03_イフェリコ豚バーガーを求めて

 一度寮室へ戻り手短にシャワーを済ませた高瀬は、消し炭色の生地に、いかにも狂暴そうなヒグマがプリントされたスウェットスーツに着替え、履き潰したヒョウ柄のスニーカー姿でロビーに立っている。


 掲示物をぼんやり眺めているとエレベーターが下がってきて、チン。とベルが鳴りドアが開いた。「お待たせ~」とやって来たのは、研究所でよく見る白いブラウスに濃紺のスラックス姿の前田。ぽよんぽよんと贅肉を揺らしながら小走りで近付いて来た。


「さ、行こう。行こう‼」


 高瀬は先導する広い背中を追い掛ける。



 研究者達や病院、役所関係者用の寮が立ち並ぶ区画から森林公園を抜けた先に在る、≪森林公園入り口前:2≫と書かれたバス停で並ぶ2人に、「こんにちは。いいお天気ですね」と、通り過ぎざまに見知らぬ女性が声を掛けてきた。「そうっすね」と高瀬が返すと、「行ってらっしゃい」と言い残して女性は去って行く。


 また暫くして、通り過ぎざまに男性が「こんにちは」と声を掛けてきた。「うっす」と高瀬はそっけない返事をし、男性と世間話を交わす前田を傍観する。


「それでは」

「はい、どうも~」


 会釈をしながらにこやかに男性の背を見送る前田に、「知り合いっすか?」と尋ねると、「知らない人だよ~」と返ってきたので高瀬は目を丸くした。


 その後、通り過ぎていく子供の群れや、買い物帰りと思しき主婦、杖を突きながらゆっくり歩く老人達と挨拶を交わした高瀬は、「なんか、やけに挨拶される……」と小さく漏らす。


「挨拶は対人関係の基本。初歩的なコミュニケーションの一種だからね~」

「そうかもしんねぇっすけど……なんつぅか、こうも続けざまに知らない人から声を掛けられると鬱陶しいっつーか……」


 高瀬は語尾を濁しながら片手で頭を掻いた。


「日頃から声を掛け合って顔見知りになって対人の幅が広がれば、行動も知識も豊かになるんだよ~。本国だとネット環境が充実しているから、サクッと検索しちゃえばどんな知識だって拾えるし、業者を使えば補える事が沢山あるけど、ココ、箱庭が目指す場所は、〝誰もが手を取り合って自分のできる範囲で互いに補いながら助け合うあったかい世界〟だから、積極的に声掛け活動をやってるんだぁ」


 前田は穏やかに言葉を続ける。


「でもねぇ、挨拶されたからって、必ずしも返す必要もないんだよ? まぁ中には、無視された! この礼儀知らずめ! って、怒る人もいるけどさ、それって挨拶してやってるのに! って思ってる証拠だもん。相手が自分の都合で勝手に挨拶をして期待が外れたから憤慨しているだけだもんねぇ~」


 にぱぁ。と効果音が聞えそうな笑みを浮かべる前田は、更に言葉を続けた。


「高瀬君は、自分が挨拶した相手に無視されたら、どんな気持ちになる?」

「どんな……」


 高瀬は思考を巡らせる。


「……イラっとした事があったっすね……」

「だよねぇ。自分がされて嫌な事は、他人にやっちゃダメだよねぇ~」

「……前田さん、もしかして教職経験があったり?」


 高瀬は前田の顔をじっと見る。


「ない、ない‼ 大学を出てからずっとココで働いてるよ。でもねぇ、子供は好きだなぁ……。キャッチボールをしたり、フリスビーを投げ合ったり、追い掛けっこをしたり。そういうので遊んでくれるのって、子供の内だけでしょう? 無邪気に笑う子の頭を撫でたり、したかったなぁ……」


 前田の笑みに影が差す。


「……なんか、すみません。俺、もしかして聞いちゃいけない事――」

「あ、バスが来たよ‼」


 視線の先には、≪第参噴水広場 南経由 003≫と電光掲示板に表示されたバスが近くて遠い場所に見える。少し距離が縮まったところで、前田はバスに対し片手を高く上げた。

 ハザードをつけながら減速したバスが停車すると、静かにドアが開く。先頭を行く前田が、首からワイシャツの下に垂らしているIDカードを乗降口近くにあるパネルに翳すと、ピッ。と電子音が響いた。数秒の間をあけてから高瀬も続き、最後部席右側の窓際に前田が座り、その隣に高瀬が座る。


『南経由 第参噴水広場行き、発車します』


 アナウンスと共に短いブザーが鳴り、乗降口のドアが閉じてバスが動き出す。


「…………」


 前田は窓の外に視線を向けて沈黙し、ちょうど真ん中に座っている高瀬は目のやり場に困り、ぼんやりと料金表を眺めた。


暫く走り続けて料金表を見飽きた高瀬がイヤホンを忘れた事を後悔していると、バスが赤信号で止まる。横断歩道を歩いている幼い女の子が躓いて転んだ瞬間、近くに居た数人の者達(大人、子供混合)が飛んできて、女の子を助け起こそうと手を差し伸べた。


「……うっぜ」


 高瀬は呟いた。


「…………。高瀬君は、ああいう光景が過保護に見えるタイプかな?」


 そう問い掛ける前田の視線は、フロントガラス越しへ向いている。


「そうっすね」

「理由を聞いてもいいかなぁ?」

「甘やかしすぎっすよ。あれじゃ、あの子が強くなれねぇっす。子供はほうっておけば自分で立てるんすから」

「そうだね。ここが外の世界なら、そうかもしれないねぇ。でも、箱庭では誰もが強くいる必要はないんだよ」

 横断歩道を渡り終えた女の子が自身に手を差し伸べてくれた者達に笑顔を向けている光景が通り過ぎていく。


「ここで生きる人達は、困っている人がいれば、例え相手が見ず知らずの他人でも、見て見ぬふりをしない。自分よりも弱い者を虐げず、身分や貧富で差別をしない。その先駆けが、挨拶なんだぁ。毎日挨拶をしあっていれば赤の他人よりも距離が近くなるから、持ちつ持たれつしやすいんだよ~」

「へぇ……。なんつーか、気持ち悪いっすね」

「近隣を愛してるんだよ。近隣って言うのは、近所の人じゃなくてね、今、その場所で自分の隣に居る人って意味だよ。誰かによくすることで、相手の心があたたまって余裕が生まれて、またどこかでその人が近隣によくできる。そうやって、あったかい波紋が広がって、優しい世界になっていくんだぁ」

「優しい世界、ね……」


 小さく繰り返す高瀬の心内に芽生える、言葉では形容しがたい靄。


「ヴェルダンで言うところの、可哀想な人に優しくってやつっすか?」

「ううん。違うよ~。あんな上辺だけの自己満足な善意じゃない。あれは、貴族たちが自分の権力や財力とかを見せ付ける為の慈善事業みたいなものだもん。箱庭は、楽園なんだよ。天使様が見守る、右も左も慈愛で満ちた楽園」


 前田はふんわり笑い、言葉を続ける。


「天使様は慈悲深くて人の痛みを知っているから、差別なく寄り添い、癒してくれるんだぁ~」


 謳うように言葉を紡ぐ前田の表情には恍惚が浮かんでいた。


「……天使って、ギルダ大陸で根付いてる宗教のっすか?」

「あれ? 高瀬君、知ってるの~?」


 ハトが豆鉄砲を喰らったような顔で、前田は高瀬を見た。


「兄貴がこっそり天使信仰をしてたんすよ。それで」

「高瀬君も、信仰してる?」

「いや。俺はしてねぇっす」

「そっかぁ……。箱庭では、信仰は自由だからね‼ だからと言って、何でもかんでも信仰しちゃダメだよ? ちゃんと善悪を見極めようね~」

「見極めるっつっても、無理じゃねぇっすか? ネット検索したかぎりだと、どんな宗教も批判ばっかだし、良い事を言ってんのはソコのサイトか狂信者くらいっす」

「被害云々って書き込みは鵜呑みにする者じゃないよ~。裁判になった事例とか確かにあるけど、どこの宗教も自分達の信仰だけが本物だと誇示しているから、被害者装って目の敵の教団を罵倒するくらいはするもんだよ~」

「そういうもんなんすか?」

「そういうものだよ~。宗教なんてどんなに良いこと言っても、所詮は欲が深い人間の集まりだからねぇ」


 前田は、どこか遠くを見て溜息交じりに言う。


『次は、第参噴水広場。第参噴水広場行――』


「話をしていると、あっという間だねぇ~」


 ニコニコ笑いながら、前田が降車ボタンを押す。ポーン。とチャイムが鳴り、機械的な音声が『次、停まります』と告げる。 暫くして緩やかに減速したバスが停まり高瀬が席を立つと、緊迫した声音で「高瀬君」と呼び止められた。肩越しに振り返ると、前田は中腰で座席の間に佇んでいる。


「どうしたんすか、前田さん?」


 そう尋ねると、前田は表情を曇らせながら笑う。


「抜け出せなくなっちゃった……」



   ◇◇◇◇◇◇◇



 座席の間に見事にハマった前田を、運転手の手を借りて引っ張り出した高瀬は清々しい気分でバスから降りた。円形の広場は人がまばらで、噴水を流れる水の音にまざって街灯に設置されたスピーカーからゆったりとしたピアノのBGMが静かに響いている。


「結構、寂れてるんすね?」

「メイン通りから奥の方だからねぇ。でも、週二回くらい朝から昼頃まで市場が開催されるし、穴場みたいなお店が結構あるから休日や祝日は人で賑わってるんだよぉ~」


 大きく背伸びをしながら前田が言う。


「ビアンコはこっちだよ~。外壁が白いから分かりやすいよ」


 ぽてっぽてっ。と効果音が聞こえてきそうなほどに浮かれた足どりで、赤い三角屋根が連なる橙色の煉瓦造りの長屋(店先には其々袖看板が設置されており、草花を飾っている店が多い)が続く路地を先導する前田は、すれ違う人が挨拶を投げ掛けてくる度に、「はい、こんにちは~。良い天気ですねぇ」とにこやかに反応していった。


「……疲れねぇんすか?」

「僕ね、割と人間と話すのが、好きなんだよ」


 そう言った前田の声音は、弾んでいる。


「昔ね、人間と意思の疎通がうまくできなくて、凄くもどかしい思いをしたんだぁ……。大切な人が喜んでいる時に一緒になって喜んでみても、大切な人が悲しんでいる時に慰めの声を掛けてみても、いまいち通じなくてさ。興奮するなって言われたり、鬱陶しい。黙れっ‼ て言われたり……。今はそうじゃないからさ、すごく嬉しいし、楽しぃんだぁ‼ これも天使様のお陰様だよ~」

「天使様……」

 高瀬は呟いた。


「あぁ、でも箱庭とギルダ大陸の天使信仰は、別物だからねぇ?」


 言いながら立ち止まった前田が振り返る。


「ギルダ大陸の天使信仰は叙事詩で多く語られる存在だけど、箱庭の天使様は実在するから割と簡単に会えるし、平等に救いを齎してくれるんだぁ~」


 狂信。恍惚。敬愛。其のどれとも捉えられる色が、笑みに浮かぶ。


「俺でも、会えるんすか? 信仰とかしてねぇっすけど」

「当たり前だよぉ‼ 天使様は宗教じゃないもん」

「へ……?」

「信仰は自由だから僕達が勝手に信仰しているだけで、天使様は教祖様とかじゃないよぉ~。普通にご飯を食べたり、普通にトイレに行ったり、高瀬君と同じただの人間だよ~」

「…………」


 前田が楽しそうに笑い、高瀬は片手で後頭部を掻いた。


「誰が最初に彼を天使様と呼んだのか分からないけど……箱庭七不思議を辿った人から住人達に広がった。って感じだったなぁ?」

「箱庭七不思議……」

「あ‼ ほら、ビアンコはあそこだよ~‼」


 前田が指さす方にある長屋の一カ所が白い。近付いた先にあったのは、嵌め殺しの窓から店内が見える喫茶店で、文字看板で≪Bianca≫と書かれている。


「……ビアンカ?」

「ビアンコだからBiancoって表記するのが正解なんだけど、業者が看板をつけ間違えたんだって~」

「直さないんすか?」

「マスターは温厚な人だからねぇ、気にしてないみたい‼ でも、ほらコレ。手書き看板にはちゃんとBiancoって書いてある」

「でも、看板って店の顔っすよね?」

「高瀬君、細かい事をいちいち気にしていたら、くたびれちゃうよ? マスターも、ビアンコを利用するお客さんの誰もが気にしていなくて、誰もがこの店を≪ビアンコ≫だって認識できているんだから、それでいいんだよ」


 哀れみを籠めた眼差しで高瀬を見つめる前田が、クリームパンのような手で、ぽん。と高瀬の肩を叩く。


「でも、看板って店の顔なんじゃ――」

「ほらほら‼ イフェリコ豚バーガーは目前なんだ、早く入ろうよぉ~‼」


 前田は高瀬の背を押した。モヤッとした感情を抱えた儘、採光窓がついたブラウンのドアを開けると、カランカラン。とドアベルが響く。



 息を吸い込んだ瞬間に鼻孔へ届く、焙煎された珈琲豆の香り。店内はセピアのグラデーションを駆使した配色になっており、ゆったりくつろげるボックス席が1つ。カウンターに8席。入り口から向かって右の壁沿いにダークブラウンのアップライトピアノ。其の隣に蓄音機を置いた棚などが設置され、外壁から予想したとおり広いとは言い難いが、窮屈さを感じることもない。


「マスター、例のアレをよろしくねぇ~‼」


 前田がにこやかな笑みを浮かべて言うと、顔立ちが濃く渋いマスター(ライトブラウンのワイシャツにダークブラウンのベスト姿で、ロマンスグレーの髪をオールバックに纏めた筋骨隆々な初老の男性)は、曇り無き圧のある視線を拭いていたグラスから前田に移し、コクンと頷いた後に高瀬を見て会釈をする。「うす……」と小声で返しながら会釈を返して前田を追い掛けた。


 通りが見渡せるボックス席に腰を下ろした二人。真正面で向き合う事に気まずさを感じていると、「高瀬君、飲み物どうする?」と言いながら前田は少し端の方へ移動してメニューを手に取り、差し出す。


「あざっす‼」


 受け取ったメニューはB5サイズほどで、片側に軽食やデザート。其の裏側に飲み物が記載されている。オススメは珈琲各種だが、ココアやオレンジ、リンゴなどの果汁を使ったジュースも用意がそうだ。


「ねぇ、マスター。今日は、澪くん居ないの?」


 前田が尋ねる。マスターはジッと前田を見つめた。


「……へぇ、そうなんだ。残念だなぁ……」


 ションボリする前田の違和感に気付いた高瀬は前田を見て、マスターを見る。


「澪くんが居たら、ピアノ演奏をお願いしたかったんだけどなぁ」


 前田はマスターの方を向きながら、楽しそうに言葉を紡ぐ。


「……え? ああ、流石に申し訳ないからいいよぉ‼ 休日出勤ってテンション下がるしさ、ゆっくりしてもらおうよ~」


 高瀬には前田の声しか聞こえていない。マスターはジッと前田を見ているだけで、一文字に固く閉ざされた唇は動いていないように見える。


「いいの~? じゃあ、折角だから、何かゆったりした曲でもかけてもらおうかなぁ? マスターのオススメでいいよ~」


 マスターが小さく頷いて、持っていたグラスを置くとカウンターから出てきた。腰に纏った限りなく黒に近い緑でロングタイプのギャルソンエプロンには、何とも形容しがたい顔のウサギ……動物と思われるイラストが白い線で描かれている。あまりの不釣り合いさに高瀬が目を奪われていると、レコードをセットした蓄音機から微かに音が割れたピアノの音色が流れ出す。


 時折音が飛んでいるカ所があるが、寄せては返す波に揺られるような心地良さのある旋律は、高瀬をちょっぴり昔懐かしいような物悲しい気分に誘った。


「高瀬君、飲み物決まった?」

「え? あ……」


 慌ててメニューに視線を落とす。


「えっと……紅茶。ホットのストレートで‼」


 マスタを見ながら言うと、コクン。と首を縦に振られただけで、返事はない。


「感じ悪……」


 ぼそっと呟くと、前田はふんわり笑う。


「慣れちゃえば気にならなくなるよ~」

「慣れるまでかよったんすか?」

「ここでしかイフェリコ豚バーガー、食べられないからねぇ~」

「普通ならいくら美味くて店員の態度が悪いと、また来ようと思わなくねぇっすか?」

「僕はサービスを受けに来てるんじゃなくて、イフェリコ豚バーガーを食べに来ているだけだからなぁ……。最初は、無口な人だなぁとは思ったけど、それ以外に思うところはないよ~」

「でも、こっちは客っすよ? 客は神様だとは言わねぇっすけど、最低限の対応ってのがあるんじゃねぇっすか?」

「……高瀬くん、少し他人に求め過ぎじゃない?」

「前田さんが気にしな過ぎなんだと、思うっす……」

「お金を出して、欲しい物を得る。十分、最低限の対応を受けてるんじゃないかなぁ? って、思うよ~」

「でも――」


 視界の端にマスターが映り、口を閉ざす。


「高瀬君は、マスターが謝罪でもすれば気がおさまる?」


 前田の前に白無地の珈琲カップとおかわり用のポットを。高瀬の前に白地を金で縁取ったティーカップとセットのポットが置かれる。


 高瀬がチラッとマスターを見ると、アンバーの視線がジッと高瀬を見返した。


「別に、いいっす……」

「…………」


 ほんの一瞬、会釈を残して立ち去ったマスターの顔が、安堵を浮かべたような気がした。


「高瀬君は、お兄さんとよく出掛けたりしたの?」

「……してねぇっす。……兄は、俺と違って家督を継がなきゃいけなくて、勉強が忙しかったんすよねぇ……」


 ティーカップを口元へ運ぶと、深いダージリンの中に香るカモミールの清涼感か鼻孔に届く。


「……俺達、血が繋がってないんすよ。俺がまだ受精卵だった頃に、母が再婚したらしいっす。ほら、あの……可哀想な者に優しくって制度っつーんすか? それで、仕方なく。だから高瀬の親父さんにとって、俺はそんな重要じゃなくて。

 俺ね、お兄ちゃんっ子って言うんすかね。ヒヨコのように兄の後ばっかり追い掛けて、遊んで遊んで‼ って、騒いで、よく親父さんに怒られてたんすよ。邪魔をするな‼ って」


 家督の為に夜遅くまで勉強をしていた兄に、紅茶を差し入れた事を思い出す。


「あんなに、大好きだったのに。唯一無二の俺の味方だった筈なのに、声は憶えてんすけど、顔が思い出せなくて……」


 紅茶を一口啜る。


「……僕は専門じゃないから、受け売りになるけど」


 前田は珈琲を一口啜った。


「心理的抑圧が原因かもしれないね~。簡単に言うと防衛反応みたいなものだよ~。自分が思っているよりも強いストレスが掛かるから、思い出さないようにしちゃうらしいよ」

「……兄にちょっかい出して、親父さんに怒られた記憶は余裕で出てくるのは、なんなんすかね?」

「思い出す時に、頭は痛くならない?」


 前田が心配そうに尋ねる。


「痛くならねぇっすね。……顔、思い出そうとするとちょっと痛てぇっす」

「ああ‼ 無理に思い出そうとしなくていいよぅ‼ あ‼ ほら、イフェリコ豚バーガーきたよ‼」


 嬉しそうに前田は笑い、視線をマスターに向けた。


「…………」


 テーブルの前まで来たマスターは、相も変わらず無言で前田と高瀬を見て、前田に促される儘に高瀬の前に白い平皿を置く。


「コレが、イフェリコ豚バーガー……」


 こんがりキツネ色に焼けたバンズからはみ出る、初々しいレタスの上に敷かれた輪切りトマトの座布団に鎮座するパテの厚みは、まるでハンバーグステーキのよう。とろけたチェダーチーズとこってり濃厚甘辛ソースを纏うソレは、直径約15cmくらいで、高さは約8cmくらいだろうか。


 皿の端には所狭しとフライドポテトとが積まれ、ディップ用のオーロラソースが入れられた使い捨てのアルミカップは、表面がギリギリ見えるほどに埋もれていた。


「デカい……」

「ありがとうねぇ、マスター」


 前田は弾んだ声で言いながら、視線で皿を追う。


「ナイフとフォークでお上品に食べてもいいけどねぇ、オススメはやっぱりこう‼」


 形を崩したり、手を汚さないように気をつけながら可愛らしくデフォルメされたイフェリコ豚の絵が描かれた専用の紙袋にバーガーを移した前田は、瞳が煌めく満面の笑みを浮かべて「いただきます‼」と言い、齧りつく。


「んぅ~~~~~~~~‼」


 感極まった音を漏らしながら、リスのように頬を膨らませて美味しそうに頬張る前田の頬は、今にも溶けて落ちそうだ。時折、口から溢れそうになる肉汁を、ジュルッ。と啜る音が小さく聞こえる。


 あまりに美味しそうに食べるから、高瀬も倣って専用の紙袋にバーガーを移す。


「いただきます……。…………‼」


 大口を開けて歯を突き立てると、表面がサクッとしたバンズの中はふんわりで、バターの風味を感知した。とろけたチェダーチーズと濃厚なソースを纏ったパテの層に歯が到達すると、炭火でしっかり焼かれた肉の表面に食い込んだ瞬間に穏やかな甘みのある肉汁がダム放流の如く溢れ出す。黒胡椒と岩塩を筆頭にスパイス各種で味付けされており、粗挽きで牛肉に負けず劣らず肉々しい旨味の中に刺激があり、トマトとレタスのフレッシュさが加わると、また一味違った旨味が爆誕した。


「え、美味い……。ソースの甘辛と、チーズのまろやかさだけでも十分美味いのに、パンチが効いた濃厚な肉と野菜が、噛めば噛むほどに融合されて妙に癖になる味っすね。俺、この味、好きっす‼ やべぇ、美味い‼」


 高瀬は夢中で、イフェリコ豚バーガーに齧りつく。


「うおぉ‼? やべぇ、肉汁が、ジュルッ、止まんねぇ‼ ジュルジュル」

「高瀬君が気に入ってくれたようでよかったぁ~」


 口の周りを濃厚ソースで汚した前田は無邪気に笑う。


「僕ねぇ、いつか大切な人と、こうやって好きな物を共有してみたかったんだぁ~。いつも僕は見ているだけ。たまに一緒にお店に入れても、食事を共にするって事はあんまりなかったなぁ……」

「ふぉんへっふは?」


 高瀬は頬を膨らませて咀嚼しながら問い掛けた。


「あ~、ごめんねぇ? 聞き流してくれてもいいよ~?」

「…………。……前田さん、普段から想像がつかねぇくらい、すげぇ寂しそうな顔するから気になるっす。つーか、一緒に店に入ったのに一緒に食わないって、どう言う状況なんすか?」

「僕が食べられる物がなかったんだよ~。今は何でも気にせず食べられるけど、昔は食べちゃダメな物が結構あってねぇ……。まぁ、今でも蕁麻疹出ちゃったり、体調崩しちゃったりする事があるんだけどさ~」


 フライドポテトを三本、オーロラソースをつけて口へと運んだ。


「んぅ~~~~‼ このソースも美味しぃ~‼ マヨネーズがマスターお手製なんだよぉ!!」

「ほんと、前田さんは美味そうに食べるっすね」

「美味しい物を食べてるからね。ほっぺたが落ちそうだよ~。……高瀬君は、家督を継ぐの?」

「……ふぇ? んー……」

「あ~、ごめんね。ゆっくり話をしながら食べるものじゃなかったねぇ……。よし、今はお互い食べることに集中しようか‼」

「うっす‼」


 高瀬と前田は、無我夢中でイフェリコ豚バーガーを貪った。



   ◇◇◇◇◇◇◇



「美味かった……」


 高瀬は、イフェリコ豚バーガーの余韻に浸っている。


「デザート頼んじゃおうかなぁ」

「え、まだ食べるんすか……?」

「高瀬君は、デザート食べないの?」

「バーガーの満足感に浸りたいっす。美味かった……」

「イフェリコ豚はハンバーグでも美味しいんだよぉ‼ 牛肉に負けず劣らず肉々しさがあるけど、やっぱり豚だから牛と違って軽くて食べやすいから飲み物だねぇ~」


 前田はメニューに視線を落としながら言葉を続ける。


「お兄さんの事、全部思い出したの?」

「いや……どうなんすかね?」

「なんで、忘れちゃったのかな?」

「うーん……何でっすかね?」


 高瀬は思考を巡らせた。


「お兄さんは、今、どうしてるの?」

「どう……っ――」


 一瞬だけ高瀬の頭を襲う鋭い痛みは、脈を打つような鈍いものへと変わっていく。


「あぁ、ごめんね。……高瀬君は、お兄さんの事を、思い出したい?」

「……もしかして前田さん、兄の事を知ってるんすか?」

「…………」


 穏やかに笑う前田は、何も答えずにポットの珈琲をカップに注ぐ。


「高瀬君、なんだかお兄さんが恋しそうなんだもん。僕に手伝えることがあったら、喜んで協力したいなって、思ったんだ~」

「……そうっすか。……俺、兄が好きだったんすよ。よく、怖い夢を見てたんす。知らねぇ男が酒飲んで、怒鳴って。目の前で母さんが叩かれて、グラスが割れる音がした。怖くて、怖くて……寝るのが嫌で。その話をすると、母さんがおかしくなるんすよ。急に発狂して、俺の事を突き飛ばしたり怒鳴ったりして。親父さんは最初から俺の事を冷めた目で見て、屋敷で働いてる人達なんか、最低限俺達に接触してこなかったっす。兄さんだけが、親身になって話を聞いてくれて、俺が怖い夢を見ないようにって、天使様に祈ってくれて……。寝る前に絵本を読んでくれたり、兄さんが勉強してきた事を教えてくれたりして。悪夢を見ないお守りまで作ってくれたんすよ」


  一拍置いた高瀬は、「あの家で、兄だけが、俺の味方だったんす」と呟いた。いつも間にか手元に落ちていた視線を、前田に向ける。


「思い出すには、どうしたらいいんすかね?」

「う~ん……。カウンセリングを、受けてみる?」

「カウンセリング……。カウンセリングって、あの?」

「僕も話を聞いてあげる事くらいならできるけど、霧島さんは職員のメンタルケアもやってるし、話してみるのもいいなか~って」

「霧島さんって、外科医っすよね? やっぱあの病院、ブラックなんじゃ」

「僕達は見守る事しかできないねぇ……」

「そうっすか……」


 沈黙する2人の脳裏に過労を浮かべた霧島の表情が浮かぶ。


「ほら、情報を探すにしても、霧島さんは僕よりも高い地位の人だから範囲も広いし、話しておいて損はないと思うよ~」

「そう言うことなら、お願いするっす」

「任せといて~‼」


 前田はふくよかな腹を、ぼよん。と叩く。


「マスター‼ バケツプリン、ホイップクリーム増しましで‼」


 輝く瞳をマスターに向けながら声を弾ませる前田に対し、高瀬は小さく溜息を漏らしながらも口元を緩めた。


「今度、座席にハマったら置いて帰るっすよ」

「でもね、高瀬君、ここのバケツプリン、美味しいんだよ~!? 食べないと損だよぉ!?」 

「前田さん、痩せる気ねぇっすよね」

「うっ……。い、一応、霧島さんから貰った糖質の吸収を抑えるサプリ飲んだり……、痩せやすくなる場所にホッカイロ張ったりしてる、よ~……?」 

「ふぅん……」

「そんな目で見ないでよぉ、高瀬君……。おっぱい、揉む?」

 視線を前田の胸元へ向けた。服の上からでも分かる、豊かな膨らみが2つ。


「……前田さんが女の人だったらなぁ……」

「脂肪に性別は無いよ~」


 2人は顔を見合わせて笑う。



◇◇◇◇◇ 数分経過 ◇◇◇◇◇



マスターが木製の配膳ワゴンを押しながら席に来た。白い大きな平皿で蓋がされた、サッカーボールほどの大きさをした黄色いバケツを置くと、前田は其れ等を引き寄せ呼吸を整える。


「せいっ‼」


 気合の入った掛け声とともにバケツをひっくり返し、両掌で、トントコトントトコ太鼓のように一定のリズムを刻みながら底を叩くこと数十秒。ピタッと前田が動きを止めた瞬間、楽しそうな空気は一転し、緊張に張り詰める。


「覚悟はいいね、高瀬君」

「うっす!」


 再度呼吸を整えた前田は、ゆっくりとバケツを持ち上げた。平皿の上に優しいクリーム色をしたプリンが鎮座しているのを確認して、ゆっくり慎重に中腹までバケツを持ち上げたところでカラメルソースが側面を伝い落ち、平皿に広がっていく。


「………‼」


 完全にバケツを取り払い、露わになったバケツプリン。横から見た山頂はカラメルソールが染み込んでおり、浅めの火口湖はマスターの手によって表面をガスバーナーで炙られ、甘くも芳ばしい香りを放ちながらぷくぷく煮えたぎり、表面が硬くなったのを確認すると、ふんわりしたホイップクリームの大蛇が蜷局を捲いた。

 前田の食欲を刺激するには十分だが、平皿の上にプリンを囲むようにホイップクリームの花が咲き、カラメルソースのグラデーションに染まっていく。


「デコレーションって、見てるだけでも楽しいねぇ~」


 追加のホイップクリームが蔦のようにプリンの側面に巻き付いていくのを眺めながら、前田は無邪気に笑う。


 仕上げにホイップクリームの大蛇にブラックチェリーを秘宝のように持たせれば完成だ。2人分の小皿とスプーン。取り分け用の大きいスプーンを置いて、マスターは会釈を残して立ち去った。


「バケツプリンって夢が詰まってるんすね。見てるだけで胸焼けが……」

「高瀬君、まだ若いんだからコレくらい余裕でしょう~?」


 大きな白蛇が鎮座するバケツプリンを携帯電話のカメラで撮影しながら言う前田は、満足そうに笑い携帯電話をテーブルに置き、手拭きで手を拭ってからプリンを取り分ける。


「はい、高瀬君の分!」

「いや、俺は結構っす」

「あれ~? 高瀬君、プリンが好物じゃなかったっけ?」

「あー……。子供の頃は、好きでよく食ってたっすけど……」


 言葉が浮かばず、語尾が濁る。


「ごめんね、無理強いになっちゃったかなぁ?」

「いや……。いただきます。……美味い‼」


 滑らかな舌触りのプリン濃厚で、優しい甘さをしていた。ホイップクリームと共に食べるとよりまろやかな味わいになり、ミルクプリンを食べているように感じる。其処にカラメルソースが加わると芳ばしい大人の味で甘味が引き締まり、ペロッと完食してしまう。


「やべぇ……。コレは別腹っすね……」

「でしょう~。好きなだけ食べてね~‼」


 高瀬と前田は、他愛ない会話をしながらバケツプリンを堪能した。



――――――――――

補足

 イフェリコ豚は万年冬に閉ざされた北のギルダ大陸原産の豚で、寒い地域で放牧された豚の分厚い脂肪はきめ細かく引き締まり、ストレスフリーの肉は柔らかく、餌にゲルゲルゲが含まれているので優しい甘みがあります。

 年間通して雪に見舞われるているので寒さから身を護るためにもっさもっさしています。山間部で飼育されている豚は岩に擬態して身を護るために灰色系統の毛。平原部で飼育されている豚は雪に擬態する為に真っ白な毛であることが多く、どちらも春から夏にかけて薄茶の短毛に生え変わる習性がありましたが、時代の流れと共に夏から秋が消えたギルダ大陸に適応する為に進化したと言われています。

 大きさは大型バイクくらいあって、昔は乗り物としても活用されていたというフェイク記事が残されているそうです。

 イフェリコと呼ばれていますが、実際は。見た目が完全に豚っぽく、鳴き声も「ブヒィィィン」と聞こえるので豚だと認識されています。誰もが豚だと思っているので、問題ないです。

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