃に、再婚を?」

「うーん……親父さんを父親だと思ってたから、多分、二歳とか三歳とか、それくらいなんじゃねぇっすかね?」

「ご両親から、離縁時の話を聞いたことは?」

「ねぇっすね」

「そうですか……。知りたいとは、思わなかったのですか?」

「……一度だけ、母さんに聞いたことがあるんすよ。そしたら、パニック起こしちゃって。何を言われたわけじゃねぇけど、親父さんもすげぇ苛立ってたから、聞くに聞けない儘、どうでもよくなったっつーか……」


 眼鏡越しに高瀬を見る霧島の目は、深い闇を称えている。見続ければ見続けるほどに溢れ出しそうな色から逃げるように視線を逸らし、俯いた。膝の上で組んだ両手に視線を落とす高瀬の心拍は上昇していく。


「人は、自分都合に記憶を書き換える事があります」


 ハッとして高瀬は顔をあげる。


「一種の防衛反応ではないかと、言われているそうですよ。高瀬さんが忘れている事は、お兄さんの事だけではないのかもしれません」

「どう言う事っすか……?」

「今日は此れくらいにしておきましょう。顔色がよくないです」

「…………」


 高瀬は口を開きかけたが、言葉を紡ぐことが出来ずに押し黙った。


「本国の方へ、僕からも連絡を入れてみます。通常なら五日以内に返信が来る筈です。ついでに明紀さんに、お兄さんの写真の提出を要求しましょう」

「親父さんを知ってるんすか?‼」

「面識があるくらいです」

「もしかして霧島さん、兄の事も知ってたりするんじゃねぇっすか?」

「何故、そう思うのです?」

「なんとなくっす……。霧島さん、俺に対して意地悪だから、知ってても教えてくれなそうっつーか」

「なるほど。残念ですが、僕は貴方のお兄さんとは面識がありません。明紀さんには、学生の頃に何度か論文でお世話になりました」

「そうだったんすか……」

「はい。次は、五日後で大丈夫ですか?」

「ちょっと待ってほしいっす」


 高瀬は携帯電話を取り出し、カレンダーを表示する。


「大丈夫っす」

「では、五日後にお会いしましょう」

「うっす」


 ボイスレコーダーを止め、万年筆をスーツジャケットの胸ポケットにさし、クリップボードとボイスレコーダーを手にした霧島は席を立ち、高瀬の前で立ち止まると、名刺を手渡した。


「前田さんを挟んでも構いませんが、直接連絡を頂いた方が助かる事もあります。場合によっては此方から連絡するかもしれませんので、渡しておきます」

「うっす。……あの、さっきからちょっと視界が白いんすけど、貧血っすかね?」

「失礼」


 冷えた指先が高瀬に触れ、下瞼を下げる。


「嘔気や頭痛などはしますか?」

「しねぇっす」

「では、コレを差し上げます。手を出してください」


 スーツジャケットの左ポケットからピルケースを取り出し、高瀬の掌に薄緑色をした錠剤を一錠、落とす。


「ゲルゲルゲを使った滋養強壮剤です。水無しでいけます」

「あざっす」


 口の中に放り込むと、味蕾がアロエとよく似た初々しい味を感知する。


「落ち着くまで、此処で休んでいってください」

「あざっす……」

「では、ごゆっくり」


 そう言い残して立ち去る霧島の背を見送ることなく、ソファーに横になる。


「…………」


 パタン。とドアが締まる音を聴きながら、見慣れない天井をぼんやり眺めていると、時計の秒針の音がやけに耳につく。


「…………」


 チク、タク。チク、タク。


 意識しなくても聴覚に届く秒針の音が、高瀬を眠りに誘った。


「寝たく、ねぇな……」


 背凭れの方に背を向けて横になる高瀬は、片腕を枕にしながら瞼を閉ざした。


「寝たく、ねぇのに……」


 チク、タク。チク、タク。


 高瀬の意識はゆっくり微睡みに沈んでいく。



   ◇◇◇◇◇◇◇


 高瀬は夢を見た。


『気持ち悪りぃ‼ なんで、俺がこんな目に遭わなくちゃなんねぇんだよ‼?』


 ダンッ‼ とテーブルを叩く激しい音が響く。部屋の片隅で、中年と思われる女性が蹲って泣いている。


『あぁ、気色が悪りぃ……』


 冷ややかに高瀬を睨みつけるのは、身なりが整った中年の男性。幼い高瀬は恐怖に支配され、視線を逸らせず震えていた。


『ごめ、なさい』


 訳も分からず謝罪する。


『ごめん、なさい。ごめっ……ごめ、ん、なさ――』


 夢の中の幼い高瀬は、いつも怯えて訳も分からず許しを乞う。


『ごめんなさい、ごめん、なさい。ごめっ、なさい――』


 ずっと、そんな日々だった。


『うるせぇぞクソガキ‼』


 瞼を閉じて、身を護る為に頭を庇い、下唇を噛みしめ押し黙る。


 男が高瀬の髪を掴み、もう片方の拳を振り上げた。


「っ……‼」


 ビクンと全身を跳ねらせて、高瀬は目を覚ます。


「……気持ち悪りぃ……」


 忙しない心臓。乱れた呼吸。ある筈もない、鈍い痛みが腕を、胴を襲う。


「あー、クソッ……‼」


 まだ夢から覚めていないような間隔を引き摺りながら、其の場を後にした。



 無人のエレベーターに乗り込んで、一階へ。ぼんやりとドアの上に設置されたパネルに表示される階数を眺めている。あっという間に、目的階層への到着を報せるベルがなり、ドアが開く。一階のロビーには、来た時よりも沢山の人が居て、診察の順番を待ってる。そんな光景を横目に、高瀬は受付へ向かう。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 受付で案内された通りに進んだ高瀬は、片倉の病室前に立っている。個室のドアは開いた儘で、窺えるベッドの上に片倉の姿はない。どうすればいいのか分からず、ただただ立ち尽くしていると、ポン。と肩を叩かれた。


「うわぁっ⁉」


 思ったよりも大きな声を出してしまい、慌てて口を塞いだ高瀬が振り返ると、薄青の病衣姿の片倉が居た。


「片倉さぁん……‼」


 高瀬は片倉に抱きついた。鼻孔に届く、独特な薬品のニオイ。見た目以上に其の身体は痩せ細っているような気がする。数秒の沈黙を挿み、大きな手が高瀬の頭を撫で、「立ち話もなんですから、入りなさい」と促された。



 上半身を起き上がらせた状態でベッドに座る片倉の黒髪は、オールバックで整えられてはいるものの、白髪が目立つ。


「……片倉さん、なんか小さくなったっすね。俺でも持てそう」

「君に運んでもらえば、移動が楽だな」


 片倉は目尻に小皺を寄せて笑う。


「あぁ、すまない。椅子の一つでもあればよかったのだが……」

「平気っすよ。研究所でも立ちっぱなしの事が多いっすから」

「そうかい。……仕事の方は、順調かね?」

「まぁ、それなりに。片倉さんは、いつ現場復帰するんすか?」

「……暫くは出来そうにない」

「でも、帰ってくるんすよね?」

「分からない。本国に帰る事も見当――」

「嫌っす。片倉さんが居ないなら、なんか嫌っす。ここに来た時に戻りてぇ……」


 底知れぬ溜息を漏らした。


「遅かれ早かれ、別れは来るものだ」

「死ぬんすか?」

「…………」


 片倉は優しく笑うだけで、何も言わない。はぐらかされた事に対して、モヤッとした感情を芽生えさせながらも、高瀬は深く事情を尋ねることを躊躇った。話題を変えるべく思考を巡らせていると、「ところで――」と片倉が言葉を紡ぐ。


「いつもの元気さが無いように見受けるが、何かあったのかね?」

「実は――」


 顔が思い出せない兄がいる事。霧島にカウンセリングを受ける事。子供の頃によく見ていた悪夢を見て、気分が下がっている事を報告した。


「片倉さんは、親父さんや兄と面識とかねぇっすか?」

「残念ながら……」

「そうっすか」


 シュンとする高瀬。


「……高瀬君は、天使様の話を知っているかね?」

「前田さんが言ってたっす。箱庭には本物の天使が居るって」

「天使様を頼れば、高瀬君の悩みも早く解決するかもしれない」

「もしかして、入院中に洗脳でもされたんすか……?」


 得体の知れない不安が高瀬を満たしていく。


「此処は、そう言う場所なのだよ。高瀬君」

「意味が分かんねぇっす……」

「会えば分かるさ」


 片倉は穏やかに微笑んだ。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 其の日の晩、高瀬は再び夢を見た。


 場所は、誰かの書斎だ。


『ちくしょう……。なんでこんな……』


 良質そうなブラウンのスーツを着た男の声は震えている。


『こんなつもりじゃ――』


 ダンッ‼ と激しく執務机が叩かれた。


『ひっ……‼』


 幼い高瀬は息を詰まらせ、高瀬の存在に気付いた男を凝視する。


『ちくしょう……。お前なんか――』


 大きな手が、視界いっぱいに広がった。



「っ……‼」


 ハッとしたように瞼を開く高瀬。長距離を走った時のように、心臓が忙しない。全身の筋肉が強張り、ピクピクと指先が痙攣する。


「ひっ……っ、っ――」


 落ち着く為に深呼吸をしようにも、引き攣るばかり。まるで呼吸の方法を忘れてしまったようだ。苦しさから目尻に浮かぶ涙が頬を伝う。



―― 兄さん、助けて……。――



 次の日も、其のまた次の日も、高瀬は眠る度に夢を見続けた。


 幼い高瀬が顔の無い男から罵声を浴び、訳も分からず暴行を加えられる夢。時に女の悲鳴が響き、物が壊れる音がして、女が啜り泣く音だけが耳につく。


「……大丈夫、ではなさそうですね?」


 カウンセリングの為に顔を合わせた霧島(上下黒の飾り気のない服装の上に白衣を纏っている)が、対面のソファーに座って言う。


「最悪っすよ……。ずっと、嫌な夢ばっか見るんすから」

「へぇ……。どんな夢です?」

「子供の頃によく見てた悪夢っす。知らねぇ男が怒鳴り散らかして、母さんっぽい女が泣いてる夢。男はいつも苛立ってて、殴ったり物を壊したりしてくるんすよ」

「高瀬さんは、虐待経験がおありで?」

「いや……親父さんは、俺には冷たい人っすけど、母さんに怒鳴ったり、手をあげる事はなかったっす。俺はよくお仕置き部屋に入れられてたっすけどね」

「そうなんですか」


 然程興味がなさそうな口調で言い、霧島はクリップボードに挿んだ紙に高そうな万年筆を走らせる。


「最近は見ていなかったのですか?」

「そうっすね。兄が、悪夢を見ないお守りをくれて、ソレを枕元に吊るすようになってからは、見る頻度が減ってって、いつの間にか見なくなったんすよ」

「なるほど。……悪夢の内容に、今も昔も変化はないですか?」

「ねぇっすね。ただ、昔はやっぱガキだったから、大人の怒鳴り声とか妙に怖く感じてたっすけど、なんつーか、最近は気持ち悪く感じてるっす」

「気持ち悪い?」

「こう、心臓がギューッってなるっつーか……」

「なるほど。感じ方が変わったのですね。他に、自覚する変化はありますか?」

「起きても、夢を見てるような感覚っす。現実味がない」

「其れは、子供の頃も?」

「いや……たぶん違うっす。前、ココで仮眠させてもらったじゃねっすか。そん時からっすね。悪夢も、現実味がねぇのも」

「そうでしたか。なら、其の時にでも連絡をくれればよかったのに」

「いや、大した事ねぇと思ってたし、悪夢が続くなんて思わねぇっしょ」


 高瀬は溜息交じりに笑う。


「夢の中の高瀬さんは、何歳くらいだと思います?」

「うーん……大きさで言うと五、六歳くらい?」

「なるほど。夢の場所に、見覚えは?」


 高瀬は思考を巡らせる。


「……うーん……?」

「悪夢を思い出す事に対して、抵抗を感じますか?」

「うーん……そこまでじゃねぇっすね。起きた直後は、夢を引き摺ってるっつーか、心底気持ち悪くて、胸糞がわりぃから、あんま思い出したくねぇっすけど、自分が起きてれば、アレが夢だって分かるっしょ? だから、そんなに抵抗はねぇっす……」


 ギュッ。と喉が締め付けられるような感覚に襲われ、高瀬は眉間にシワを刻む。


「そうですか。……悪夢の話は、この辺にしておきましょう。本国から、高瀬家の記録が届きました」


 ローテーブルに差し出された一枚の紙を手に取り、高瀬は目を丸くする。


「兄の事が載ってねぇ……」

「そうです。高瀬さんが思い出したお兄さんが、貴方の妄想上の人物である可能性が出てきました」

「え。なにソレ、俺が痛い奴みたいじゃん……」

「そして、此方がご両親が離婚する前の記録です」


 もう一枚の紙を手に取り、視線を落とす。


「ご両親が離縁なさったのは、貴方が三歳の頃です。父親は――」


 霧島の声が遠のいていく。


「…………」

「……高瀬さん?」


 書類から目が離せない高瀬は、ハッとして霧島を見る。


「顔色が優れないようですが、休憩をとりますか?」

「いや……いいっす。それで、実父が何すか……?」

「貴方が六歳の頃に、貴方を誘拐して逮捕状が出ていましたが、遺体で発見されたそうです」

「えぇ……マジっすか」

「はい。貴方は、実父殺害現場に居合わせた、唯一無二の人物だそうです。其の件に関して、何か思い出す事はありません?」

「……いや……。マジか、俺、誘拐経験あるんだ……」

「殺害現場と、遺体の写真ならあります」


 霧島は数枚の写真を差し出した。


「……げ。なんつー物を見せるんすか‼? うわ、グロ……」

「貴方、将来は医療に携わるのでしょう? 遺体の一体や二体で動じてどうするのです。ヴェルダンで働く以上、一度に百の遺体を目にするのは、よくある事ですよ」

「だからって、今はソレ関係ねぇでしょうが……。霧島さん、やっぱ俺のことが嫌いなんすか?」

「好きではないです」

「うわ、酷っでぇなこの人……」

「嫌いとも言っていません」

「フォローが雑っすね。まぁ、いいっすけど……」


 不貞腐れながらも高瀬は写真を手に取り、一枚、一枚、入念に視線を落とす。


「場所は高瀬さんのご両親が、離縁前に住んでいた屋敷で、離縁後に売りに出されて現在に至るまで空き家となっています。写真に移っているのは書斎ですね。凶器は、鈍器のような物としか特定できていないそうです」

「へぇ、鈍器ねぇ……」

「致命傷は、頭部の打撲。頭蓋骨が砕けて陥没し、脳の一部が損傷するほどだったそうです。あと、両脚の骨が数カ所折れていたようですね。写真の男や、場所に見覚えは?」

「……男の方は、実父だってピンともこねぇっすけど、夢で見た場所と似てる気がするっす……」

「そうですか。なら、当時の記憶が悪夢に影響しているのかもしれませんね。役所の方に、DVの相談記録が残っていました」

「DV……」


 高瀬の顔色が曇る。


「子供って、よく自分だけのお友達を作る事があります。お兄さんも、其の類の存在では?」

「……‼ でもっ‼ でも、兄は……兄は、居たんすよ。兄がくれたお守り、枕元に飾ってたら悪夢を見る回数がへってって……。捨て犬、一緒に可愛がって……兄が親父さんに頼んでくれて……。そうだ、親父さん‼ 親父さんは‼? 自分の息子の存在、忘れるわけがねぇっすよね‼?」


 高瀬はローテーブルの上に身を乗り出し、問い掛ける。


「明紀さんからは、提出可能な写真はないし、そんな息子は居ない。と、言われました」

「……え?」


 頭の中が白くなった。


「お兄さんの顔が思い出せないのも、実在しないから……という可能性もあります」

「違う‼ 違う、違うっ‼ 兄さんはいつも俺の味方だった‼ プリンが好きで、俺が初めてバイトで稼いだ金で、高いプリンをプレゼントしたんだ‼ 兄さん、喜んでて……笑顔で、俺にも分けてくれた……」


 記憶に甦る兄の顔にはぽっかり穴が開いている。


「いっ……」


 ズキン。と頭が痛み、内側から膨張するような不快感に襲われた。やがて脈打つような鈍い痛みに変わる。少しでも動こうものならズキンと刺すような痛みに襲われ、高瀬は眉間に深いシワを刻みながら頭を押さえ、呼吸を荒げる。


「大丈夫では、なさそうですね」


 霧島に支えられながらソファーに深く座る。


「高瀬さん。此れを呑んでください。気分が和らぐお薬です」


 口元に差し出された錠剤を、受け入れた。味蕾に広がる、アロエとよく似た味。ゴクン。と嚥下すると、「お利口さんですね」と言われ、頭を撫でられた。


「子供じゃ、ねぇっすけど……。つーか、コレ、前に呑んだやつと同じなんじゃ?」

「そうですね。ほら、少し横になってください」

「嫌だ。寝たくねぇっす……」


 欠伸を噛み殺す。


「大丈夫。今度は僕が付き添っているので、魘されているようでしたら、たたき起こして差し上げますよ」

「どうせなら、優しく……起し、て……」


 重い瞼が閉じていく。


「…………」


 全身から力が抜けて、強制的にソファーの上に横になった。


「おやすみなさい、高瀬さん」


 霧島の静かな声が遠くに聞こえる。



 ほどなくして、高瀬は夢を見た。見ず知らずの男が、書斎で怒鳴り散らしている。幼い高瀬は其の光景をドアの前で蹲り、びくびくびくびくと震えながら眺めていた。


『お前の所為で‼ ちくしょう、こんなつもりじゃなかったのに‼』


 否。男の顔は、霧島が差し出した写真で見た者と同じだ。そう気付いた瞬間に、男の頭部が一部、ぐちゃりと歪んで陥没した。


『ひぃっ‼』


 あまりにも生々しい変形に、幼い高瀬は咄嗟に口を塞ぐ。


『なんだお前、まだいたのか。クソッ‼ お前の所為で――』


 大きな手が、高瀬に伸びる。



「高瀬さんっ‼」


 ふと、ハッキリ聴覚に届いた声を頼りに、高瀬の意識が浮上する。


「にぃさん……‼」


 ガバッと上半身を起き上がらせた高瀬は、霧島に抱きついた。


「人違いです」


 ペチン。と高瀬の右頬を軽く叩く。


「痛てぇ……」


 言うほど痛くないが、頬を押さえながら霧島から離れた。


「大袈裟ですね。そんなに強く叩いていないでしょう?」

「目が覚めるくらいには、痛かったっす……」

「尋常ではない魘され具合だったので、つい声を掛けてしまいました」

「あざっす……」


 高瀬はソファーに座り直し、欠伸を噛み殺す。


「まだ寝ますか?」


 対面のソファーに移動しながら尋ねる霧島。


「いや、いいっす。なんか、また寝たら内容が濃くなってそうで……」

「早速ですが、どういった内容でしたか?」

「代わり映えのねぇ内容だったっす。けど、あの写真がバッチリ反映されてたっすね。そんで、妙にしっくりくる……」

「反映されたのですね、あの写真。インパクトありましたものね」

「薄っすら、霧島さんの悪意を感じるんすけど……?」

「気の所為ですよ。誘拐された時の記憶は、何か思い出せそうですか?」

「うーん……。でも、ソレって兄と関係ねぇっすよね?」


 不貞腐れながら高瀬が言う。


「過去を掘り下げていけば、糸口が見えてくるかと考えました。言い方が悪いですが、貴方は実父に母親と一緒に捨てられたのです。離縁後、養育費の支払い義務を放棄する為に行方をくらまし、一切の接触がなかったのに、何故、貴方は誘拐されたのでしょう?」

「俺に聞かれても……」


 高瀬は思考を巡らせる。


「……分かんねぇっす。実父の存在を忘れてたんすよ? 子供の頃の記憶すら満足に憶えてねぇのに、簡単に思い出すわけねぇっしょ……」

「そうですね。直ぐに思い出す必要はありません。其の写真、差し上げます」

「要らねぇっす‼ ただでさえ悪夢なのに、ホラー要素ぶち込まねぇでほしいっす」


 底知れぬ深い溜息が漏れていく。


「残念ですが、僕にお手伝いできる事は、もう何もないのかもしれません」


 霧島は困ったような顔で言う。


「先生が諦めてどうするんすか⁉」

「ほら、僕の本業は外科医ですから……」

「霧島先生ぇ、俺を見捨てねぇでください‼」

「忘却は、一種の防衛反応です。今の生活に差支えがないのなら、無理に思い出す必要もないかと。現に、不要な事を思い出した所為で高瀬さんは悪夢に魘されて、寝不足に陥っています」


 霧島の表情に、微かだが心配の色が浮かんだ気がした。


「それでも、俺は兄の事をちゃんと思い出したいんすよ」

「何故です?」


 暗い眼差しが高瀬を見る。


「……兄が実在したって、証明したいんすよ」

「本国の記録に記載がないだけでなく、実父である明紀さんが存在を否定した人物の存在を証明するのは、不可能だと思いますよ。貴方の記憶だけが頼りなので、尚更」

「はぁ……。こんな時に母さんが、まともだったらな……」

「まともだったら、とは?」

「俺が高校生の時から精神病院に入院してるんすよ。記録にも記載されてるっす」


 高瀬はローテーブルの上に置きっぱなしになっていた紙を一枚、差し出した。


「あぁ、本当だ。何故、実在を証明したいのですか?」

「……兄が、好きだから」


 照れくさそうに言う高瀬は、言葉を続けた。


「俺にとって、兄が好きって感情は大切な物だったんす。生きる支えっつーか、兄が居たから頑張れたところがあって。兄と比べられるのは悔しいし、モヤッとする事は沢山あったけど、やっぱ兄は俺の自慢なんすよ。だから、ちゃんと思い出して実在を証明したいっす‼」

「思い出したらどうしますか?」

「そりゃあ、会いたいっす」


 自然と高瀬の表情が和らいだ。


「記録に残っていないとなると、存在を証明するのは難しいです。記憶は、時に自分の都合が良いように書き換えられる事がありますから、信憑性も低いかと」

「卒業アルバム‼ 卒業アルバムはどうっすかね⁉」

「歳が離れたと言えば、大体五歳から十歳が一般的ですかね? お兄さんが通っていた学校名、分かりますか?」

「……月島学園っす。あそこ、幼稚園から大学まで一貫なんで、兄はずっと屋敷から通ってたっす」

「高瀬さんは、月島の医学部でしたね」

「勉強、頑張ったんすよ」


 高瀬は誇らしげに笑う。


「そうでしたか。では、月島学園に連絡を入れてみます」

「よろしくお願いするっす‼」

「今回は寝つきが良くなるお薬、とりあえず一週間分ほど出しますね」

「助かるっす‼」

「なので、次は一週間後くらいでも大丈夫ですか?」

「うっす‼」

「処方箋は受付で貰ってください。薬局は売店の隣にあります。もしも気になる事や、話したい事があったら連絡をください。では、以上で終ります。ご苦労様でした」

「あざっす‼」


 高瀬は霧島に見送られながら、其の場を後にした。


 三階のロビーは、相も変わらず人が居らず、とても静かだ。直ぐに名前を呼ばれ、処方箋を受け取り片倉の病室へ向かう。



「あれ……?」


 病室は、蛻の殻だった。


「病室、間違えたかな……?」


 ベッドは綺麗に整理されている。小首を傾げた高瀬は、スタッフステーションへ向かう。だが、幾ら尋ねても所在を知ることはなく。肩を落とした高瀬は、諦めて一階へ戻り、売店横の薬局で薬を貰ってから帰宅した。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 同日の晩、高瀬はまた夢を見る。


『憎たらしいガキだ』


 見覚えのある書斎で、良質な生地で仕立てたグレーのスーツを纏った男が言う。


『お前の所為で、俺はすべてを失った‼ 家も、地位も、何もかも‼』


 男は声を荒げて言葉を続ける。


『大金が手に入るって言うから、プロジェクトに参加したってのに‼ ちくしょう……。あの野郎、俺から何もかもを取り上げやがった‼ お前が、余計な事を喋ったからだ‼ 黙って良い子にしていれば、俺は一生遊んで暮らせたってのに‼』


 幼い高瀬は、両手足を縛る縄から逃げようと試みるが、軋む縄が余計に食い込むだけだった。男が近付いてくる足音気付き、身体が強張っていく。


『なぁ……俺は可哀想だろ? 妻はお前を孕んだせいで、おかしくなっちまった。お前は、大金を持ってくるどころか、俺から全てを奪いやがった‼ 家も‼ 地位も‼ 財も‼ 全部だ‼』


 男は幼い高瀬の髪を掴み、無理矢理に顔をあげさせた。


『さて。高瀬の野郎は、お前の為に幾ら支払うか? 久世から預かっている大事な被験体だ。手放すような事はしないだろ。でもな? イフェリアか、ガルバディアに売れば、倍になるかもしれない。久世の実験体は、どの国も喉から手が出るほどに欲しがっているからな』


 ゴミを投げつけるように手を離され、幼い高瀬は頭部を床に強打した。鈍い痛みはジンジンと広がっていく。


『あぁ……。大事な久世の実験体を失くしたとなれば、高瀬の野郎も俺と同じく、全てを取り上げられるかもしれない。見てみたいものだなぁ……あのいけすかねぇ野郎が全てを失って、地に膝を着く様を‼』


 男は嗤う。恍惚に表情を歪めながら、嗤う。


『他国に売りさばくのだって、五体満足である必要はねえ。いっそバラバラに切り刻んで――』


 幼い高瀬から血の気が引いていく。


―― 誰か助けて‼ ――


 心の中で幾度も叫んだが、誰に届くでもない。



「っ……‼」


 高瀬は、飛び起きた瞬間に激しい頭痛に襲われ、息を詰まらせる。


「痛てぇ……」


 少しでも動こうものなら、割れるような痛みが頭全体に広がった。


「…………」


 痛みから逃げる為に、段々と呼吸が浅くなっていく。


「……薬……」


 呑み忘れていたのを思い出し、ベッドサイドテーブルの上から薬袋を手に取った。震える指先でPTPシートから錠剤を二錠押し出し、纏めて口の中へ放り込む。


「う゛っ……」


 唾液の量が少なかった為、嚥下に多少苦労した。


「…………」


 喉に錠剤が張り付いていた違和感を引き摺りながら、瞼を閉ざして深い呼吸を繰り返す。


―― 今度は大丈夫。ちゃんと薬、呑んだ……。――


うつらうつらしている内に、深い眠りへ落ちていく。

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