高瀬 明彦

01_忘れ去られた夢の始まり

 高瀬達が箱庭に来て早くも半年の時が流れた春盛りの或る日の昼下がり、研究室を出た高瀬を呼び止める声がした。


 視線を向けると、第一印象とは打って変わり小綺麗な中年の小太りと言える印象の前田が、すっかり見慣れた人懐っこい笑みを浮かべながら近付いてくる。


「どう? こっちでの生活には慣れたかな?」

「ええ、まあ」

「それはよかった。お昼、行かない?」

「行くっす‼」


 二人は本館の社員食堂へ向かう。




 地下トンネルに敷かれたレールを、自動運転で進む車両内に人は少ない。揺りかごに揺られるような心地と、規則正しい感覚で車窓越しに流れて行く橙色の光は、高瀬の眠気を誘うのに十分だ。


 気付けば、こくん。こくん。と舟を漕ぎ、ガクンと頭が落ちた瞬間、我に返り大きな欠伸を漏らしては、こくん。こくん。と再び船を漕ぐ。


「ははっ、眠そうだねぇ。移動、大変だもんねぇ……うん、すごく分かるよ」

「なんで研究棟に休憩所はあって、食堂ないんすかね? 軽食やおやつの自販機はあるけど、物足りねぇ……」

「うぅ~ん……なんでだろうねぇ? 移動は大変だけど、休憩時間長いし……そういうものだと思ってるから、考えたことが無いや」


 前田は明るい笑みを浮かべた儘、言葉を続ける。

「よかったねぇ、座席がある列車は貴重だよ~。ほら、高瀬君。少し横になっちゃいなよぉ‼ 人、少ないし‼」


 ぽんぽん。と、前田はぱつんぱつんに張った紺色のスラックスの上から、自身の肉付き豊な太腿を叩く。


「寝心地は、才蔵君のお墨付きだよ~」

「う……。確かに、ほど良い弾力と低反発……」


 片手の指先で弾力を確かめながら、何とも言い難い顔で納得する高瀬。


「ね? ほらほら、遠慮しないで‼」

「うわっ‼?」


 むちむちした前田の片手に後頭部を押さえられ、強引に上半身を倒された。必然的に頬を押し付けた前田の太腿は、大型犬の腹に顔を埋めているようなぬくもりで、日光浴をしたばかりの犬のようなにおいがする。


「なんか……懐かしいような、懐かしくないような……?」


 高瀬は思考を巡らせながらもぞもぞと動き、楽な姿勢を模索した。


「ははっ、大胆に寝っ転がったね」

「こんなん普通にアウトっすけど、今だけ。今だけっす……」


 最終的に仰向けに横になった高瀬は、片手を両目の上に乗せて瞼を閉ざす。


「うんうん。大丈夫、誰も文句は言わないよ~」


 前田は、座席数人分を独占して寛ぐ高瀬の頭を「よしよし」と撫でる。


「一駅前で起こしてあげるからねぇ。ゆっくりお休みよ~」


 言い終わるや否や、前田は高瀬だけに聞こえる大きさで、言葉を持たない音を奏でた。子守歌にしては複雑で、激しそうな雰囲気の曲は高瀬の記憶に引っ掛かり、妙なモヤモヤを芽生えさせていく。


「それ、何の歌っすか?」

「んー? 僕の大切な人が歌っていたものだけど、何の歌かは僕も分からないんだぁ……。でも、大切な人が好きだった歌なのは確かだよ~。高瀬君も聞いた事があるかもしれないねぇ。少し前に流行ってたみたいだから」

「へぇ……。聞き覚えがある気がするんすけど、思い出せねぇ……」

「そうなんだぁ‼」


 前田は嬉しそうに言葉を返し、言葉を持たない音を奏でた。


 それは車両の揺れ。高瀬の胸元を、ぽん。ぽん。とあやす様に叩く前田の片手の動きと相まって、高瀬の睡魔を活性化させるのに十分だ。


「おやすみ、    」


 最後まで言葉を聞き取ることなく、高瀬の意識は深くに沈む。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 高瀬はセピア色の夢を見た。


 聴覚に届くのは、楽しそうに笑う男の子の声。視界映るのは芝生が敷かれた広場を駆けまわる、アイボリーで大きな犬のような何かと、ゴムボールを手にした短い茶髪の十歳前後の少年。質が良さそうな服装から、其の子が裕福な家庭の子供である事が想像つく。


『    ‼』


 男の子の声音で高瀬が呼ぶと、少年がゆっくりこちらを見て、手を振り返す。



   ◇◇◇◇◇◇◇



「――ん。高瀬くーん。高瀬くぅーん。もしもーし。……あ、起きた起きた‼」


 ペチペチと頬を叩いていた手が動きを止め、高瀬の顔を覗きこんでいる前田は、にんまり笑う。


「おはよう。一駅前を通りこしたところだよ。次で降りるからねぇ」

「……うっす……」


 高瀬は眠い目を擦りながら上半身を起き上がらせ、姿勢を正して座席に座る。


「良い夢でも見ていたのかな? 高瀬君、笑ってたよ~」

「夢……?」


 高瀬は思考を巡らせた。


「……よく憶えてないんすけど、すげー楽しかった夢を見ていた気がするんすよ。こう、心がおどるっつーか、わくわくするっつーか……」

「そっかぁ‼ よかったねぇ‼」


 前田の顔に、人懐っこい笑みが浮かぶ。


 ふと、ポーン。と無機質な音が鳴り、次の停車駅を報せるアナウンスが流れる。完全に停車してから座席を立つようアナウンスが続くが、前田は構うことなく腰を上げ、近くのドアの前に立つ。


 少しして、人で賑わうホームが車窓越しに見えた。


「ほら、高瀬君。ちゃんと僕の手に掴まってね? 早僕は大きいから問題ないけど、高瀬君は細いから、人の波に呑まれて逸れちゃう‼」

「いや、子供じゃねぇんで大丈――」


 高瀬が言葉を言い終える前に、前田が高瀬の片手を掴む。


「甘いよ。激甘だよ、高瀬君‼ 一昨日、混雑時に人の波に流されて第弐研究棟行きの電車に乗りかけたの、忘れたのかなぁ?」

「うっ……」


 顔面をクシャッと歪めて過去の失態を思い出す高瀬を目尻に、前田はドアが開いた瞬間に踏み出す。


「……(前にも、箱庭じゃない場所でこんな経験をしたような?)」


 高瀬の思考はほんの一瞬のもので、次に瞬きをした頃には、何を食べるかを考え始めた。



 昼を過ぎた食堂は、閑古鳥が鳴いている。前田は食券機の前に立ち、慣れた手つきで紙幣を吸い込ませると迷うことなくボタンを押した。


「……そんなに食べるんすか……?」

「え。嫌だなぁ、高瀬君‼ いつもと同じ量だよ?」

「いやいやいやいやいやいや、多いっすよ?」


 食券機に投入した金額は、明らかにいつもより多く、手にした食券も倍以上の枚数だ。


「あらあらあらぁ‼ 今日も仲良しさんね」


 語尾に丸みがあり、ねっとりした雰囲気の男の声が聞こえた瞬間、高瀬の肩がビクッと跳ねる。反射的に振り返ると、妖艶で扇情的な美人が立っていた。


 相も変らぬ羚羊のような引き締まった美脚に、透け感が程よいストッキングを纏い、研究者とは思えない真っ赤なハイヒールを纏ったスレンダー美人。今は白衣を着ていないので、晒された赤いワンピースから覗くたわわに実る胸元と、深いスリッドが高瀬の目を大胆に目を奪う。


 高瀬は数秒の沈黙を経て眼前の美人が岡田であると認識し、反射的に飛び退いて背面を食券機にぶつけた。


「やっだぁ‼ 高瀬君、胡瓜と対面した猫みたいでかぁわぁいぃいぃ‼」


 岡田は言いながら胸元で掌を合わせるように手を組み、肩と腰をクネクネさせる。


「岡田さん、心臓に悪いっす……。俺の前で喋んないでもらっていいっすか……?」

「あら高瀬君、言ってくれるわね。それ、割と本気で傷付くからやめてもらってもいいかしら? さもないと私の中の野生が覚醒して貴方をメスにちゃうわよ」


 岡田は高瀬を見ながら美しく笑い、片手の親指と示指で作った輪の中にもう片手の中指を挿入し、抜き差しを繰り返す。


「才蔵、落ち着いて? ね? 高瀬君はもう少し人の心を持とう? ね?」

「すみません、どうにも慣れなくて……」

「ふっ。冗談よ、半分くらい冗談」


 美しい笑みを浮かべた儘、岡田が言う。


「ああ、もう‼ やめたげてよ~。高瀬君怯えちゃったじゃん……。いくら才蔵でも、僕の後輩をイジメると怒るよ?」


 前田は頬を膨らませる。頬袋に木の実を詰め込んだリスみたいだと感じた高瀬は、人差し指で、ツン。と触れそうになるのを堪えた。


「そんな事より、智樹。あんたのその食券の量……」


 獲物を狙う猛禽類のように鋭い視線が、前田の手元を見る。


「い、いやだなぁ~。僕が1人で食べたりしないよぉ。高瀬君の分だよぉ‼」


 前田は顔中に汗を浮かべてにっこり笑い、数枚の食券を高瀬に押し付ける。


「え、俺のっすか?」

「うんうん。高瀬君、若いんだから沢山食べないとねえ‼ 今日は僕のおごりだよ‼ ほら、才蔵の分も‼ あと、コレは片倉さんの分だけど、居ないみたいだから僕の分って事でいいかな?」


 岡田に数枚の食券を押し付けた前田は、キョロキョロと辺りを見渡す。


「はぁ……。片倉さんは少し調子が悪そうだったから、早退してもらったわ」

「体調が悪いって、何かあったんすか!?」


 高瀬は反射的に岡田と距離をつめ、胸倉を掴みそうな勢いで問い掛けた。


「あらあら。随分と積極的なのね? 焼けちゃうわぁ……」


 赤を基調としたネイルが情熱的な指先が、高瀬の顎をクイッと持ち上げる。息が届くか否かの距離まで岡田が顔を近付けるが、高瀬は表面上では微動だにしなかった。


 其の儘の状態で両者とも見つめ合うと、高瀬は目元を赤らめて下唇を噛みしめてぷるぷる震えだす。岡田は視線を更に下げ、勝ち誇ったように笑った。


「才蔵ぉ‼」


 前田がぷんすか怒る。

「はいはい、からかって悪かったわね。片倉さんは朝から顔色が悪くて、食欲もないみたいなことを言っていたけど、しっかり歩いていたし大丈夫だと思うわ。病院にも寄ったしね」


 手を離した岡田は、高瀬を安心させるように笑い言葉を続けた。


「寮まで送り届けるつもりでいたけど、病院まででいいって言われちゃって。検査が終わるまでは付き添ったわ。結果は明日の午前中には出るそうよ。心配なら、連絡を入れるなり、顔を見に良くなりしてあげて? 上司が行くより、気心知れている高瀬君が行った方が、片倉さんも気が楽でしょうよ」

「早速、連絡してきます‼」

「あ、僕が食券預かるよぉ‼」

「あざっす‼」


 高瀬は前田に食券を渡し、場所を移動する。



 フロア内を右往左往しても落ち着く場所が見当たらず、高瀬は建物の外に出た。端の方に移動し、スウェットパンツの後ろポケットから連絡用の携帯端末を取り出す。


「……高瀬さん、出ねぇ」


 何回コールしても留守番電話に繋がってしまう。10回ほど掛け直したところで諦めてメールに切り替えた。


「…………。……『岡田さんから、片倉さんが具合悪いって聞きました。病院寄ったらしいっすけど、具合どうっすか? ゼリーとか、ヨーグルトとか、果物とか、飲み物とか、欲しい物があったら言ってください。帰りに買って持っていきますんで‼』……こんなんでいいか? よし、送信」


 ボタンを押して数秒後に送信完了の文字を確認して、携帯端末をポケットにしまい、一息吐く。


「大丈夫かな、片倉さん……」


 高瀬は踵を返し、食堂へ戻る。




「だから、アンタは肥りすぎだって言ってんでしょうが‼」


 聞き慣れた声が聞こえた。


「検診の時、霧島さんを含む何人の医師から死の宣告を受けたか忘れたの!?」

「うるさいなぁ‼ ほっといてよぉ‼ 食べる事だけが僕の楽しみなんだからぁ‼ 僕から食べる事を取ったら、ただのデブしか残らないんだよぉ!?」


 埋め尽くさんばかりに料理が並んだテーブルを前に、岡田の怒声と泣きそうな前田の声が高らかに響く。


「……俺が居ない間に、何があったんすか?」


 ハトが豆鉄砲を喰らったような顔で高瀬が問い掛けた瞬間、般若の形相をした岡田と、おやつを取りあげられた犬のような前田が振り返る。


「あら。お帰り、高瀬君」

「お帰り、高瀬君。なんでもないよ。些細な口論なんだ」

「ええ、そうね。些細な事よ‼ このデブ、肥満が原因で死の宣告を受けたばっかりだってのに、医者からダメだと言われていた超大盛で頼み直していたのよ!? 私達にとって健康管理は仕事の内なのに‼」

「ちゃんと霧島さん監修の薬剤開発部門が作ったダイエットサプリを呑んでるから、肥満対策は大丈夫だよぉ……」


「ほらぁ‼」と明るい笑みを浮かべて、前田はピルケースを複数取り出した。


「このサプリはビタミン系で、オレンジみたいな味がして美味しんだよ。こっちのは漢方みたいな味がして不味くて、においも独特。こっちのはゲルゲルゲエキスを使っているから、アロエみたいな味がしてヨーグルトと一緒に食べると美味しいんだぁ‼」


 誇らしげな前田によるサプリ紹介は続く。


「ああもうっ‼ ダイエットサプリは補助‼ メインは運動‼ この無駄乳たぷたぷ野郎が‼ お前、それでも研究者か!? ああ!?」


 席を立った岡田は般若の形相を崩すことなく前田の後ろへ移動し、徐に両腕を伸ばして両胸を鷲掴む。ワイシャツの上から見ても分かる通り、豊満な乳房は岡田の掌からたっぷり零れるほどの質量だ。指先の沈み具合からしてとても柔らかいことが窺える。


「ちょっとぉ‼ たぷたぷしないでよぉ‼」

「くそっ‼ 憎たらしい天然無駄乳め‼」


 岡田が両手を揺らす度に、ワイシャツの下が波打った。


「才蔵も肥ればいいんだよぉ‼ ……うあっ、痛い‼ 痛いよ‼ それ乳首だよ‼? あっ、痛い‼ 痛い痛い‼ 抓らないでよぉ‼ 取れちゃうってばぁ!?」

「もげてしまえこんなもん!」

「ふぇぇ……。ごめん、ごめんて才蔵ぉ~」


 高瀬はすっかり慣れてしまった2人のやり取りから視線を逸らす。窓の向こうで犬の散歩をしている人もいれば、犬に引き摺られるように歩いている人もいる。ジョギングしている人と擦れ違いざまに襲い掛かる犬もいれば、引き摺っている飼い主がリードを離した瞬間、踊り狂いながら明後日の方向に駆けて行く犬もいた。


「……長閑って良いなぁ……」


 金髪のウィッグを咥えてスキップのような足どりで去って行くハスキーを見送りながら、高瀬は微笑んだ。


「小憎たらしい天然無駄乳め‼ くそっ、くそっ‼ お前なんかこうしてやる‼ おらおらおらおらおらおら‼」

「ふぁっ!? ちょ、いいかげんにしてよぉ‼ これじゃあご飯が落ち着いて食べられないでしょう!?」

「おらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおら‼」

「もぉー‼ 高瀬君、自分の世界に浸ってないで助けてよぉ‼ お腹が空きすぎて死んじゃうよぉ~!?」

「安心なさい、智樹。デブは遭難しても細い人よりも長生きすんのよ‼ この蓄えた養分を使い果たすまで死ねないのよぉおおお‼」


 岡田は言いながら、より一層の激し増した手付きで前田の両乳房を揉みしだく。


「ねぇ、高瀬君。貴方も揉んで見たら? ハリのある柔らかさは触りがいいわよ」

「え。いや、俺は――」

「高瀬君も僕のおっぱい触りたいの? もぉー、しょうがないなぁ。今日だけなら、いいよ? 高瀬君、いつも頑張ってるご褒美‼」


 前田はふんわり笑う。


「え? いや――」


 岡田が前田の両乳房をゆさゆさと揺らして誘惑する。


「…………」


 高瀬は葛藤した。箱庭に来て何度か風俗を利用した事はあったが、最近はめっきりご無沙汰だ。前田は男だが、豊かに実る乳房に性別は無い。そして、本人が許可をしているので、これは合法だ。


 前田の乳房の手触りが気にならないといったら、嘘になる。仕事中に対面した際、無意識の内に視線を向けてしまっていた事に気付いたことが、何度もあった。

 学生の頃、クラスの女子同士が胸を揉み合っていたのを見た事がある。なんて破廉恥な‼ と思っていたが、後日に女子同士ではよくある事だと知った。なら、男同士が揉み合っても問題ないのでは?


「…………‼」


 岡田と立ち位置を交換した高瀬は、両掌が其々包み込んでいる乳房の肉質に触れ、息を呑む。埋める指先から服越しに伝う、中々に絶妙な弾力。ゆさゆさと揺らすと、柔らかな肉質がたぷんたぷんと波打ち揺れ動く。掬うように持ち上げると掌に伝わる、ずっしりとした重みを噛みしめるように、下から上へ円を描くように手を動かしながら、掌で乳房を押し潰すように揉みまくった。


 時にコリッとした小さな突起物が存在を主張するので、親指と示指の全体を使って肉を挟み、突起物へ向かって絞るように抓む。


「んなぁっ‼ た、高瀬君……?」

「…………」


 前田の声は高瀬に届かない。


「うぁっ、ぁ……た、高瀬く~ん‼ 帰って来て!? 高瀬君ってば!? ぁっ……。んぁ……。だ、だめだよぉ……。もぉ、お終いだよぉ?」

「…………」


 高瀬は無言で前田の乳房を揉み、時に指先で乳頭を弄んだ。


「っ……高瀬君、顔が無の境地だよ……? もしかして、飢えてる? なんかごめんね? 高瀬君になら、幾らでも揉ませてあげたいところなんだけど……あのね、手付きがね? その、なんていうか……」

「…………」

「うぅ……恥ずかしくなってきたよぉ……。才蔵、助けてぇ……」

「ふん。自業自得よ‼ この天然たぷたぷ無駄乳デブ野郎‼」


 岡田は席に着き、我関せずといった面持ちで若鳥の蒸し焼きサラダを食す。


「こ、こんなつもりじゃ無かったんだけどなぁ……」


 前田は熱が籠った顔面を、おしぼりで拭く。


「じゃあ一体どんなつもりよ」

「もっとこぉ~、才蔵が揉むみたいに軽いノリでぇ……。こんな、本格的な揉み方、予想外だよぉ‼ もぉ‼ 高瀬君のえっちぃ‼ 戻って来てよぉー……‼」


 いつになく困惑した前田の声が虚しく響く。




 高瀬が我に返ったのは、料理がすっかり冷めてしまった頃。休憩時間内に食べきれなかった品はタッパーに詰め手持ち帰ることにした。両手に大きめの紙袋を下げた前田は上機嫌で、ホームへ続く階段をおりる足どりは軽やかだ。


 対して、上司の乳房を無心で揉みしだいた事実に驚愕した高瀬は、手に残る乳房の感触の余韻に浸り、羞恥と罪悪感と得体の知れない興奮を入り乱し、落ち着く暇もなく終業時間を迎えた。



   ◇◇◇◇◇◇◇



 買い物袋を両手にぶら下げた高瀬は、片倉の部屋の前に居る。インターホンを数回ほど鳴らして待ってみたが反応はなく、電話を掛けても繋がらない。


「……はぁ……」


 溜息を漏らしてドアに背を向けた瞬間、カシャン。と解錠の音がした。


「あ、片倉さ――」


 振り返りながら声をかけ、高瀬は語尾を濁す。片倉の部屋から出てきたのは、中性的な美貌が目を引く霧島だった。ライトグレーのチェックスーツを着こなした霧島に初めて会った時のような落ち着いた印象はなく、表情こそ無を湛えているが、薄いフレームの眼鏡越しに見る虹彩に苛立ちが滲んでいる。


 霧島は高瀬を視界に捉えるなり、肩越しに振り返ると閉まり掛かったドアに手を伸ばし、ノブを掴んだ。


「片倉さん、お客さんですよ。では失礼」


 スクエア型のリュックサックを背負わずに手で持っ儘、霧島は後頭部の所で一つに纏められた黒い長髪を揺らしながら足早に立ち去った。


「おや、高瀬君……?」


 呼び声に視線を向けると、玄関ドアを開け広げた眼鏡をしていない部屋着姿の片倉が視界に映る。


「片倉さん‼」


 高瀬の顔に笑みが咲いたが、片倉の顔は疲労こそ浮んでいるが耳まで赤く染まり、両目は浮んだ熱で濡れて見えることに気付いて顔色を曇らせた。


「大丈夫っすか、片倉さん。熱は? 俺、買い物してきたんすけど……あ、やっちまった、解熱剤買ってねえ‼」


 ビニール袋を漁りながら絶句する。


「すまないね、高瀬君。湯を浴びていたから、少し身体が火照っているだけで――」

「コレ、後で食べてください‼ 俺、ひとっ走り解熱剤買いに行ってきます‼」


 買い物袋を片倉に押し付け、高瀬は踵を返して一歩踏み出す。


「待ちなさい‼」


 片倉は買い物袋を慌てて足元に置き、高瀬の手首を掴んだ。高瀬が吃驚して反射的に掴まれた腕を引くと、勢い余った片倉が足を縺れさせてバランスを崩す。


「うわっ‼?」

「っ……‼」


 ドサッと鈍い音を立てて2人は転倒した。服越しに伝わる、片倉の体温。風呂上がりの香りが鼻孔に届き、高瀬の鼓動は早まっていく。


「ああ……すまない、高瀬君」


 両腕で上半身を起き上がらせて困惑を浮かべながら言う片倉の顔は火照った儘で、いつも見慣れた眼鏡をしていないことも相まって、どことなく色っぽく見えた。


「いえ、その、俺の方こそ……」


 高瀬は密接するお互いの下腹部で隆起したモノを感知し、語尾を濁す。其れに気付いた片倉は、更に困惑を強めて高瀬の上からどく。


「怪我は?」


 片倉は片手を差し出し、問い掛ける。


「尻が痛てぇけど、怪我はないっす。片倉さんは?」

「君を下敷きにしたから、怪我はしていない」


 片倉の手を掴み、立たせてもらった高瀬は安堵の溜息を漏らした。


「良かったぁあああ……‼ 俺、すげぇ心配して、それで……――」


 高瀬は力なく笑い、語尾を濁す。 


「彼が……霧島君が処方をしてくれた薬を飲んだら、だいぶ調子が良くなってね。2、3日様子を見て、問題がなかったら復帰できるそうだよ。立ち話も何だから、上がっていくかね? 調子を崩してしまっていたから、ここ暫く朝食を共にとる事もできていなかったし、ゆっくり話でも?」

「あ……そうしたいのは山々の山なんすけど、前田さんのダイエットメニューを考えることになって‼」

「前田さんのダイエットメニュー?」

「そうなんすよ~。前田さん、健康診断で霧島さんから死の宣告受けたらしくて、岡田さんが心配してて。それで、俺も協力する事にしたんす‼ これでもインストラクターの資格もってんすよ‼」

「へぇ、それはすごいじゃないですか‼」

「資格を活かした事、ないんすけどね……」


 高瀬は苦笑して頭部を掻く。


「こうして誰かの役に立とうとしているじゃないか。それはとても立派な事だと、私は思うがね」


 言い終わるや否や、片倉は、ぽんぽん。と高瀬の頭を撫でる。突然の事に最初こそ吃驚した高瀬だが、直ぐに気恥ずかしそうに俯いた。


「ああ、すまない。息子を褒める時によくこうしていたから、癖になってしまったようだ」


 離れていく手が名残惜しい。そう思った瞬間、高瀬は片倉の手首を掴み、引き留める。其の行動に最も動揺を隠せないのは高瀬自身だった。


「あ。いや、これは、その……」


 口籠りながら、手を離す。


「俺、親父に褒められた事もなければ、撫でられた記憶もなくて……。片倉さん、よく褒めてくれるし、撫でてくれるから嬉しいって言うか、片倉さんの子供になりたかったなって言うか……」


 顔に熱が集中するのを、高瀬は自覚する。


「ありがとう」

「え?」


 高瀬は顔をあげて片倉を見た。


「実を言うと、実子との仲は良いと言い難くてね。うちは子供が2人居て、どっちも男の子なんだが、仕事の忙しさを理由に長いこと全てを妻に任せきりにしてしまったのが影響したのか、撫でようとすると振り払われるんだ。『触るなキモジジイ』と言われた事が何度かある」

「あー……向き合う時間が少なかったんすね。片倉さんを知れば、すごく良いお父さんだって、気付くはずっす。料理も上手いし‼」


 高瀬は笑う。


「あ。さーせん‼ 長々話しちゃって。片倉さん、ゆっくり休んでくだい‼ また後でメール入れるっす‼」

「あ、ああ……。また後で」


 照れを隠すように高瀬は笑い、足早に片倉の隣に在る自室へ駆けこんだ。一度でドアの鍵を開けられたなら格好がついたところだが、3回も鍵を落としただけでなく、手元が狂い中々解錠することができず、拭いきれない羞恥を抱いた儘、片倉に見届けられながら中に入った。


「……何やってんだろ、俺……」


 玄関ドアに背を預けた儘、ズルズルと膝を折る。



――――――――――

補足

 ここでは触れていない空白の半年で高瀬の影響を受けた片倉の性格はだいぶまるくなり、2人の関係は朝食を共にしたり、帝都に買い物へ行ったりと仲が良く、お互いが疑似親子関係をこっそり楽しんでいます。

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