02_3週間後のある日の休日

 とある休日の早朝。


 高瀬は大好きなV系バンドがデザインした、痛々しくも派手なスポーツウエアに着替え、食休みを挟んでから待ち合わせの為に寮のエントランスへ向かうと、美味しそうな焼肉の写真が背面にプリントされた蛍光色が明るい緑のジャージに、牛タンのプリントが施されたタオルを首に引っかけた前田が居た。



「おはようございます、前田さん。どこで買ったんすか、ソレ……」

「あ、おはよう高瀬君‼ えへへぇ~……コレねぇ、自作なんだよぉ‼ スニーカーはねぇ、上カルビなんだぁ~」


「ほら見てぇ~」と幸せそうな笑みが浮かぶ。


「へ、へぇ……美味そうっすね‼」

「でしょでしょ~‼ 肉々しい者同好会のホームページで売ってるから、あとで見てみて? 高瀬君には特別に割引のシリアルナンバー、教えちゃう‼」

「あ、あざーっす……」


 流れる動作でSNSを経由でシリアルナンバーが送られてきた。




 他愛ない会話をしながら森林公園に場所を移すと、既に何人かの住人達が遊歩道でジョギングをしており、犬に散歩させられている者や、自身のリードを咥えて散歩をしている犬が視界を横切って行く。


「先ずは軽い運動をして身体を――」


 言いながら視線を前田に向け、高瀬は語尾を濁らせる。


「大丈夫っすか、前田さん……」

「だ、だいじょぶ……。はぁはぁ……。先ずは、はぁはぁ……。運動。だっけ? おけおけ……。はぁはぁ……」


 膝に両掌を着いて前屈み気味になりながら息を切らす前田は既に汗まみれで、本人はサムズアップと共に爽やかに笑っているつもりなのだろうが、表情に浮かんだ疲労の所為で梅干しのようにしわくちゃだ。高瀬の胸は申し訳なさに締め付けられた。 


「……あ。そうそう、霧島さんから脂肪の燃焼を助けるサプリを貰ったんだぁ。水無しで呑めるんだって‼ 呑まなくちゃねぇ……」


 いそいそとポケットからピルケースを取り出して、錠剤を2錠、掌に置いた。


「……そんな胡散臭そうな目で見ないでよぅ……。霧島さん、元々製薬部門に居たんだよ‼ 高瀬君が僕の為にダイエットを手伝ってくれるって言ったら、急いで僕の為に叡智と技術を集結した新しいサプリを作ってくれたんだぁ‼ しかも焼汁苑のタレ味‼」

「霧島さんも、前田さんを痩せさせたくて必死なんすね……」


 高瀬は疲労を浮かべているであろう霧島の顔を、ぼんやり思い出す。



 しっかり身体を解した2人が走り出した頃、ジョギングしている人の姿はポツリ、ポツリと減っていく。


「た、高瀬君、速い……」


 軽快な走りをみせる高瀬を、ドシン、ドシン。と重たい足音を響かせながら追い掛けている前田の呟きは誰にも届かない。


 何気なく肩越しに振り返った高瀬は思わず立ち止まり、前田が地面を踏み締める度に、ブルンブルンと無雑作に揺れる乳房に視線を奪われた。ジャージの上からでもハッキリわかる、2つの豊かな肉の山。いつの日かに弄った感触を思い出し、片手で軽く頬を叩いて意識を現実へ引き戻す。「あそこの自販機まで行ったら休憩っすよ‼」と、その場で足踏みをしながら高瀬は声を掛けた。


「はぁはぁ……。え? はぁはぁ……。いいの……?」

「継続させる為っす。それに脂肪が燃焼され始めるのは、運動を始めてから大体30分から1時間後っすから‼ 最低でもそれくらいは走ってもらわないと‼」

「うぅっ……。はぁはぁ。よぉし、頑張、る、ぞぉ~‼」


 前田は豊かな巨体を揺らし、ドシン、ドシン、駆けて行く。


「1メートル先にハラミ‼ 2メートル先にスペアリブ‼」


 前田の独り言が耳に届いた高瀬は、聖母のように穏やかに微笑んだ。




 どれほど走った頃だろうか。前田は全身の毛穴から汗を垂れ流し、走る速度が更に減速していった。騙し騙し走り続けてはみたが……。


「も……ダメ、だ……」


 ドサッ。と鈍い音が聞こえて、高瀬は肩越しに振り返る。


「前田さんっ!?」


 高瀬は来た道を慌てて引き返し、前田の上半身を起き上がらせようとしたがびくともせず、諦めて顔を覗きこみながら頬をペチペチ叩く。


「しっかりしてください‼ 前田さん‼」

「うぅ……? あれ? おかしいな……。フライドチキンが、高瀬君に見える……」


 そう言って力なく笑う前田の表情は、どこかやつれて見えた。


「最初から高瀬っすよ‼ フライドチキンじゃねぇっす‼」

「イフェリコ豚のブーブートリプルチーズバーガー、食べたいなぁ……。あ、高瀬君、ギルダ大陸のブランド豚のイフェリコ豚、食べた事ある? 歯が食い込んだ瞬間にねぇ、澄んだ肉汁がダム崩壊のように溢れ出して喉を潤してくれるんだよぉ……。牛肉に負けず劣らずの肉々しさだけどさっぱりしていてねぇ、食べやすくてねぇ、美味しくてねぇ、食べごたえがあって満足感もすごいんだぁ……‼」


 嬉しそうな口調とは裏腹に、前田の声に覇気がない。


「ギルダ大陸のブランド豚だから、基本的にギルダ大陸だけにしか出回っていないんだけどねぇ、かなり手間の掛かる手続きを踏めば輸入できるんだよぉ。それでねぇ、なんと、ここ箱庭でも食べられるんですよぉ‼ 霧君が上にかけあってくれたお陰でねぇ――」

「霧……?」


 すっかり忘れかけていた名前を、高瀬は繰り返す。


「Biancaって名前の喫茶店があってねぇ、数量限定で――」

「霧‼ 霧、元気なんすか? 船以来、見かけてねぇんすけど」


 高瀬は前田の言葉を遮って問い掛ける。


「えぇ? ああ、霧君は――」

「どうされました?」


 不意に聞こえた落ち着いた声音に、高瀬の肩がビクッと跳ねた。


 肩越しに振り返ると、中性的な美貌が静寂を湛えた霧島(薄い銀フレームの眼鏡をかけ、濃紺のジャージ姿で黒の長髪は高い位置で一本に纏めている)が、スカイブルーの虹彩が美しく毛足の長い白猫(中型犬と見間違う大きさをしている)を繋いだ赤いリードを片手に立っていた。


「その声は、極上鳥ガラの霧島さんだぁ……‼」


 ジュルリ。と前田が唾液を啜る。


「悪かったですね、肉付きが悪くて」


 溜息交じりに霧島が返す。


「だって霧島さん、食べるところが内臓くらいしかないよねぇ……。それに比べて、高瀬君の若い筋肉は霜降りだよぉ‼ 特上クラスの霜降り肉だよぉ……‼」


 とろけそうな笑みを浮かべる前田の眼差しは輝いている。


「高瀬さんがAランクの霜降り肉なら、前田さんはバラムツですね」

「ふっ、ふっ、ふっ……。霧島さん、甘いよぉ。グラブジャムンよりも甘々だよぉ。 バラムツはねぇ、食べる量を見誤らなければ刺身で食べられるんだよぉ。大トロみたいで美味しんだぁ‼ 食べ物で僕を罵ろうなんて、霧島さんにはまだ早かったようだねぇ~」


 勝ち誇ったように前田は笑う。


「……本題に入りますけど、邪魔なので退いてもらえますか。道のど真ん中ですよ」

「あ、さーせん……」


 高瀬がペコッと頭を下げる。


「高瀬さんに言っていません。そちらの無駄肉に言っています」

「もう動けないよぉ……」

「……高瀬さん、手を貸してもらえますか」

「あ、はい」

「僕は足を持ちます。高瀬さんは脇に腕を通して、上半身を持ってください」

「うっす‼」


 言われた通りに動く高瀬だが、結果は一目瞭然だ。


「あー……。霧島さん、俺達には持ち上げられそうにないっすわ。手首や腰を痛める前に、人手を集めましょう‼」

「……そうですね」


 霧島の同意を得て、高瀬は大きく息を吸い込んだ。


「誰か手を貸してください‼ 人が倒れてるっす‼」


 声を張り上げると、どこからともなく人が集まってきた。事情を説明した途端、前田を見た者達は誰もが自信なさそうに顔色を曇らせる。


「あ~……。背中が焼けるぅ~……」


 大の男が8人いても完全に前田を持ち上げる事はできず、地面に背中を擦りつけながら運ばれた前田は、焼肉の気持ちに思いを馳せた。霧島と高瀬は手を貸してくれた人達に礼を述べ、誰も居なくなったところで霧島が口を開く。


「高瀬さん、此の後はどうされますか」

「え? あぁ……もう少し走ってから帰るっす」

「分かりました。では、贅肉には僕が付き添うので、走ってきてください」

「え。でも……」


 高瀬はベンチの手前に横たわり蒼褪める前田と、霧島と中型犬くらいの大きな猫を交互に見る。


「ずっと霧島さんを立たせるのは、なんか……貧血で倒れそうで気が気じゃないっつーか……」

「僕は外科医ですよ、医者は体力がないと勤まりません。今バラムツを捌けば、体力がある証拠になりますかね?」


 霧島は綺麗な笑みを浮かべているが、前田を見る目は深い闇を湛えていた。


「あ、こら。エリザベーテ、食べ物ではないですよ」


 エリザベーテと呼ばれた大きな猫は、煌々した眼差しで前田の片腕に喰らいつく。


「あぁ、痛い。痛いよぉ~。やめてよ~」

「うにゃうにゃうにゃうにゃうにゃ」

「バラムツじゃないよぉ~」


 前田は猫にじゃれつかれて嬉しそうな顔をしている。


「じゃ、前田さんをお願いするっす‼」


 深々と頭を下げて一礼をした高瀬は駆け出した。


 数十歩ほど離れたところで肩越しに振り返ると、霧島がこちらを見て何か言っているのが見える。だが口の動きが読めるわけでもなく、高瀬は視線を前に戻す。


 一定のテンポを保った呼吸を繰り返し、腕を後ろに引くことを意識して軽快に走り続けていると、「もっと足を上げて‼」と、男性の声が耳に届き、声の方に視線を向けた。原っぱになっているところで中年男性が息子と思われる園児に向かって、両手をメガホン代わりに「もっと腕を振って‼」と声を張り上げている。


「そう、そう‼ その調子‼ ……足が下がってるぞ‼」

「うぅ~~~~~~‼」

「そうだ‼ 上手‼ 頑張れ‼ ゴールは母さんだ‼」


 少し離れたところで、ベージュのワンピースを着た女性が手を振った。


「うぉおおおおおおおおおおおおおお‼」


 男児は雄叫びを上げながら母親目掛けて猛突進。母親はひらりと男児を避けて「おほほほほほ。捕まえてごらんなさぁい!」と走り去す。


「ああああああああああ‼ ゴールは動かないぃいいいい‼」と暮らしがりながら母親を追い掛けるのを眺める父親は、腰に手を当てただただ笑いながら見守っている。


「……居るよなぁ。ゴールなのに動く人」


 高瀬は呟き、口端を緩めた。


「兄貴も、ああやって……――」


 ふと脳裏に浮かんだ原っぱで、高瀬から数十メートル離れた場所で背を向けて立つ短い茶髪の少年は、纏った服装から育ちの良さが窺える。


「……兄貴……?」


 現実と重なる光景で、茶髪の少年がゆっくり振り返ると、ズキン。と脳を刺すような痛みが高瀬を襲う。


「っ――」


 明るい笑い声をあげながら、こちらに手を振る茶髪の少年の顔は黒く塗りつぶされていて、思い出そうとすればするほど頭痛は悪化し、トクン。トクン。と脳全体が脈打つ不快感が加わった。高瀬は思わず眉間に深いシワを刻んで頭を抱え、其の場に蹲る。


「っ、ぁ……くそ痛てぇ……」


 込み上げる嘔気。グニャリと歪み、反転する視界。一瞬感じた、誰かに殴られたような鈍痛は直ぐに頭痛に掻き消され、呼吸が乱れていく。


「頭が、割れちまいそうだ……」


 遠くから聞こえる声は更に遠ざかり、重い瞼が閉じるとあっという間に高瀬の意識は深く沈んだ。



   ◇◇◇◇◇◇◇



ふと気付くと、幼い高瀬は原っぱに立っていた。

 遠巻きに眺める楽しそうな子連れの家族。両親が子へ向ける優しい笑顔。父親が子供を抱き上げて高く放り投げキャッチすると、楽しさを増した子供の甲高い笑い声が響いく。そんな光景を眺めていると、チクリと胸が痛んだ。


『明彦』


 まだ幼さが抜けきらない優しい声に呼ばれて振り返ると、数十メートル離れた場所に立つ、育ちが良さそうな服装をした顔のない茶髪の少年が手を振っている。『徒競走で一位になったら、明彦が欲しがっていたニャッコロプッペのぬいぐるみ、あげるよ』と、茶髪の少年が両手をメガホン代わりに使って声を張り上げると、高瀬の心はあっという間に踊り出し、口元がとろけるように緩む。


『でも――』


 あのぬいぐるみは、茶髪の少年が両親から与えられた物だ。


『ぼくが持っていたら、『またお兄ちゃんの取ったの!?』って、怒られる』


 何度泣きながら違うと訴えても母は聞き入れてはくれず、泣きじゃくる高瀬の頬を叩いて物置部屋に閉じこめた。


『大丈夫。僕が父さんに言うよ。そうすれば、誰も何も言わなくなる。……ほら、おいで。練習の続きをしよう。僕がゴールだよ』


 顔のない少年が両手を広げると高瀬は躊躇したが、物欲に負けて駆け出す。あと数歩でゴールだという距離で、茶髪の少年はニヤッと笑い、踵を返して駆け出した。


『ああ‼ ずるいっ‼』

『向かって来られたら逃げたくなるものだよ‼』


 茶髪の少年は楽しそうに笑う。おちょくられているように感じた高瀬は、むきになって茶髪の少年を捕まえようと腕を伸ばして追い掛け続ける。


『まってよ兄ぃちゃん!』

『早く捕まえてごらん!』


 楽しそうな子供の声が二つ、空気に響く。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 高瀬が次に瞼を開けた時、カーテンレールで仕切られた見慣れない天井が視界に広がった。意識がぼんやりした状態で一点を見つめていると、視界の端から急に現れたふくよかな顔が、高瀬の視界を埋める。


「……あ。気が付いたぁ‼」


 言葉と共に吐き出された息は、ねっとりするように甘い。視界を埋める顔が前田の顔だと気付いた瞬間、高瀬は今が現実だと把握する。


「ち、近いっす……」

「あぁ、ごめん、ごめん。高瀬君、美味しそうな匂いがするから、ついね~。でも、吃驚しちゃったよぉ‼ 急に倒れるんだもん。具合はどう? お腹、空いてない? これ、売店で買ってきたんだぁ~。高瀬君にって思ったんだけど、ごめんね。先に少し味見させてもらっちゃった……。美味しかったよぉ‼

 あ。でもね、また買い直したんだけどさ、小児病棟の女の子が欲しそうにしててさ、そのね、あげちゃったからまた買いに行ったんだけど売り切れちゃってさ。最初に買った残り少ないやつなんだけど……」


 そう言って前田は開封済みの掌サイズの長方形の箱を枕元に置いた。苺チョコレートの甘酸っぱい香料の匂いが鼻孔に届く。


「前田さん、思ったより食い意地張ってないっすよね……。何かと俺にくれるし」


 そう言うと、前田の顔がとろけるように緩む。


「へへっ。美味しい物は平等に分け合ってこそだよ~」

「そうっすね。……前田さん、元気そうでよかった。ごめんなさい、俺――」

「昔の僕はねぇ、今よりもっとスリムで、俊敏だったんだよ~」


 前田は高瀬の言葉を遮り、続ける。


「大好きな人と一緒に散歩に行って、キャッチボールしたり、フリスビーしたりするのがすごく好きでねぇ……。高瀬君と走っていたら、楽しかった記憶を思い出しちゃった。ありがとうねぇ~」


 ふんわり笑う前田は、むちっとした肉厚の手で高瀬の頭を撫でた。


「あ。そうそう、高瀬君が起きたら呼ぶように、霧島さんに言われてたんだぁ‼ 呼んでくるねぇ~。ついでに、自販機で飲み物を買ってくるよ」


 そう言い残して、ぽてぽて。と効果音が聞こえてきそうな挙動で去って行く背を見送る高瀬は、井を見上げて溜息を漏らす。


「……なんで、忘れてたんだろ……」


 小さく零しながら、瞼を閉ざし片腕で両目を覆う。


「なんで、思い出せないんだろ……」


 どんなに記憶を巡らせても、高瀬の名を呼ぶ声はハッキリと思い出せるのに、兄だった人の顔だけは出てこない。


「…………、…………」


 高瀬は更に深く、思考を巡らせる。


「…………、…………。…………」


 意識がぼんやりし始めた頃、「失礼します」と声を掛けられたと同時に、病室のドアが動く音が小さく聞こえた。

 不揃いな足音が2つ近付いてきて、「失礼します」と若い男の落ち着いた声が言い、仕切りのカーテンが動く音がする。


「……高瀬さん?」


 閉ざした瞼は重く、返事を返さなければと思うのに声が出ない。


「脈、計りますね。少し触りますよ」


 冷えた指先が片手首に触れる。接触ヵ所から熱が奪われるような錯覚に陥りながら、高瀬の意識は更に深く微睡んだ。


「……高瀬さん。腕をどかします。顔、少し触りますよ」


 両目を覆っていた腕がどかされ、微かに視界が眩しくなった。カチッ。という小さな音から一拍遅れて、瞼を開かれる。


「……霧島さん、高瀬君は大丈夫?」

「検査では異常を確認できませんでした。近くにいた人の話だと、倒れる直前の彼は頭が痛そうにしていたようですけど……今まで、高瀬さんが頭痛を訴えたことは?」

「ないよ~」

「そうですか。……心的要因の可能性もありますね。高瀬さんの様子がおかしいと感じる事は、ありました?」

「ないと思うよぉ? 片倉さんが入院してからは――」

「片倉さん、入院してんすか!?」


 高瀬が言いながら勢いよく上半身を起こすと、紺色のワイシャツに黒いスラックス姿の上に白衣を纏った霧島の肩が揺れた。


「驚かさないでください」


 霧島は微かに苛立ちを滲ませた声音で言う。

「いや……。反応ができないくらい、うとうとしてて……。もうちょっとで完全に寝るところだったんすけど、片倉さんが入院したって、聞こえて。つか‼ 俺、なんも聞いてねぇんすけど!?」

「あれ? 言ってなかったっけぇ?」


 小首を傾げた前田は、キョトンとしている。


「何も聞いてねぇっす……。3週間くらい前に、研究棟の方で新しい取り組みが始まって、その関係で忙しくなるから暫く帰れそうにないって、連絡きたくらいで……。それ以降、片倉さんから全然返信こなくて、頑張ってんだなぁ……って、俺、呑気に考えてて……」


 高瀬はうな垂れる。


「どこに入院してるんすか? ちょっと文句言ってくるっす‼」

「落ち着いてください」


 霧島が言い、前田が高瀬をベッドへ押し戻す。


「高瀬さん、自分が倒れて運ばれた事を忘れないでください」

「頭が痛かっただけっす。もう平気っすよ‼」

「もしも片倉さんの前で頭痛が再発して倒れでもしたら、余計な心配をかけてしまいます。高瀬さんが倒れる直前の状況を、詳しく聞かせてくれませんか」

「話すことなんて何も……あ。そうだ。昔の事を、少しだけ思い出したんすよ。俺には、歳が少し離れた兄貴が居たんす。でも、思い出したのはそれだけっすよ。声は覚えてんだけど、顔が出てこないんすよねぇ……」


 何で読んだのか覚えていないが、記憶から真っ先に消える他人の情報は声だと言われているらしい。「例外もあるんすね」と高瀬は笑う。


「へぇ……。お兄さんに関して、他に思い出した事はあります?」


 黒革の手帳を開き、高そうな木製の万年筆を手にした霧島が訪ねた。


「ねぇっすね‼ 思い出そうとしたら、頭痛くなって……」

「思い出す切っ掛けとか、ありました?」

「切っ掛け……。あ‼ そうそう、森林公園で子連れの家族見てて、既視感を感じたんすよ。それで、もっと思い出そうとしたら頭痛くなって、痛みが酷くなって……目が覚めたらここだった。て感じっすね」


 霧島は高瀬の言葉を書き留める。


「なるほど。……今回は、鎮痛剤を処方するので、其れで暫く様子を見てください。必要があれば心療内科の手配をしますから、前田さんにでも伝えてください」

「ど~んと任せて~‼」


 前田は大役を得たと言わんばかりに胸を張り、腹太鼓を叩く。


「ところで、霧島……先生?」


 高瀬が控え目に声を掛けると、霧島は微かに眉間にシワをよせた。だが、其れはほんの一瞬の出来事で、高瀬が見返した時には貼り付けたような微笑がを浮かべ、「はい」と短い返事をする。


「えっと……前に、片倉さんの部屋から出てきたのって、もしかして往診……だったんすか?」

「…………。……何の話です?」


 霧島はキョトンとした表情を浮かべて、小首を傾げた。


「ほら‼ 前に俺が片倉さんの部屋に行った時、霧島先生が片倉さんの部屋から出てきたじゃないっすか‼ 4週間くらい前だと思うっす」

「そんな事、ありましたっけ?」


 そう言って霧島が考え込むと、高瀬の中で妙な焦りが加速して、「霧島先生って、見た目によらず物覚えが悪いんすね」と小さく漏らすと、「業務に必要ない事まで覚えていられるほど、暇ではありません」と溜息交じりに返された。


「…………」

「…………」


 何か言いたそうな高瀬と、怪訝を浮かべる霧島は視線を交わしながら沈黙する。そんな2人を眺める前田は、困った顔で笑う。


 程なくして、「ああ、思い出した」と霧島が声を漏らして言葉を続ける。


「あの時は別件で片倉さんの元に伺いました。守秘義務があるので、此の話は終わりです。僕はこれで」

「待って‼ 片倉さんの入院先だけでも教えてほしいっす‼」


 立ち去ろうとした霧島の白衣の裾を、縋るように掴む高瀬。


「お願いします、教えてください‼ お願いします、お願いします……‼」


 何度も、何度も頭を下げた。


「…………。ねぇ、霧島さん。少しくらい、教えてあげられる事はないのかな?」


 前田は控え目に言葉を続ける。


「普段の高瀬君なら、こんなに丁寧なお願い、しないよ……? いい子には、ご褒美をあげなくちゃ‼」

「そういう問題ではないです。……でもまぁ、入院したと聞けば、場所の見当がつきそうなものですけどね。箱庭で病院と言ったら、月里大学総合病院しかありませんし」


 溜息交じりに言う。


「どこっすか‼?」

「話しが長くなると、僕の休憩時間が削れてしまうので失礼します。お大事にしてください、高瀬さん」

「え。もしかしてこの病院、ブラックなんすか……?」

「やる事が多くて僕が忙しいだけです」

「……チョコ、食います?」


 高瀬は前田から貰った苺チョコレートの箱を差し出した。数秒間沈黙した霧島が、「ありがとうございます」と言いながら手を伸ばした瞬間、前田は、「あ‼」と声を荒げる。


「高瀬君、霧島さんは甘い物に目がなくて、見た目によらず食い意地張ってるから、箱ごと出したらぜぇんぶ持っていかれちゃうよ!? 気を付けて!」

「心外ですね。あれは前田さんの言い方が紛らわしかったからですよ」


 不満そうに言いながら、霧島は箱から苺チョコレートを1つ手に取った。


「……病院に関して分からない事があったら、前田さんに聞いてください。では、失礼します」


 足早に去って行く霧島の背を見届けて、前田は楽しそうに笑う。


「霧島さんは素直じゃないなぁ~。あのね、高瀬君。月里大学総合病院は、ここだよ」

「…………!?」

「箱庭はねぇ、少し特殊なところだから本国よりも病院が少ないんだぁ……。でね、君なら、片倉さんに会わせろ~‼ って、病院内で喚き散らかしそうだから、教えないでおこうか……って、みんなで話し合ったんだよねぇ。忘れてたよ~」

「俺、もしかして嫌われてるんすか……?」


 眉間にシワを刻み埴輪のような形相で、顎に梅干しのようなシワを浮かべる高瀬は切なそうな声音で言う。


「高瀬君への純粋な印象だよ~」


 にぱぁ。と笑う前田。


「俺、そんな印象なんだ……」


 うな垂れる高瀬は深い溜息を漏らす。


「片倉さんはね、弱っている姿を見られたくないと思うよ……?」

「……あぁ。なんか、そんな感じがするっすね」


 寂しそうに笑う高瀬を見て、前田は自身の腕時計に視線を向ける。


「もうすぐお昼だよ、高瀬君‼ 寮に戻って、それから――……高瀬君?」

「え? あぁ、すみません。なんすか?」

「……おっぱい、揉む?」


 前田が心配を浮かべながら言い、耳を疑った高瀬が聞き返すよりも先に、前田の手が高瀬の手首を掴んで誘導する。


「才蔵がさ、思い悩んだ時によく揉んでくるんだよ~。真顔でちょっと怖いけどさ、散々好き勝手に弄んだ後は、スッキリした‼ って笑うんだぁ」


 柔らかな笑みが咲く。


「……どうせなら、女の子のおっぱいがいいっす」

「脂肪に性別は無いよ~?」

「……そうっすね。でも、なんだろう。こう、手にずっしりきて溢れる感触……弾力……。目を閉じればワンチャン――」

「高瀬君のえっち‼ 用途が違うよぉ!?」

「前田さん、ちょっと黙っててほしいっす。今、可愛い女の子を想像してるんで」

「むぅ……」


 眉間にシワをよせたハニワのような形相で押し黙る前田を、高瀬はチラッと見やる。


「なんか、岡田さんが癖になる気持ち、分かったかもしれねぇっす。これで前田さんがもふもふしてたら、完全にデブ猫っすね」

「えぇ……。僕は犬なんだけどなぁ……」

「猫を崇めよ。さすらば癒されん。っすよ、前田さん」

「高瀬君は犬派だと信じてたのに……‼」


 うな垂れる前田。


「あー。なんだか腹、減ってきたっす‼」

「ご飯行こう、ご飯‼ 僕ねぇ、ビアンコのマスターに連絡しといてあげる‼ あそこのイフェリコ豚バーガー、絶品なんだよぉ‼」


 鼻息荒く瞳を輝かせる前田に対し、高瀬は小さく笑う。


「その前に、シャワー浴びたいっす」

「じゃあ、一旦寮に戻って、ロビーで合流しよう?」

「うっす‼」



 病室を出てロビーに移動した高瀬は、自分が小銭用の財布しか持ち合わせていない事に気付く。「職員は本国同様、医療費タダだよ~」と前田が笑うと、高瀬は言葉を失った。



――――――――――

補足

 霧島さんの本職は研究員なので、霧の研究を手伝ったりしていますが、外科医が居た方が技術的に助かるとの事で医学の勉強を始めたのが最後。人手が足りない外科医の方を優先させられています。

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