06_曇り空

本館(高里役所第一庁舎)に入ったところで、高瀬は、「あ」と声を漏らす。


「どうしました?」

「俺、今日は身分証持ってねぇっす……」


 地下研究所へ向かう地下鉄駅のゲート前には、強面で屈強な警備員が二人居いて、一般市民が紛れ込まないように見張っている。高瀬は幾度か身分証を忘れた為に、抓みだされた経験者だ。


「今日は大丈夫です。僕と一緒なので」


 スーツジャケットのポケットから首紐を巻きつけたIDカードホルダーを取り出し、首に下げた。ゲートを潜ると、ピピッと音が鳴る。一瞬、警備員の視線が高瀬を射抜いたが、呼び止められることなくゲートを潜れて、高瀬は安堵した。


 階段を下る不揃いな靴音を小さく響かせながら、いつもとは別のホームに降り立った。


「何棟に行くんすか?」

「第零です。此処からだと遠いので、直通に乗ります」


 電光掲示板に視線を向け、腕時計で時刻を確認した霧島は、小さく溜息を漏らした。きっと、暫く電車は来ないのだろう。高瀬は欠伸を漏らしながら、周囲へ視線を泳がせた。


 誰も居ないホームは薄暗く、目に付いた数少ない広告ポスターはどれも、大きな両刃斧を軽々と担いだ筋骨隆々で逞しい上半身を晒している強面の熟年男性(いかにも数々の死線を乗り越えてきたと言わんばかりの古傷が浮ぶ褐色の肌をしている)が、凛としたポーズ(バストアップ、全身など計六種類くらいバリエーションがある)をきめている。


「なぁ、霧島さん。この路線、やけにスポーツジムの広告多くねっすか?」

「スポーツジム……?」


 霧島が周囲を見渡し、小さく笑う。


「確かに、RPG風なスポーツジムの広告みたいですね」


 目尻に浮かぶ涙を拭きながら笑う横顔は、年相応な少年の顔に見える。


「ははっ、苦しい……。あまり、笑わせないでください。笑うのも、疲労するのですよ」

「え。俺、変なことを言ったんすか?」

「いいえ。強いていうなら、誰もが思っているけれど言えなかったことを、さらっと言いました。高瀬さん、素直だから……。あぁ、スポーツジムの広告にしか、見えなくなってきた……」


 ひとしきり笑い呼吸を整えた霧島は、落ち着いた声音で言う。


「でも、本国では発言に気をつけて、くださいね。あのポスターに映っているの、ヴェルダン皇帝ですから」

「え、皇帝自らスポーツジムの宣伝をしてるんすか‼?」


 高瀬は目を丸くして、ポスターを再度見た。


「一旦スポーツジムを忘れてください。アレは、ヴェルダン皇帝を称える為のポスターなのです。此の路線は、皇帝が視察に来る時によく使うから、目に見える場所に設置してあります。式典の時くらいしか公の場に姿を見ないから、顔に覚えがなくても仕方ないのでしょう」

「へぇ……。じゃあ、ポスターの鼻の穴に画鋲を刺したり、落書きするのはよくねぇっすね」

「そうですね。皇帝のポスターでなくとも、掲示物破損はやってはいけない事ですけど」


 言いながら、霧島は腕時計を確認する。


「そろそろ来ますね」


 霧島の発言から一拍遅れて、ホームに機械音声のアナウンスが流れた。遠くに見えた電車のライトが、あっという間に近くに見える。


「っ……――」


 ふと、視界の端で霧島の姿が揺れた。身体を支えようと一歩踏み出した足は膝から崩れ、反射的に踏み出したであろうもう片方の足も身体を支えるには力が足りず、支えを失った霧島が覚束ない足を縺れさせながら黄色い線を越え、バランスを崩した片足がホームの縁を踏み外した瞬間、高瀬は既視感に満たされた。


 汽笛が鳴り響き、ハッとした高瀬は慌てて霧島の左腕を掴んで引き寄せ、反動で尻餅を着く。


「霧島さんっ⁉」


 腕に抱いた霧島は、瞼を閉ざしてぐったりしており顔色が酷く悪い。暫くの間、声を掛けながら頬をペチペチ叩いていると、「ん」と小さく音を漏らして瞼が開いた。


「霧島さん、大丈夫っすか⁉」


 キイィィィ……。とブレーキ音を響かせながら停車した一両編成の電車は、ドアを開いて二人が乗るのを待っている。


「……大丈夫です。電車、来ましたね。行きましょう」


 立ち上がった瞬間に膝から崩れた霧島を抱き留めた。スーツ越しに感じる華奢そうな肩は、単発的で忙しない呼吸を繰り返している。


「やっぱ、今日はいいっす。霧島さん、休んだ方がいいっすよ」

「大丈夫です。其れよりも、高瀬さんは電車に乗って、先に行ってください。僕の代わりは他にも居ますので、事情を伝えれば誰かしらが対処してくれます」

「んな、体調悪い人をこんな所で放置できるかっつの‼」


 高瀬は霧島を丁寧に抱き上げた。


「うっわ、軽っ‼ 霧島さんって、着やせするタイプっすね」

「…………」

「医者の不養生なんて、笑えねぇっすよ?」

「…………」

「あれ? 言い返す元気がねぇって、相当じゃねぇっすか‼」


 ふと目に付いた待合室へ駆けこんだ。


 誰も居ない待合室の奥に在る木製のベンチに、そっと霧島を横たわらせ、高瀬は自販機へ走る。ペットボトルの水とリンゴジュースを買って、踵を返した。


「霧島さん」

「…………」


 気怠そうに瞼が開く。


「薬とか、持ってるっすか?」

「…………」


 首が小さく横に振られた。


「霧島さん、どっちが飲みやすいっすか?」


 ペットボトルの水とリンゴジュースを見せると、霧島はのっそり上半身を起き上がらせた。小さな声で、「リンゴジュース」と呟いたのでキャップを取っり、口へと運ぶ。ほんの少し啜っただけで、高瀬の手をやんわりと押し返した。


「ありがとう、ございます」


 伏し目がちな表情は、起きているのがつらそうだ。


「救急車、呼んでくるっす」

「呼ばないでください。少し休めば、大丈夫です」

「でも――」

「大丈夫、です」


 高瀬は口を噤み、数十秒ほど考える。


「こういう事、よくあるんすか?」

「…………」

「本当に、大丈夫なんすね? なんか、デカい病気とかじゃねぇっすよね?」

「……病気では、ないです」

「少し休んだら良くなるんすね?」

「……はい」

「分かったっす」


 高瀬は霧島の隣に座り、ぽんぽん。と太腿を叩く。

「少し寝ていいっすよ。膝、貸すんで」


「結構です」

「ガキが遠慮するもんじゃねぇっすよ‼」


 霧島の頭を肩に寄り掛からせた。


「ヴェルダンでは、十六歳から成人です」

「実際、十六なんてだいたいガキっすよ。十七も変わんねぇです」

「……少しだけ、お借りします」


 不貞腐れながら言い、高瀬の太腿に頭を乗せるように体勢を変える霧島。自分で言ったものの、素直に横になったことに内心で驚いた。


「…………」

「…………」


 どれほど沈黙した頃だろう。穏やかな寝息が聞こえてくる。


「……霧島さん?」


 声を掛けるが反応がない。何気なく、霧島の顔に掛かる長めの前髪をどかした。


「綺麗な顔してんなぁ……」


 見下ろす横顔は鼻筋が通り、睫毛が長い。薄めで形の良い唇も、良質な陶磁器のように滑らかな白い肌も、みれば見るほど人形と見間違うような無機質さも、霧とよく似ている。


「…………」


 とても静かな時間が流れる中で、高瀬は霧島が落ちそうになった時に芽生えた既視感に意識を向けた。


「……っ――」


 酷い痛みが、高瀬を襲う。心拍が上昇し、通常の呼吸では息苦しく感じはじめ、必然的に浅く短い呼吸を繰り返す。そうしている内に、痛みは更に激しさを増して、高瀬の視界をグニャリと歪ませた。


「クソッ……‼」


 苛立ちを噛み殺しながらスウェットパンツのポケットから薄型の携帯電話を取り出し、前田に掛けた。三回ほどコールして、『もしもし~』とのんびりした声が応える。高瀬が事情を説明すると、二つ返事で通話が切られ、十分以内に美しい青年が待合室へ入って来た。


 闇色のスーツを着崩すことなく纏った二十代半ばくらいで、尻を余裕で隠す長さのあるくすんだ白銀の髪を高い位置で一つに結った冷ややかな美貌が無機質な青年は、涼し気な緋色の虹彩を高瀬に向ける。


 眼前に立つ、自販機よりも背が高そうな青年を見上げると、表紙付きのクリップボードを差し出され、「落ちていた。お前のか」と尋ねられた。霧島から貰ったクリップボードがいつの間にか手元にない事に気付き、高瀬は「あざっす」と言い、受け取る。


「霧島」


 冷ややかな美貌の青年は片膝を着き、霧島の頬を片手の示指で、ツンツン。と突っつくも反応がない。


「世話を掛けたな」


 そう言いながら霧島を腰だめに抱え、立ち去ろうとした背に「待ってくれっす‼」と声を掛けた。肩越しに振り返る冷ややかな美貌の青年がもつ緋色は、感情が読めず、縦長気味の瞳孔に薄っすらと恐怖さえ感じたが、高瀬はジッと見返して口を開く。


「霧島さん、具合が悪いんすよ。だから、もっと丁寧に運んでやってください」

「…………」


 見つめ合い、妙な沈黙が流れた。


「……お願いっす」

「…………」


 冷ややかな美貌の青年は溜息を漏らし、お姫様を抱くように霧島を抱え直し、待合室を去って行く。


 一人残された高瀬は、いつの間にか頭痛が治まっているのに気付き、安堵の溜息を漏らしてうな垂れた。直ぐに動く気にもなれず、クリップボードの表紙を開き、兄の写真に視線を向ける。


「兄貴……」


 高校生の頃から付き合っていた彼女と喧嘩をして、落ち込んでいた兄の顔を思い出す。励ましの言葉が見つからず、ただそっと抱き締めて、茶色の髪を撫でた日に高瀬は自分の気持ちに気付いてしまった。其の所為で、兄を傷付けた彼女が許せなかったのだ。婚約者という立場でありながらも、他所で別の男と繋がっていた彼女が許せなかった。


「っ……‼?」


 階段の角に頭を打ち付けたような、一瞬だけ目の前が明るく光るような頭痛に襲われる。其れはやがて嘔気を呼び起こし、高瀬の呼吸を乱していく。




 ふと脳裏によみがえる過去の光景。


 高校の制服姿の高瀬は駅のホームに立ち、兄に対して怒りの矛先を向けていた。


『どうしてあんな女と‼』

『彼女が悪いわけではないよ。俺が、不甲斐ないだけ』

『婚約なんて、親がかってに決めた事だろ⁉ 兄貴ばかりが存する事はねぇだろ‼』

『家の為、だよ。俺が彼女と結婚すれば、彼女の家から支援してもらえるし、父さんの仕事も配慮してもらえる』

『こんなの理不尽だ‼ なんで兄貴ばっかりが――』

『…………』


 悲しそうな顔で、兄は高瀬を見ていた。否、実際は向かい合ったホームに居る、見知らぬ男と腕を組んでいる彼女を見ていたのだろう。だから高瀬は、兄の前に立っていた。少しでも視線を遮れたならと願っていたから。少しでも立ち位置がずれてしまえば意味がないと、此の時の高瀬は考えもしなかった。


『見るな』


 せめてもの抵抗と言わんばかに、兄を抱き締める。


『明彦は甘えん坊だなぁ……。そろそろ兄離れ、しようね?』


 電車の到着を告げるアナウンスが流れた。


『そろそろ電車が来るね』


 兄は高瀬を避けて、黄色い線まで歩む。


『なんで、俺じゃダメなん……?』


 感情がポツリと零れ落ちた。


『あんなクソビッチなんか、吐いて捨てるほどいるのに。なんで――』



―― 手に入らないくらいなら、いっそこの手で……。 ――



 けたたましいブレーキ音がホーム全体に響き渡る。ドンッ‼ と砂袋が地面に落ちたような鈍い大きな音が聞こえ、耳を劈くような女の悲鳴があがった。


『人が落ちて轢かれた‼』

『誰か駅員呼んで‼』

『早く救急車‼』


 そんな光景を、高瀬はただ茫然と眺めている。


「嘘、だろ……?」


 高瀬の視界が涙で滲む。


「嘘だ。嘘だ、俺……俺が……?」


 視線を落とした両掌が、震えている。


「俺が兄貴を……――」


 高瀬は意識を手放した。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 目が覚めると、見知らぬ天井が視界に映る。天井を走るレールに沿って空間を囲むカーテンが、微かに揺れた。


「失礼します」


 そう言いながら入って来たのは、薄い銀フレームの眼鏡をかけた中性的な美貌に薄っすらと憂鬱を浮かべた霧島だ。白衣を纏っているので、仕事中なのだと判断した。


「体調は、良くなったんすね」

「僕の事は、どうでもよいです。高瀬さん、気分はどうですか」

「どうでもよくねぇだろ。霧島さん、医者なんだし」

「今は、貴方が患者です」

「霧島さんって、外科医っすよね? わざわざ俺に、会いに来てくれたんすか?」

「貴方のカウンセリングは、僕の担当だから……此れも仕事の内です。脈、測らせてください」

「うっす」


 高瀬が布団から右腕を出すと、「失礼します」と言って霧島の冷えた指先が橈骨動脈(トウコツドウミャク)に触れ、腕時計の秒針に視線を落とす。短い間なのに長く感じた沈黙の中で、左右の脈を確認し終えた霧島は、表情を緩めて口を開く。


「大丈夫そうですね。……高瀬さん、六日も眠っていました。目立った外傷はないし、検査をしても異常が見当たりませんでした。ストレスが要因かと思われます。僕と別れた後に、何かありましたか。お兄さんの事で何か思い出した、とか」

「…………」


 反射的に顔を逸らした高瀬は、言葉を探す。


「……すんません。落ち着くまで、時間が欲しいっす」 

「分かりました。今日は、泊まっていってください。明日、再検査をして異常がなければ、帰ってもらって大丈夫です」

「あざーっす。……いてて、腹が……」

「腹痛ですか? どの辺が痛む――」

「腹が減り過ぎて、胃が痛てぇっす……」

「…………」


 霧島は深い溜息を漏らし、白衣のポケットからチョコレートバーを取り出した。


「差し上げます。少しは腹の足しになるかと」

「あざーっす‼」

「食事まで、あと三時間ちょっとですね。うちのは本館の食堂と同じなので、美味しいですよ」

「へぇ、そりゃあ楽しみっすね‼」

「何かあったら、呼んでください」

「うっす。お疲れ様っす」

 会釈を残して去って行く霧島の背で、一本に纏められた長い黒髪が揺れる。

「…………」


 高瀬は天井を見つめた。


 兄の背を突き飛ばし、低速の電車と兄がぶつかった時の鈍い音が鮮明によみがえる。あの後、高瀬は雑踏の中で意識を手放した。


「…………」


 トクン。心臓が跳ねて、反射的に片手で服の胸元を握りしめる。

 次に目が覚めた時は病院で、軍警が事情を聞きに来た時、既に記憶は消えていた。


「…………」


 トクン、トクン、トクン。心拍が速くなっていく。


 あの日、二人は監視カメラの死角に立っていたそうだ。人が疎らのホームでは誰もが他者に関心を向けず、手にした携帯電話に意識を向けていた。故に、目撃情報が一切なく、数日後に自殺として処理された事をニュースで知る。


「…………」


 高瀬はずっと、忘れていた。夜な夜な魘され、「兄ちゃん、兄ちゃん」と繰り返しながら屋敷中を徘徊していた事を。そんな高瀬を、最初こそ気に留める者が居たが、気付けば病棟に閉じ込められていた事を。


「っ……‼」


 激しい嘔気に襲われ、飛び起き、ベッドサイドから床を覗きこむ。


「うっ……う゛ぇっ……」


 行動が制限された日々の中で、薬と共に過ごし、与えられた教材で勉強を繰り返す。夜になれば、徘徊しないように拘束帯でベッドに括りつけられ、悪夢に魘される。


「っ、う゛うっ……」


 開けっ放しの口から垂れる唾液に構う暇はない。ビクッと跳ねた胃がひっくり返るような感覚に襲われ、噴門がギュッときつく締まるような痛みを感じた。


「はっ、ぁ……っ、おぇ……」


 時計も窓もない空間で、定期的に運ばれる食事は不味かった。今が朝か、夜かも分からない儘にどれほどの時を過ごしただろう。


「っ……」


 胃酸が食道を駆けあがり、焼けるような不快感が込み上げた。口の中に広がる強い酸味が、更に嘔気を誘発する。


「失礼しまーす。大丈夫ですか?」


 若そうな女性の声が近付いてきて、カーテンを開けた。


「高瀬さんっ‼?」


 看護師と思われる女性が、ナースコールのボタンを押す。


『はい、どうされました?』

「至急‼ 霧島先生呼んで‼」


 温かい手が背中をさすった。



 どれほど、えづき続けただろう。何度、胃液を吐き出しただろう。もう何も出すモノがなくなったのに、胃はビクンと跳ねて不快な痛みと胸焼けを齎した。

 慌ただしい足音が近付いてくる。


「高瀬さん」


 落ち着いた、若い男の声だ。


「あぁっ‼ 先生、そこ踏みます‼」


 看護師の声の後に、クチャ。と湿った音が小さく聞こえた。


「っ、う゛っ……う゛ぇっ……」


 思うように呼吸が出来ず、涙で滲む視界で眼前に立つ霧島の姿を捉えた。

 否。中性的な美貌こそぼやけてよく見えないが、明らかに髪の色が違う。


「き、り……?」

「はい。……ごめんなさい。余計な負担を、かけてしまいましたね」


 白衣のポケットから取り出されたハンカチで、頬を拭かれ、口周りを汚す唾液を拭かれる。


「もう少し、休みましょう」


 チクッと首筋に痛みが走った。グニャリと歪む視界。瞼が重くなり、意識が朦朧としていく。身体を支えることが出来ず、高瀬が前のめりに倒れると、薄い胸板に抱き留められた。


「お休みなさい、高瀬さん」


 トクン……。トクン……。穏やかで、どこか弱々しい鼓動が小さく聞こえる。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 近くて遠い場所で、話し声が聞こえた。


 単語の一つ一つを聞き取る事はできない。


 どちらもよく似た落ち着いた声音だが、片方が強い口調で喋っている。


「怒鳴らなくても、聞こえています」

「別に怒鳴ってなんか……」

「霧島。貴方の負担になるようなら、担当から外す事も可能です」

「お構いなく。僕は霧君と違って繊細じゃないからね。でも、僕の負担を考えてくれるなら、他の業務を減らしてほしい」

「人員を増加するまで、もう少し頑張ってください。期待しています」

「…………」


 霧島が沈黙していると、「そろそろ薬の効果が切れる頃合いですね。此の話は、お仕舞いです」と言い残して足音が一つ、去って行く。



「……霧島、せんせ……?」


 高瀬はのっそり上半身を起き上がらせた。ぐらりと視界が揺れ、咄嗟に片手で頭を押さえながら、深呼吸を数回繰り返す。


「今日はもう終業したので、先生ではないです」


 銀フレームの薄い眼鏡をかけた、細いストライプがはいったグレーのスーツ姿の霧島は、白衣を着ていない。


「お疲れ様っす……」

「気分はいかがですか」

「まだ、ボーッとするっす」

「脈を測りましょう」


 霧島が引き寄せたサイドテーブルに、高瀬は右腕を乗せた。高瀬の撓骨動脈に、霧島の冷えた三本の指先が触れる。左腕の脈も測り、サイドテーブルを端に除けながら「問題なさそうですね」と口にした。


「酷い顔をしています。大丈夫、ですか」

「…………」


 高瀬は視線を膝の上に置いた手に落とす。


「僕に言い難いのであれば、前田さんにでも――」

「俺が、殺したんすよ。兄貴……」


 高瀬が紡ぐ声音は、酷く震えた。


「俺ね、兄貴に彼女が出来た時、嫉妬した。親父さんが決めた婚約者だって知って、発狂しそうだった」


 霧島はベッドサイドに座り、高瀬の声に耳を傾ける。


「高瀬の親父さん、第二種貴族じゃねぇっすか。だから、第一種貴族の彼女の家より不遇で……。兄貴の婚約が決まったのだって、家の為で……」


 深い溜息が漏れていく。


「でも、俺そんな事情知らねぇから、兄貴以外の男とホテルから出てきたあの女に詰め寄って、責めて……殴った事があったんすよ。でも、兄貴は誰も責めなかった。自分が背負えばいい事だから、って」


 ギュッと布団を握りしめた。


「あの女は、兄貴の事なんか下僕程度にしか思ってないのに、兄貴の心があの女にある事が許せなくて……」


 高瀬の視界が滲む。


「兄貴を愛しもしない女に取られるくらいなら、って。俺……自分の感情を処理しきれなくて、気付いたら兄貴の背中、押してて……」


 大粒の雫が頬を伝い、顎先から落ちていく。


「苦しい……。こんなつらいなら、忘れた儘でよかったっすね……」


 嗚咽が漏れる。


「忘れたいですか」


 静かな声音が言う。


「あんなにも、お兄さんの事を思い出したがっていたのに。忘れていた事を悔やんでいたのに、もう一度、忘れたいですか」

「…………」


 高瀬は口を噤む。ただ、逃げたいだけなのだ。重く圧し掛かる罪の意識から。感情をコントロールできない、幼稚な自分に対する嫌悪から。其れ等から逃げる為には、再び記憶を手放すより他にない。


「忘れたいですか。貴方にとって、大切な人と過ごした記憶を」

「……酷でぇっすよ、霧島さん。前は、あんなに思い出さなくてもいいみたいなこと、言っといて。今度は、俺につらい過去を背負えって言う。なのに、知ってる事は何一つ教えてくれねぇから、俺ばっかりがモヤモヤして……」

「罪を自認し、背負うからこそ、許しを得るチャンスを与えられるのです」

「それって、どういう事っすか? 俺、難しい話しはちょっと……」

「貴方が望むのなら、罪滅ぼしの機会を与えましょう」

「法で裁かれるって事っすよね?」

「此処はヴェルダンが所有する箱庭ですが、本国ではありません。貴方の罪を責める者は、誰一人としていないのです。居るとするならば、其れは貴方から謝罪されるべき被害者、唯一人」


 ハッとして高瀬は霧島を見る。眼鏡のレンズ越しに見た黒曜の目は穏やかだが、哀れみにも似た色を浮かべている。


「そっか。兄貴が死んだってニュースは、嘘だったんすよね。だって兄貴は、箱庭に居る……」

「お兄さんに、会いますか」

「……会うのが怖いっす。俺、どんな顔して会えばいいっすかね……?」

「僕には、分かりません。……こんな時に、貴方にかける言葉も」

「なんて言われたら慰めになるのか、俺にも分かんねぇっす」


 高瀬は笑う。いつもと違って、微かに頬が引き攣るような気がしたが、ニカッと歯を見せて笑う。


「お兄さんとの面会は、焦らなくて大丈夫です」

「……兄貴は、俺が箱庭に居るって知ってるんすか?」

「…………」


 霧島は押し黙る。


「深く突っ込まねぇから、教えてほしいっす」

「……貴方が箱庭へ来ることが決まった時、お兄さんには知らされていたそうです」

「そうっすか。……もう寝るっす」

 横になった高瀬は胎児のように丸くなり、霧島に背を向けた。

「薬、必要ですか」

「大丈夫っす。もう、どうでもいい」

「そうですか」


 霧島は立ち上がる。


「では、僕は此れで」

「最後に一つ」

「何ですか」


 霧島は振り返り、高瀬の背に視線を向けた。


「誘拐された時、アイツが……俺の親父が言ってたんすよ。『久世の実験体は、どの国も喉から手が出るほどに欲しがっている』って。俺は、何なんすか?」

「高瀬さんは、高瀬さんです」

「……そうっすか……」

「では、失礼します」


 足音が遠ざかって行く。高瀬は溜息を漏らし、瞼を閉ざした。


 どっと押し寄せた疲労感に押し潰されながら、眠りへ落ちていく。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 翌日。深い眠りから覚めた高瀬は、再検査を受けてから寮室へ戻った。シャワーを浴びてから、大好きなロックバンドのロゴとマスコットキャラが描かれたスウェットスーツに着替え、鼻歌まじりに髪を逆立てながらセットして、昼過ぎに出勤した。


 研究室に入るなり、歩み寄ってきた前田が「おはよ~、高瀬君」と穏やかに笑いながら、蓋の空いた箱を差し出してきた。指先ほどの大きさをしたホワイトチョコレートが沢山入っている。


「はい、コレ。食品専門の第伍研究棟と、美容関係に特化した第肆研究棟が合同開発した、ダイエット用のチョコレートだよ~。掲示板の張り紙からバーコード読み取って、アンケート記入してあげてねぇ」

「うっす……」


 高瀬は掲示板の前に立ち、該当する張り紙に記載されていたバーコードを薄型の携帯電話で読み取りながら、一粒のホワイトチョコレートを口へと放り込んだ。まろやかなチョコレートの中に漂うシナモンも、ほんのり香るラム酒も、大粒レーズンの果肉を噛み千切った時のねっとりした甘さも、苦手な高瀬は顔を顰めた。


「ところで、高瀬君。今日はパチパチキャンディみたいだねぇ?」

「テンション上げようかなって」

「何かあったの~?」

「いや……。なんか、俺自身頭ん中がごちゃごちゃしてて、感情の変化がうっとうしいっつーか、気分が滅入ってるんすよねぇ……。それもまたうっとーしくて、好きな物から栄養を補給してるとこっす」

「そっか~……。僕には、言い難いかなぁ?」

「そういうわけじゃ……。まぁ、ほら‼ 今日はテンションアゲアゲなんで‼ 本当は、がっつりメイクもしてきたかったんすよ。カラコンと眉毛ていどで我慢してきたんで、褒めてほしいくらいっす‼」


 高瀬は、「ほら‼」と言いながら前田の目を覗きこむ。


「高瀬君の深みがある蜂蜜みたいな目も好きだけど、その色も良く似合ってるよ~。オオカミみたいでかっこいい」

「あざーっす」

「高瀬君が楽しそうだと、僕も楽しくなっちゃうね~。あ、そうだ。今日はねぇ、第参研究棟の医術部門と医療機器開発部立ち合いで、医療機器の臨床試験をやるから高瀬君に行ってきてほしいなぁ~って、考えてるんだけど……どうかなぁ?」

「第参研究棟って、片倉さんが居るところっすよね?」

「うん、そうだねぇ」

「会えるっすかね?」

「参加者リストに片倉さんの名前は書いてなかったよ~」

「なにかしらねぇっすか? 連絡が取れねぇんすよ」

「う~ん……残念だけど、管轄じゃないから片倉さんの事までは、分からないなぁ」

「そうっすか。……ねぇ、前田さん。片倉さん、箱庭に来た時に、久世の事をすげー怖がってて、消されるかもしれないとか言ってたんすよ。まさか、知らない内に消されたなんて事、ねぇっすよね?」


 高瀬は縋るように前田を見る。


「船での事は、もう終わった事だから誰も気にしてないと思うよ~? 被害者本人が赦したんだもん。大丈夫だよ、高瀬君。きっと忙しいだけだと思うよ~。才蔵もねぇ、ここ最近は『地味に忙しすぎて夜に寝れない‼』って鬼のような形相だったもん。おっかなかったなぁ……」


 明後日の方向を見ながら溜息交じりに言った。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 終業時間と共に、高瀬のテンションは地へ落ちた。寮室に帰る気にもなれず、薄っすらと茜色に染まる森林公園内を当てもなく彷徨うことに。


 いつもなら犬に散歩させられている人や、飼い主を振り切って悠々闊歩している犬などがいる遊歩道は、こんな日に限ってすれ違う人はなく、日暮れの切なさがやけに沁みる。


「…………」


 時に溜息を漏らしながら足の向く方へ歩き続け、針山を彷彿する形状の枝に小さな葉と桃色の花を咲かせた木が密集する場所を見つけた。木製の案内板は、すっかり文字が掠れて読めないが、高瀬は吸い寄せられるように先へと進む。


 遊歩道を歩く人影はまばらで、足を止めて花を眺める者は誰も居ない。五枚花弁の先端が尖がった花は梅とは違い、触れそうなほどに鼻を近付けてようやく微かな香りを感知できるほどに弱く、桜の華やかさと比べれば見映えに劣る。だが、もっさりして優しい雰囲気のある花だ。


「…………」


 周囲を見渡し、なんとなく目についた東屋へ向かう。



 ベンチに腰をおろして、一息吐きながらぼんやり遠くを見ていると、オレンジ色の繋ぎ姿で同色のフードをかぶっている清掃員が、ブロワーで遊歩道の桃色の花弁を吹き飛ばしているのが視界に映る。時に周囲を窺い花弁を舞い上がらせて遊ぶ姿は楽しそうで、口を開けば溜息ばかりが漏れていく。


「はぁ……。何やってんだろ、俺」


 言葉で言い表せない感覚は虚無を生み出した。


「……片倉さんなら、何か知ってたりしねぇかな……」


 スウェットのズボンのポケットから薄型の携帯電話を取り出し、視線を落とす。発信履歴はかなり前で、高瀬が送ったことを忘れていたメールも返事は来ない儘。高瀬は新規でメールを作製することに。


―― 『お久し振りっす、片倉さん。

    片倉さんの味噌汁が恋しいっす

    手が空いたら、連絡ください』 ――


 ふと、自分ばかりが片倉に懐いているような気になって、不安に満たされる。片倉は親切にしてくれるが、心の奥底では疎ましく思われていたのかもしれない。ほんの一瞬でもそう考えてしまえば、高瀬の中で不安が一層膨らんでいく。


「やめとこう」


 一息吐き吐いた時だった。


「あれ~? 高瀬君?」

「ひぃっ‼? ……あああっ‼」


 ビクッと肩を跳ねらせた拍子に、スマホを放り投げてしまった高瀬は慌ててキャッチしたが、はずみで送信ボタンを押してしまい絶句する。


「ご、ごめんねぇ……」


 戸惑いを浮かべた聞き覚えのある人懐っこい声に視線を向けると、リュックサックを背負った白いワイシャツの袖を捲ってほんのり汗ばんだ前田が立っていた。片方の手に持ったハンカチで頬を濡らす汗を拭き、もう片方の手には花束を大事そうに抱えている。


「僕も、休んでいっても、いいかなぁ……?」


 ゼェハァと息を乱しながら言う前田の紅葉する頬。小刻みに弾む肩。よく見ると、白いワイシャツには薄っすら汗が滲んでいる。「どうぞ、どうぞ」と、高瀬はベンチへ促した。

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箱庭の楽園-外伝 壱- 柊木 あめ @hakoniwa_rakuen

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