求む!シックスパック

月波結

シックスパック

 スヌード。

 なんだか流行ってるらしい。

 もこもこした輪っか。それだけ。

 でも流行りものって身につけるヤツにも資格がいるっていうか、どっちにしても僕がスヌード着けたりすると、陰でこっそり笑われそうだ。『勘違い野郎』って。


 そんなシャレオツな生活はできるはずもなく、僕はこの厳寒の中、厚手のタートルネックセーターと編み物好きな母さんが送ってきたズルズル長いマフラーに通年、ウォッシュ加工のジーンズで自転車通学。

 ······さすがに母さんのマフラーはないよなぁと思う。色は気をつかったらしく、ダークブルーだ。


 けど、定番ブランドの無地のマフラーなんかは誰にもブランド名がバレたりしないに違いない、と値札を「チラッ」と見ると、柄物より何故か値段が高い。

 世界的に不況で原油価格も高騰して、輸入にもお金がかかるんだ。


 いやそれは他人のせいにしてるだけで、本当は自分に自信がないことはわかっている。

 ――陽キャとまではいかなくても、明るいキャンパスライフを送りたいなら僕は何か変わらないといけない。


 ◇


 駐輪場で自転車を降りると、寒い中、構内に入らずに3人の女の子たちがおしゃべりしていた。吐く息の白さもかわいい。

 日常風景。

 そのうちのひとりが僕に気がついて、ひらひらっと指先で挨拶してくれる。僕も指がつりそうになりながら、分厚い手袋をした指を動かす。


 ――彼女は、僕のマドンナだ。

 僕みたいな冴えない男にも、分け隔てなく接してくれる。


 ぱっちり大きな目、長くて印象的なまつ毛、茶色い髪はふわっとゆるく巻いていて、とどめに笑うと右頬に片えくぼが出る。ズルいくらい、かわいい。

 田舎から出てきて一番驚いたのは、都会の女の子はみんなキレイだっていうこと。どの子もTVに出てそうにかわいい。


 そして牧瀬さんはその中でもスペシャルかわいい。

 牧瀬さんが同じ学科で、同じ講義を取ってると気づいた時、僕はとりあえず眉を初めて整えた。高校ではほとんどみんなやっていたことだけど、校則違反だった。

 でも今は大学生だ。

 カッコよくなったかはわからない。大切なのは気持ちの問題だ。


 僕は施錠も忘れて、しばらくボーッとしていた。

 あ、まずいと思って自転車をキレイに隣の自転車に並べると、さっきまで聞こえなかった、女子の会話が耳に入る。

 別に聞き耳を立てるつもりじゃないけど、聞こえてきてしまう。


「シックスパック、必須だよね~」

「えー、梨花ってそういうのが好みなの?」

「ほらぁ、この前流行った映画の外タレのさ、あの人、脱ぐとすごいんだよ。シャツがはだけるシーンがさぁ」


 女の子たちは一斉に笑った。パッと花が開くように。

 もちろん僕の持ち物の中に『シックスパック』はない。

 運動経験はゼロに等しく、田舎ではそんなものは無視して勉学に勤しみ、いい大学を目指せと言われてきた。だから、脇目もふらず、その通りにした。


『勉強ができる』、それが僕のステータスだったが、残念なことに、ここには同じ試験を受けて入学した学生が揃っている。学力には意味がない。


「梨花ね、シックスパック、一度でいいから触ってみたい!」

「やだぁ、それってさ、そういうこと?」

「違うよ、触るだけでいいの。できれば生で」

「いやらしい~。脱がすの?」

「そういう牧瀬みたいなのが実は、だったり!」


 えー、そんなことないよ、と女の子たちはキャッキャッと楽しそうに声を上げた。牧瀬さんは発言せずにうん、うんとうなずき、そのオチに笑っていた。そして――。


「確かにシックスパックはカッコイイよね」


 と、一言いったんだ。片えくぼを浮かべて笑って。

 自分を見直す。

 背ばかりがひょろひょろ伸びて、筋肉なんか欠片もない。······スヌードと同じ。別次元の話なんだ。

 夢見るな、僕。


 ◇


 家庭教師のバイトは時給はいいけど何時間も働くわけじゃないから、割がいいのかかなり謎だ。登録先のピンハネが多い気がする。

 教え子は生意気な中学生で、気を許すと動画の話しかしない。「マジで知らないの?」とか。


 昔はそのご家族と一緒に夕飯をいただいたりしたらしいけど、そんな文化は今はもうない。

 時によっては、まだ授業中にピザの宅配が届くこともある。もちろん僕はピザと交代にさよならだ。

 ウーバーイーツ、あれもまた別次元。

 僕は牛丼で十分だ。

 牛丼を作るのも悪くないよなぁ、と募集中のビラを横目に自転車で風を切る。


 今まで工事中だったところに明かりがついていた。黒を基調にした夜に溶け込むデザインの建物に、白抜きの店名。

『24hours build up』。自転車のブレーキを緩くかけて、スピードを落とす。来週開店らしいその店では会員を募集していた。


 ――24時間、鍛える。


 看板はそう言っている。店内にランニングマシーンらしきものがガラス越しに見える。

 店名を忘れないようによく覚えてから、自転車をまたこいだ。


 ◇


 牛丼を食べながらスマホで検索する。

 汁だくの牛丼は箸では食べにくくて、スプーンを取ってきて、検索をかける。


 そこは大きな全国展開チェーンで、世界中どこにでも支店があるらしい。しかも、会員ならいつでもどこでも使えるらしい。

 24時間、いつでも好きな時に。


 できるかなぁ、と思う。でも今のままの僕から変わりたいという欲求は常にある。満足はしていない。

 友だちに「村上春樹に似てるな」と言われた。微妙な気分になった。いくつ歳が離れてると思ってるんだよ。著作の素晴らしさとそこは別だろう。


 体を鍛えて、自信をつけて、オシャレなサロンで髪を切ってもらう。そうだ、自信はすごく大切だ。

 今のままじゃ、牧瀬さんの隣に偶然でも並ぶことは許されないだろう。こんなにヒョロい僕じゃ。

 身長185センチをムダにしている。


 会員申し込み画面を開き、体験を申し込む。ついでに料金も確かめる。――24時間使えて月8千円?

 ······世の中ヤベぇ。

 ちょっと高いけど、24時間使える。いつでも、何時間でも。


 二の腕の力こぶを触る。ほぼ、皆無。絶望的現状。

 ポチポチと一文字も間違えないように打ち込む。入力フォームは他のいろんなところと変わらない。念を込めてえいっと『手続き完了』。

 これで僕は僕じゃなくなる。自慢じゃないが、ひとつのことを続けるのは得意だ。継続は力。僕にも得意なことはある。


 シックスパック――腕も足も背中も尻も、贅肉はなくして筋肉に変えるんだ。


 ◇


 初めはおどおど隠れるように空いている時間に通っていたが、段々、行きたい隙間時間に足を運ぶようになった。

 悩まされた筋肉痛も影を潜め、息切れも減った。

 着慣れない、自分でもどうかしてると思うスポーツウェアも気がつくとピッチリしてきた。鏡で見ると、少しずつ筋肉の線が見えるようになり、その線に沿って筋肉がついてくるのがはっきりわかった。


 みんな、人のことなど気にせずにワークアウトに勤しんでいるんだが、たまにすれ違いざまに「最近、締まってきたね」と言われることがあり、やはり継続は力なり、と心の中で「グッ!」と拳を握る。

 そして毎日の習慣にプロテイン摂取が加わった。


 僕のことを『村上春樹』と呼んだ中野は「柏原、最近少し痩せた? 食ってる?」と見当違いのことを言ってきた。「ちゃんと食ってるよ」と言うと「ふぅん、ならいいけど。なんか今までと違うんだよな」とブツブツ言い出した。


「あ! 猫背が治ってるよ」

 お、気づいちゃったじゃないか。

 そう、僕は長身から長年身につけてしまった猫背を克服した。肩甲骨を寄せるように腕を左右に動かす。そのマシンを続けた結果、肩のラインが真っ直ぐになった。

 ついでにそのせいか身長が2センチ増えた。


「やべぇ。元々、高身長スペック持ってるくせにいきなりマウント取りに来たのか~? お前、俺たちの仲間だろ? な?」

 にっこり笑って「気のせいだろ」と言うと「だよな、俺たちみたいなガリ勉入学組からイケメンは発生しないよな。俺の見間違いだったわ。悪い、」と安心した顔で中野は言った。


 気のせいじゃねぇわ~!

 猫背克服。

 これでスーツもカッコよく着こなせる⋯⋯んじゃないかとトレーナーは言っていた、が。

 スーツはリクルートスーツしか持ってないし、体型が変わっても服代は24hoursの会費で消えていく。365日24時間とは言え、8千円は痛い。⋯⋯バイトを増やすしかないか⋯⋯。


 ◇


「柏原くんてさ、彼女できたの?」

「⋯⋯え? や、あの、いない。いないよ」

 ははは⋯⋯と愛想笑いをしてしまう。『梨花』と呼ばれる大木さんは、そうなんだぁ、と思いっきり興味無さそうな顔をした。唇が尖って、不機嫌がもろ顔に出てる。

「髪の毛、寝癖あるよ。じゃーね」

 くるっとターンして女子グループに帰っていった。


 寝癖か。千円カットにスタイリング剤だけじゃやっぱりダメなのか。動画みていろいろ試してみたのに、苦労は実らなかったらしい。


 大木さんはこっちをガン見して、聞こえるように「柏原、彼女いないってー」と言った。牧瀬さんもそこにいた。いつもみたいに、そっと手を上げてくれたけど、ほんとにそっと、だった。僕も無視するわけに行かず、そっと手を上げた。


「やっぱあんな陰キャに好きこのんでつくヤツいないんだよ。女ができて変わったんじゃないかなんて、気のせい、気のせい」

 大木さんがそう言うと、みんなが僕を見ているような気がしたけど、先生がちょうど入ってきたので講義室の空気は元に戻った。


 ◇


 それからも僕は24hoursに通い続けた。

 週2だったバイトを週3に増やした。


 あっという間に冬は去り、アスファルトの道端に鮮やかなタンポポが咲き乱れ、季節は進み、初夏になる。

 最近は異常気象のせいか、5月でも半袖で十分だ。


 ある日のある講義の時、女の子が「キャッ」と大きなカバンを落とした。見るからに、女子が通学に使うとは思えない、恐ろしく重そうなマチ付きトートだった。

 女の子はおどおどして「やだ、今日に限って荷物多いのに」と困った顔をした。


 僕は彼女の方に歩みを進めた。

 教室中の誰もが、僕に何ができるんだ、と興味津々の目で見ているのを感じる。

 机と壁の間に落ちたバックの持ち手に手を伸ばす。みんなの期待は非力な僕。アイツ、しゃしゃり出て点数稼ぎかよ、とせせら笑いたいんだろう。


 けど僕は何の躊躇もなく持ち手をつかむと、無理することなくスムーズに片手でそれを持ち上げて机に乗せた。


「うわー、柏原くん、ありがとう! こんなに重いカバン、持つの大変だったでしょう? 迷惑かけてごめんね」

「気にしないでよ。あ、僕、エコバッグ代わりにトート持ってるから荷物、分けたら?」

「あ、ありがとう⋯⋯すごい助かる」

「気にしないで」


 押しつけがましくしない。

 マウントは取らない。

 見返りは求めない。

 ここが大事、とネットに書いてあった。


「あの⋯⋯柏原くん、よかったらなんだけどね?」

 講義後、次の講義に向かおうとするとさっきの女子、岬さんがやって来た。

「忘れないうちに、これお礼。全然大したものじゃなくてごめんね」と、スポーツドリンクをもらう。ありがとう、と素直に礼を言う。


「それからあのね⋯⋯」

 岬さんは牧瀬さんたちとは違う、ちょっとおとなしめ、ファッションもナチュラルな感じの子たちのグループにいる。どこまでがナチュラルのラインなのか、わからないけど、唇がツヤツヤでプルプルのピンクだ。

 グロスってやつかもしれない。


 岬さんは続きを言い淀んで、斜め下を向いた。

 ふんわりナチュラルなショートカットがかわいい。これが女子ってヤツか⋯⋯。いい匂いがした気がする。これ系の子はきっとコロンなんかつけつない、シャンプーの匂いってヤツじゃないか?


「――あの、二の腕の力こぶ、触らせてもらっても、いい? ダメならいいんだけどッ」

 顔を真っ赤にして彼女はそう言った。

 僕は大混乱だった。

 その日は半袖のシャツで、つまりその、生身を触るのかと――。

「別に、いいよ」

 ごくり。

 女の子が僕の二の腕に触る!? これは今日から日記をつけ始めろというひとつの啓示かもしれない!


 岬さんがパッと顔を上げて「変なこと頼んでごめんね、ありがとう」と僕の方にそっと手を伸ばした。

 僕は上腕二頭筋に力を込める。最近はそれ程、力まなくても力こぶが出るようになった。

「うわー、すごいね。スポーツやってるの? カッコいい!」


 


 僕の辞書に無かった言葉が今ここに!

 ああ、神様、僕に24hoursを与えてくれてありがとうございます!!!

 牧瀬さんが、教室の対角からこっちを見ていた。

 目が笑ってない気がした。

 でもいつも通り、手は振ってくれた。


「実は最近ね、柏原くんのこと、ちょっと気になってて」

「あ、そうなの? ありがとう?」

「ふふっ」

 岬さんは重い荷物を肩にかけて持つと、さっさと行ってしまった。貸したバッグにはお弁当とベットボトルしか入ってなかった。あのカバンの重さは変わってない。

 ⋯⋯女の子って、まさに謎だ。


 ◇


 体型に自信がついてきて、着られる服も変わってきた。物によっては肩幅や胸がきつく感じられた。

 バイトは週4に増やして、サロンでおしゃべりしながらカットしてもらい、ちょっとしたセレクトショップで服を買う。

 今月の出費⋯⋯これは未来の自分への出費⋯⋯。

 洋服のタグを潔く切り離す。


「お前さ、髪切ったら全然、村上春樹に似てねぇな」

 中野はぽつりと言った。当たり前だよ、元々春樹顔じゃないよ。

「最近は女子にも話しかけられてるし、その話にお前が普通に返事してるの見てると、なんかお前、遠くなったなって思うわ」

「そ、そんなことないぞ」

「⋯⋯英語の予習もやってないこと、多いし」


 それを言われるとツラい。ジムとカテキョで時間がない。どうしても勉学が疎かになる。

 でも、二兎を追う者は一兎をも得ず、だ。ひとつの目的に対して邁進すべき。退路は断つんだ!


「すね毛、剃ったのか。シシャモになってるところ、骨じゃなくて筋肉の影が見えてるぞ。ハーフパンツなんか履くなんて、変わっちまったな、お前⋯⋯。去年は暑くてもウォッシュ加工のジーンズしか履かなかったのに」

 そのセリフは何故かグサリと胸に刺さった。


 ◇


 それでもいい。

 望んだ通りじゃないか?

 肩が鍛えられて猫背も治り、元々細身の身体に沿うように背中の筋肉も程よくついて、ヒップも引き締まった。シックスパックも当然、完全装備だ。


 ――何が不満だって言うんだ?

 バイト先の女子中学生にもそのお母さんにも、感じがいいとお客様アンケートにコメントがあったらしいし。

 万事が上手くいっている!

 こんなこと、今まであったか?

 勉強だけできたって大学には入れても面接で落とされるだろうが!


 ◇


 時々、牧瀬さんとすれ違う。

 甘い香りが漂う。

 茶色くやわらかい髪がふわっと風に舞う。

 いつも通り、今も彼女は小さく手を振ってくれる。僕は自信を持って手を振り返せるようになった。

「やぁ」という感じで。

 彼女はそれは見なかったように、すぐに前を向いて去っていく。


 ――何かが、変わった。


 確かに僕は変わった。

 半年経つと明らかに目に見えて違いがわかるくらいに。おどおどと人前で隠れる僕は消えた。


 周りが例えマッチョばかりでも、僕は怯まず24hoursに堂々と入れるようになった。

 通い始めたばかり、といった子に「どのマシンで鍛えてますか?」と度々聞かれるようになり、自信を持って教えてあげられるようになった。


「完璧な細マッチョですよね。僕もがんばります」

 がんばれ、青年。継続は力なり、だ。


 ◇


 落ち葉がぽとりと自然に落ちていく季節、構内の小道を歩いていると偶然に牧瀬さんと出会った。はらはらと落ち葉が風に揺れる。


 彼女は向こうから、僕はこっちから。

 すれ違いざまに手を上げようと気持ちの準備をしながらドキドキその瞬間を待つ。

 彼女は前から来る僕に気づいてないのか、うつむきがちだ。ニットのワンピースに細いベルトという華奢な体つきに、茶色いブーツを履いていた。ことり、ことり、距離が縮まる。


 でも、手が上がる様子もない。

 それどころか顔さえ。


「牧瀬さん、ぐ、偶然だね」

 僕は思い切って自分から声をかけた。初めてだ。

 自分に自信をモテるようになったからといって、すぐに女子に対して免疫がつくようにはならなかった。

 恥ずかしくて、体が縮こまりそうになる。

 いや、多分この日のための神の啓示だったんだ。落ち着け。勇気を持て。自信を持つんだ。


「柏原くんて――」

 胸が大変なことになって爆発しそうだ。どんなに鍛えても、心臓までは及ばなかったみたいだ。

 彼女いない歴=年齢の僕は、彼女の顔を真っ直ぐに見て、今こそ、を待つ。


「柏原くんて――、なんかつまんなくなっちゃったね。わたし、すきだったよ、前の柏原くん」

「え、ど、どこが?」

「背が高くて細くて、関節が出てるところとか、手を振ると照れた顔して振り返してくれたりとか。みんなにはわかんない柏原くんの良さみたいなの、無くなっちゃったね」


 頭の中にツーという、電話が不通の時の、あの音が響いた。話の内容が噛み砕けない。


「なんで? 僕は牧瀬さんがシックスパックすきだって言ってたから!」

「⋯⋯それっていつ?」

「大木さんがシックスパックすきだって言ってた時」


 彼女は顔を背けた。

 完全に僕を見ていない。

 なんでだ? どうしてだ? どこで間違ったんだ?


「ああ、そんなこともあったかもね。話、合わせただけ。こんなこと言いたくないけど筋肉質の人ってちょっと無理なの。熱血って感じ。――柏原くんもさ、他人の話に振り回されるより、素の自分の良さを大事にした方がいいよ」


 ことり、ことり、とブーツの音は後ろに去っていった。

 ⋯⋯僕は今まで何のためにたくさんの犠牲を払ってこの体を作ったんだ?

 最初は牧瀬さんに好かれたい一心だった。

 でもよくよく考えてみると、途中からは虚栄心に満ちた、それはエゴでしかなかったんじゃないか?


 肉体を改造しても、どうやら涙腺は鍛えられなかったらしい。僕は自分の馬鹿さ加減を思い知った。涙が後から後からこぼれ落ちた。

 初心忘るるべからず。

 何故、この言葉を忘れてしまってたんだろう――。


 ◇


 ブーツの音が不意に止まる。

 ことり、ことりと今度はさっきよりスピードを増して、近づいてくるのがわかる。

 すっかり男らしくゴツくなった腕で、涙を拭く。涙を拭いても、しゃくりあげてたら台無しだ。

 いや、もういいのか。⋯⋯フラれてしまったんだから。


「柏原くん、やっぱりすき!」


 牧瀬さんは後ろから抱きついてきた。

 僕の締まったウエストに腕を回して。

「完璧な人はどこにもいないし、そんなふうに純粋なところがやっぱりすきなの。もう無理してブランド物とか身につけないで!」


 うん、と腕で涙を拭きながら僕は二度うなずいた。


「他の女の子にちやほやされないで。冴えなくていいから、浮気しないで」

「う、浮気なんてしてないよ⋯⋯。僕はずっと牧瀬さん、だけを⋯⋯」

「ほんとに? 岬ちゃんとか梨花ちゃんとかに愛想よくしてたじゃない」

「ほんとだよ。牧瀬さんだけだよ。ダサくても、僕をスルーしないで会う度に挨拶してくれたの⋯⋯」


 あの日々が蘇る。

 彼女がさりげなく軽く手を上げて、指先をヒラヒラっとさせてそっとシグナルを送ってくれる。

 そうだ、あれはシグナルだったんだ。

 馬鹿だな、僕は。やっぱり――。


「約束して、もう『24hoursには通わない』って」

「え!? なんで知ってるの?」

「見たの、何度も。わたしのアパート、あの近くなんだもの」

 恥ずかしくて穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。

「約束だよ」

「うん」

 僕たちは小指と小指を結んで、そして仲直りした――。


 ◇


「最近、柏原、また春樹化が進んでるぞー。知ってるか、あの人、トライアスロンもやるんだってよ。お前もせっかく鍛えてたのに、筋肉は秒で落ちるらしいぜ」

 もったいない、とまるで自分の事のように中野はため息をついた。

 そうか、村上春樹はアスリートだったのか。

 でもそんなことはどうでもいいことで、初志貫徹、僕には彼女さえいればいいんだ。


「お待たせ!」

「ううん、ちっとも待ってないよ」


 彼女は今日も満面の笑顔だ。僕は24hoursを退会して、いつでもウォッシュ加工されたジーンズを履く『ダサ男』に戻った。

 千円カットだって、彼女はやさしく指先でわしゃわしゃして喜んでるんだから、それでいい。


「牧瀬さん、コイツ、どんどん退化してるけどいいの?」

 中野が深く心配そうにそう言った。

「いいの。どっちかって言うと、またカッコよくなっちゃったら誰かに盗られるかもしれないし。本当にいいところはわたしだけが知ってればいいんだよ。それじゃ、またね、中野くん」


 背中から「今、俺の名前、牧瀬さんが呼んだよな?  な?」という中野の情けない声が聞こえた。


 ◇


 人生勝ち組になるのは難しい。

 僕は今回のことで、そう学んだ。


 ふふふっ、と腕を組んで彼女は笑った。

 シックスパックも上腕二頭筋の力こぶも、今はもう衰えるばかりだ。プロテインも飲まない僕は、ひょろひょろの体にどんどん戻る。

 彼女のすきな僕に――。


(了)

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