四章 魔女のマベルは秘密が欲しい! ①

「はい! ユーグ先生!」

「先生ではない!」

 テンション上がりっぱなしのマベルはついつい、ユーグの事をまた先生と呼んで怒らせてしまっていた。そこに、先生と呼んで逆上させる事で冷静さを失わせ、裁判を有利に進めようなどといった思惑がある訳ではなかった。

 ユーグは一度目を閉じ、「落ち着け。魔女に惑わされるな」と自分に言い聞かせる。

 沸騰しかけた頭は冷えたが、その分心に澱が降り積もっていく。

 目を開けたユーグは用意しておいた羊皮紙に目を落し、読み上げる。

「魔女マベル・グランサージュは、プロット王国第二王子、アジェール・ルイ・プロットを毒物によって殺害せしめんとしたものである! よって、魔女マベルを『悪しき魔女』と認定し、これを以て浄化の儀を執行すべしと判断するものである!」

 魔女が王城に囚われていた事を知らなかった者、知ってはいたが何の罪かは知らなかった者は、明らかにされた魔女の罪状に騒然とした。

「卑劣にも、魔女マベルは薬と偽りアジェール殿下に毒を盛った! その現場は同行した多くの兵士、そしてこの私自身の目でも確認している! 何か反論はありますか?」

 都合良く切り取られた状況証拠に、雑な理論展開。

 本当に現場に居た兵士たちなら知っている。その後のマベルによる必死の救命措置を。

 だがこの場にそんな者は呼ばれていない。

 そもそも証人などというもの自体が、この裁判には存在しない。

 ただ一方的に審問官であるユーグが、マベルの罪とやらを言い立てているのが、この裁判の実態だ。

 裁判が開かれた時点で判決は決まっており、どんな反論をしたところでユーグに都合の良い証拠とやらが出てくるのは間違いない。

 これは裁判という名の、ユーグによる公開私刑であった。

 よって、マベルから何か言うべき事など存在しない。

「ありません」

 全く悪びれもせず言い切るマベルの姿に、周囲の観客たちから罵詈雑言が浴びせかけられる。

 しかし、どれほどの悪意に晒されようともマベルは小動こゆるぎもしない。しかもその顔に浮かぶのは、強い決意でも覚悟でもない。笑みだ。

 そう。マベルは笑みを浮かべていた。それも、極々自然な笑みだ。

 不敵に笑うでも、嘲笑うでもなく、はたまた慈愛に満ちた笑みでもない。

 朝の挨拶でご近所さんに向けるような、何の変哲もない、極々在り来たりな笑みだ。

 それをこの場、この瞬間に浮かべている。

 その異常さは、真正面で向かい合うユーグの心丹を寒からしめるに十分だった。

 事ここに至るまで、ユーグはマベルの事を内心侮っていた。

 なまじ村で教師役として面倒を見て来た事もあり、マベルという少女を知っている心算で居た。ユーグの知っているマベルとは、明るく活発で優しい心根の、特に珍しくもない普通の少女だった。魔女の弟子であるという事を踏まえても、特筆するべき点はなかった。

 しかしそれは所詮、知っている心算でしかなかった事を、ユーグは理解してしまった。


 マベルもまた、魔女である、と。


(何故だ……。何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ……! 何故そんな顔で私を見る! お前の命が懸かっているのだぞ! 抵抗できないお前を散々に痛めつけた私を! 怒れ! 憎め! 悔しがれ! そうでなければ……。そうでなければ……)

 ユーグの顔はマベルとは真逆に、苦しそうに歪んでいく。

(私がして来た事は何だったというのかっ! 私はお前にとってそれほど取るに足らない存在だとでも言うのかっ! 師を無惨に殺され、自身も拷問にまで掛けられ、そして今死を言い渡そうとしている私に対し、お前まで私が無価値だと、そう言うのかっ!)

 握りこまれた掌からは、爪が皮膚を破り血が滲み出ていた。

(否! 断じて否だ! 私は無価値などではない! そんな事は認めない……絶対に認めない! 私は! あなたの為なら、あなたの願いなら、あなたを殺す事さえ受け入れたじゃないか!)


「ねえユーグ。貴方、私を殺してくれない?」

「は? 何ですか突然。嫌ですよ。どうして私がそんな事をしなければならないのです」

「いやね、あの娘も一人前になったし、そろそろ私も子離れの時期だと思うのよ。だから、ね?」

「それならマベルを独り立ちさせれば良いでしょう」

「それは嫌。あの家も、この村も、全部、ぜーんぶあの娘の為に用意したんだから。全部あの娘の為の物。あの娘に全部あげたいのよ。だから、出て行くのは、私」

「では、そうなされば宜しいのでは?」

「うん。だから貴方に殺してほしいのよ」

「全く意味が分かりません」

「あの娘は私が言うのもなんだけど、凄い娘なの。そして私の事が大大大スキなの。勿論私はもっともおっとあの娘の事が好きなんだけどね。私の弟子たちもそうだし、他の魔女たちからも愛されてる。私とマベルだったら、間違いなく皆マベルの味方をするわ。私だってそうするし。だから、生半可な事じゃ直ぐに見つかって連れ戻されちゃうわ」

「はあ……」

「だから徹底的に。死体も、魂の痕跡さえも残らないくらいに」

「仮に私が引き受けたとして、それ程の力は私にはありませんよ」

「大丈夫! その辺は私が上手くやっておくから。ユーグは演出を手伝って欲しい訳よ。その方が説得力が出るでしょ。ね? お願い」

「無理なものは無理です」

「受けてくれたら、ユーグの言う事『何でも』聞いてあげるから。直ぐは無理だろうけど、必ず約束は守るから。ねね? 悪い話じゃないでしょう」


(はは。信じた私が馬鹿だったのだろう。あれからあなたから音沙汰はない。まるで私など存在しなかったかのように。私はあなたを恨み、憎んだ。その行き着いた果てがコレか。あなたの弟子にまで私はその視界に、脇役としてしか映っていない。あれだけの事をしてやったというのに、それでもあなたは私の前には現れない。そしてマベル──あの娘も私を見ていない。あの娘が見ているのはもっと遠く、遥か先の……何かだ)

 深く、黒く澱んだ怨讐の念で限界まで張り詰めていたユーグの精神こころは、マベルのたった一つの笑みで壊れてしまった。

 それでもユーグは止まらない。いや、壊れてしまったからこそ、止まらなくなってしまった。

(あの娘をあなたの許に送った後、私も其方に行くとしよう。そうだ、それが良い。そうすれば誰も悲しい思いをせずに済む。ははは。どうしてこんな簡単な事に今まで気が付かなかったのか)

 ユーグの震えは止まっていた。

 再び目を開けたユーグの表情は、聖人と見間違うが如く晴れ晴れとしていた。

「異議はないものと認め、これを以て判決を言い渡す。魔女マベル・グランサージュを『悪しき魔女』と断定し、これを浄化の儀にて神の御許へ送る事とする!」

 ユーグが周囲の観衆たちにも聞こえるよう声高らかに宣言し、白紙の羊皮紙に判決を書き記す。この判決文にサインと聖印を押印すれば刑は確定する。

 判決文にユーグのサインが施され、聖印が彫られた印章を手に取ったその時だった──。

 どこからか射放たれた正確無比の矢が、ユーグの持つ聖印だけを貫いていた。

 印章を刺し貫き、地面に突き立った矢に周囲は騒然とする。

 鋭い者は矢の刺さった角度から発射地点を計算し、そちらに視線を向けた。キョロキョロと視線を彷徨わせていた者たちも、一点を見つめる彼らに倣ってそちらに視線を向ける。

 館の屋根の上に三つの人影があった。太陽を背にして立つその姿はハッキリとはしないが、大きな影が一つと、比較して小柄な影が二つだ。

 その三つの影の内の一つが、その場に居る全ての人間の視線が向けられるのを待って、一歩進み出る。

「何者だ!」

 立ち上がったアジェールが鋭く詰問すると、影は待ってましたとばかりに返事を返す。

「私は独立審問官、アイリス・プリスカ・ミシェル・ラ・フォンテーヌ! その判決に異議を唱えるわ!」

 とうっ!

 と屋根から飛び降りるアイリス。

 二階建てである館の屋根は、地上から優に七メートル前後はある。下手をすれば大怪我では済まない高さだというにも係わらず、その挙動に僅かな恐れも躊躇もない。

 周囲から上がる悲鳴を他所に、ズドン! と大きな音を立てて着地したアイリスは、当然の様に平然とした様子でマベルの傍に歩み寄る。

 それに続いてもう一つの小柄な影──エミリーも、相変わらずのメイド服で、こちらはふわりと屋根から舞い上がったかと思うと、ストンと静かに、そして優雅に着地を決める。落下の最中も、スカートが捲れ上がり下着を晒すなどといったはしたない失敗は犯さない。

 残る最後の影──は、飛び降りたりなどせず、屋根の淵に腰掛けて傍観の構えだ。

 ただ、その手に弓が握られていたのをマベルは見逃してはいなかった。

「ユーグ・ベルナール司教! この裁判の、即時解散を命じます!」

「馬鹿な事を。いくら独立審問官といえど、他の審問官が執り行う裁判を邪魔する権限はありません。判決の出た裁判であれば猶更です」

「碌な調べもせず、一方的に罪を言い立てるだけのこんな裁判。私が認めはしません」

「貴女が認めようが認めまいが関係はありません。裁判の参加者ですらない貴女に異議を申し立てる権利などありはしないのですから」

「では、私からでなければ良いのね?」

 アイリスはマベルを見る。

 さあ、言ってやんなさい、と。

「アイリスさん……」

 リオネルからの報せで確かに少し期待はしていた。でも本当に来てくれるとは思っていなかった。しかも、まさかこんな場面でとは。マベルは驚きと共にこれからの予定の、急遽変更を余儀なくされる。

 しかしそれは嬉しい誤算だ。今のこの状況に比べれば、自分の立てていた計画などゴミ屑同然。カスにも等しい。

 だって、アイリスさんが助けに来てくれたんだから!

 しかもしかもしかも! あの影は間違いなくヴィクトル様……。

 マベルは望外の喜びで泣き出しそうだった。

(友達とす……好きな人が同時に駆け付けてくれるなんて……っ! 嬉しすぎて死んじゃいそうだよ)

 緩みそうになる顔を隠す様に、マベルはとんがり帽子の鍔で顔を隠してしまう。

「マベル? もしかして、泣いてるんじゃないでしょうね?」

「アイリスさんのばーか。泣いてるわけ……ないでしょ」

 ゴシゴシと荒っぽく袖で涙を拭う。

 再び覗かせた顔には力強い笑みが浮かび、瞳が爛々と輝いていた。

「今から判決が覆る事はありませんよ。判決は既にここに記されているのですから」

「あは! そんな物……『燃えて消えろ』!」

 マベルが手を一振りすると、ユーグの持つ羊皮紙が独りでに燃え上がった。

「なっ!?」

 慌てて判決文から手を放すユーグ。火はあっという間に羊皮紙を只の灰へと変えた。

「魔法だ……。魔法を使ったぞ!」

「どうなっている!? 魔法は封じているはずじゃないのか!?」

 マベルの首には魔法を封じる──と信じられている首輪が付けられたままだ。

 確かに、この首輪には“ある程度”魔法を封じる力があった。首輪の力は魔力の生成を一定程度抑制するもので、それを超える量の魔力を生成すれば魔法は使える。従って、元々魔力など皆無のマベルには何の意味もない物なのである。

 そしてアイリスは見逃さなかった。

 マベルの手から小さな火種が放たれ、それがユーグの持つ羊皮紙を焼いた事を。

(ふぅん……。直接燃やすのではなくて、小さな火の玉を高速で飛ばす、か。それもこんな間近に居る私にすら魔力を感じさせずに)

 肝心な所は見逃しているアイリスは、益々誤解を深めていく。

 マベルは私が認めた魔女よ。封じの首輪なんかで抑えられる訳がないじゃない、と。

 実際の所はと言うと、リオネルが持って来てくれたマベルの魔女道具から仕込んでおいた、粘着性の高い着火剤を投げつけたのだ。着火剤は球状に丸めて袖の内側に幾つも仕込んであり、手の動作で簡単に着火、そして発射まで出来るようになっているのだ。

 ふふん。と得意気にしているアイリスに、エミリーは胸の内でそっと溜息を吐いていた。

「あらら。判決は消えてしまいましたね。どうしましょうか」

 これが本当にほわほわした笑顔を振りまいていたあのマベルかと思うほど、マベルの態度、表情、声音。何もかもが豹変していた。

「何を……!」

「そうですね。折角なので、今度は私が毒を盛ったという証拠を見せていただきましょうか」

「そんなに見たければ見せてやろう」

 ユーグは脇に置いてあった小箱から、証拠の毒が付着したカップを取り出し掲げてみせる。そのカップには確かに、変色し青みがかった何かが付着していた。

 ユーグはその付着物を棒で少しこそぎ、これもあらかじめ用意しておいた鼠に与えてみせる。

 程なく鼠は小さな檻の中で暴れ出したかと思うと、直ぐに動かなくなってしまった。

 まさしくそれは毒に間違いがなかった。

「見なさい! これが毒でなくて何だと言うのです!」

「そうですね。そのカップに付いているそれは、確かに毒でしょう。その青みがかった色から見て、恐らくポックリ草の葉の汁だと思います。ですが、それはおかしいですね。殿下が飲まれた毒はポックリ草の蜜と雪隠れの根を混ぜた物。変色具合にもよりますが、その毒物は蜜の影響を受けて黄みがかった色になります。大方、東方固有種である雪隠れが手に入らず、似た症状を引き起こす葉の汁を使ったのでしょうが、失敗でしたね」

「そんな事は貴女が勝手に言っている事に過ぎません。どこに殿下があなたの言う様な毒を飲んだという証拠があるのです?」

「確かに。殿下が飲んだ毒を確定付ける様な証拠はありません。ですが──」

 マベルはおもむろに、魔女服の中から一つのカップを取り出した。一体何時から何処に隠し持っていたのか。

「殿下が使われた『本物』のカップなら、ここにありますよ」

「それが『本物』だという証拠は?」

「私の監視をしていた兵士さん二人と、倉庫で見分したときの兵士さん一人が証人です。付着していた物の色を見ればどちらが本当の事を言っているか分かるでしょう」

「残念ながら、その兵士たちの証言は証拠にはなりませんね」

「何故でしょうか?」

「魔女と接触した者は、その魔女に魔法を掛けられている可能性がある。特に貴女は封じの首輪をしていても魔法を使ってみせた。魔女に対抗する訓練を積んだ審問官ならいざ知らず、普通の兵士に魔法に抗する術はありません。従って、その兵士たちは魔法で操られ、貴女に有利な発言をするものと推定されます。その様な者たちの言葉は確たる証拠とは言えないでしょう」

「…………」

 そう。こう言われる事は分かっていた。

 例え魔法を使っていなくても関係はない。魔女と言葉を交わしたかどうか。魔女と接触したかどうかが重要なのだ。当事者であるアジェールがこの裁判で一切発言をしないのもそのせいだ。

 だからさっきは何も反論をせず、判決を受け入れた。

 反論をした所で意味などなかったからだ。

 しかし今は違う。

 マベルの隣には、独立審問官たるアイリスが居る。

 今この場で、最も発言力のある人物であり、最も頼りになる人物だ。

 こうして駆け付けてくれたのは、何か掴んだからに違いない。マベルはそう期待していた。

「ふふ。そう言われると思っていました。さあ、アイリスさん。ユーグ司教に見せてあげてください。決定的な証拠を、ね」

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