二章 魔女のマベルは時間が欲しい! ③

「首尾は如何でしたか殿下」

 アジェールが留守の間行っていた執務の手を止め、老宰相はアジェールを出迎えた。

「良い取引だった。それと、魔女の方も悪くない。少々幼さが残っているが、いつも同じではつまらんからな。今から楽しみだ」

「火遊びも結構ですが、仕事が溜まっておりますぞ」

「分かっている。直ぐに取り掛かろう。──おっと。そうだ」

 アジェールは帰りの道で会った、東方の旅商人から買った品を机に並べる。

「帰りで偶然見付けてな。土産にと思って買って来た。何か気に入ったものがあれば持って行って構わないぞ。というか、何か持って行け」

「見たところ本物の様ですな。珍しい」

「当たり前だ。この私が偽物を掴まされるものか。その位の目利きは出来る」

「これは失礼致しました。では、こちらの磁器の小皿とカップをいただきましょうか」

「では、残りは城の者に配っておいてくれるか?」

「承知いたしました。皆、喜ぶことでしょう。ですが、殿下の分は良いのですかな?」

「私の分はもう取ってある」

「然様でしたか。では、その様に致しましょう」

 老宰相はアジェールの土産持って、執務室を退室して行った。

「フ……。魔女か……。二か月後が楽しみだな。余計な邪魔が入っては面白くない。少々手を回しておくか」

 アジェールは、外では決して見せる事のない嗜虐的な笑みを浮かべていた。


          ◇


 アジェールの電撃訪店から一夜が明けると、マベルは早速活動を開始した。

 何はともあれ、先ずは元となる素材の確保が必須である。

 必要な素材は多岐にわたる。植物原料、動物(虫等も含む)原料、そして鉱物原料と大きく分けて三つ。そして、それぞれが複数種類。主原料とは別に触媒、添加物なども必要で……と、マベルは必要な物と量をリストアップしていく。

 何せ千人分だ。

 今まで一度も作った事がない量で、正直言って間に合うかどうか実は不安がある。

 一応今までで作った事がある百人分の量を参考に、期間を設定はした。

 大丈夫なはず……。ううん。絶対やってみせる!

 マベルは自らをふるい立たせて、猛然と羊皮紙に書き殴っていく。

 地下の貯蔵庫にある在庫を再確認。追加で必要な量を記載していく。

「千人分なんだから、単純に十倍? ううん。失敗した時の事も考えて、ある程度の余裕は欲しい……。かといって余り余分に用意しても無駄が増えるし集めるのに時間も掛かるし……。うーん……」

 悩ましい問題に頭を抱えながら、初日を終えた。

 勿論、通常業務と平行して。


「出来た!」

 バァン! と勢いよくマベルが部屋の戸を開けて出て来たのは、実に日を跨いでから。

「今、何時だと思ってるのよ……」

 その騒々しい物音で叩き起こされたアイリスが、少し眠たそうに文句を言う。

 それもその筈。時刻はまだ午前二時を回ったところ。外も中も真っ暗。普段であればマベルたちもまだぐっすり寝ている時間帯である。

「おめでとうございます」

 と、いつも通りなのエミリーくらいだ。しかも何故か皺一つないメイド服まで着ている。一体どうなっているのか。

「今日からはこの素材を全部揃えるところから……始める……ょ……」

 バタン。

 寝ずにずっと計算していたマベルは、心が緩むと同時に力尽きて床に倒れこんでしまったのだ。

「全く。無理するんだから」

 アイリスはそっとマベルを抱え上げ、ベッドに寝かせた。

 マベルの部屋から出て来たアイリスに、エミリーがそっと声を掛ける。

如何いかがなさいますか、お嬢様」

「如何も何も、あの様子じゃ今朝は流石に起きて来ないでしょ」

 チラっと、マベルの部屋の戸を振り返る。

「という訳で、私たちだけで集めて来ましょう。幸いリストはここに在る訳だし、知らない名前の物は置いておいて、取り敢えず分かるのだけね。どうせ今日で集めきれる量じゃないでしょ」

「畏まりました」

 もう随分と慣れた様子で採取の準備を整えるアイリスと、それを手伝うエミリー。

 準備が整うと、マベルを起こさない様に静かに家を後にする。夜闇に包まれた山へ分け入るのももう手慣れたもので、僅かに差し込む星明りだけを頼りにスイスイと進んで行けるようになっていた。

 主従二人だけでの初めての採取は、思った以上の成果を上げていた。


「──うぅぅぅぅ…………んん?」

 何だか眩しい。

 閉じられたカーテンを突き抜ける強い日差しがマベルの部屋を薄く照らし、隙間からの光がマベルの顔まで届くようになると、マベルは強い違和感と共に覚醒した。

「────っあああああああああああああああああああああ!」

 マベルの全身を凄まじい焦燥が駆け抜ける。

 魔女になってからは只の一度としてした事がなかったアレを。

「寝坊したっ!!」

 何たる失態。これじゃあ魔女失格だわ! もう死んじゃいたい……。

 大袈裟過ぎる程に落ち込むマベル。因みにだが、マベルほど勤勉な魔女はそうは居ない。魔女などというものは皆、良く言えば自由奔放、良く言わなければ自堕落な生活を送っているものだ。これは何派とかに係わらず、だ。寝坊した程度で魔女失格なら、この世界には魔女など一人も居なくなる事だろう。

 そんな魔女の実態をひた隠されているマベルは、魔女は立派な人だと思い込んでいた。

 何故かどんな魔女も、マベルの前だと良い格好をしたがるせいだった。

 そんな事もあってか、寝坊という大失態に思考が負のスパイラルに陥り掛けていたマベルの視界に、派手にスッ転んであられもない姿を晒しているアイリスの姿が入って来た。

「プッ。何してるんですかアイリスさん。年頃の淑女がはしたないですわよ」

 自分より酷い失態を犯している人を見て、かなり心に余裕が出来たようだった。

 一方のアイリスは起き上がって服の乱れを直し、元気そうなマベルを見て一安心すると、ツカツカとマベルの傍まで歩み寄る。

「あ・な・た・が! とんでもない声を上げるから、飛んで来たんじゃない!」

 ズビシ! ズビシ! と指でマベルのおでこを突っつきまわす。

「あう! あう! うう……ごめんなさい……」

「分かればよろしい!」

「はあ……。でも、今日予定してた分どうしよう……」

「足りてるかどうか分からないけど、貴女が寝てる間に出来るだけ採って来たわよ」

「えっ!?」

 アイリスの言葉に飛び起きたマベルが貯蔵庫に向かうと、そこには満杯になった籠が二つ置かれていた。

「──っ! アイリスさん……っ!」

「な、何よ?」

「ありがとう!」

 気付けばマベルは、ぎゅーっと、力いっぱいアイリスをハグしていた。

「べ、別にどうって事ないわよ」

 赤くなった顔を見られないように、フンと逸らすアイリス。

 アイリスをハグしたまま、マベルはエミリーに顔を向ける。

「エミリーさんも! ありがとうございます!」

「いえ。お嬢様に従ったまでです」

 相変わらずの無表情で返したエミリーだったが、両手が僅かにハグ待ちの構えをしていたのを、ノワールだけが見逃さなかった。

「よーし! 改めて、今日から頑張ろー!」

「いい加減に離しなさいっ!」

 マベルの平穏な魔女生活始まって以来の、怒涛の二か月間の始まりだった。


 前半の一か月はひたすら素材集めに奔走した。

 初日から寝坊するというハプニングはあったものの、その後はいつも以上に体調に気を付けたため、順調に素材は集める事が出来た。

 村や山で手に入らない物は、町や王都の方まで買出しに行く必要があった。往復にそれなりの日数を要する計算だったのだが、アイリスたちが引き受けてくれた事で、マベルはその間も村で素材集めに集中する事が可能となった。お陰で、少し予定より早く、十二分な素材を確保する事が出来たのだった。

 貯蔵庫には冷暗所での保管が必要な物だけを詰め込んだ。それでもかつて見た事がないほど荷物で溢れかえっていた。それ以外の物も物置などにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 西方世界ではまだ薬の素材は薬の素材として売られては居なかった。何故なら、それららが薬の素材だと知られていないからだ。そのため、薬用に加工などしてあるはずもなく、元のままの素材を買い、自ら加工しなければならないのだ。嵩張るのは当然の帰結であった。

「壮観だね」

「こんなに本当に必要なの?」

「うん。ある程度余分に用意はしたけど、使える分って案外しれてるんだよ」

 それからの二週間は、ひたすら素材から成分を抽出する作業に忙殺された。

 ある薬草は、樽一杯に詰め込みその上に蓋を被せて重しを乗せる。樽の下から出てくる圧搾液を丈夫な紐の付いた容器に移し替え、それをひたすら振り回す。何時まで? 何回? 中身の液が分離するまでである。

「うおおおおおおおお!」

 やり始めの頃はそれなりに楽しい作業なのだが、疲れてくるとこれほど過酷な作業はない。回転速度が落ちれば落ちる程、中の液が分離せず、作業効率が著しく落ちていくからだ。

 見かねたアイリスが、

「貸しなさい。こういうのは私がやってあげるから、貴女はもっと専門的な作業に集中しなさい。いいわね」

 マベルの数倍の効率で、作業を進めていく様は、まさに天の助けだった。

「あなたが神か」

「大袈裟!」

 暫くして十分に振り回された容器開け、マベルは一番上の層だけを掬い取る。

 量にして十数mlといったところ。元になった薬草の量からすると極々僅かだ。

「それだけ?」

「これだけ」

「残りは?」

「今回の薬には使わないよ。他の物に使えるから、捨てたりはしないけど」

 そう言うと、残りの液を別の容器にダバーっと流し込む。

「これで終わりかしら?」

 少し頬を上気させながらも、まだまだ余裕を見せるアイリスに、マベルは大変申し訳なさそうに指し示す。

「あそこにある分、全部お願いします……」

「うげ……」

 山と積まれた薬草に、アイリスの口から、らしからぬ苦鳴が漏れた。

 それは、樽に入れた分の数十倍はありそうな山だった。


 またある薬草では、一刻程煮出した汁を、粉末状になるまでひたすら蒸発させていく。力は要らないが、只々時間が掛かる。焦がすと駄目になるので、誰かが付きっきりで面倒を見なければならない。

「焦げ付かない様に水分を飛ばせばよろしいのですね。お任せください」

「エミリーさん……っ!」


 ──等々。二人の献身的な協力もあり、無事全ての素材を加工し終えたマベルは、最も神経と集中力を使う調合の作業へと移った。

 貯蔵庫を埋め尽くしていた素材たちは、今では搾り滓や削り滓となって家の裏に山と積まれている。仕事が片付いたら飼料や肥料にする予定である。

 ここからは流石にアイリスたちに手伝ってもらう訳にはいかないため、一人孤独な作業になる。量は膨大だが時間には余裕があるが念のため、ここからはお店は暫く臨時休業にした。緊急の場合はアイリスさんかエミリーさんを通して報せてもらえる様に頼んでいた。

「あんまり根を詰めすぎるんじゃないわよ」

「どうかご自愛くださいませ」

「気を付けます……」

 二人の憂慮を胸に刻み、マベルは工房に篭った。

 三食をキチンと摂り、夜は普段通りの時間に寝た。調合の作業が全て終わるまでは、日課の採取もお休みだ。その分の時間を、しっかりと睡眠に充てるようきつく言い渡されていた。誰に? アイリスに、である。

 それでも日に日に疲労が溜まっていっているのが分かる。作業は計画通り進んでいるのだが、期日は段々と迫り、残る作業量はまだまだ多い。いつも自分のペースで作業をしていたマベルにとって、連日不休での長時間に亘る調合作業と、未体験のプレッシャーは想像以上にマベルの神経を擦り減らしていた。

 それでも何とか体力が保ったのは、二人の忠告を守ってしっかり食べ、寝た事。身の回りの世話を、二人が何かと面倒を見てくれたお陰だった。

「で……、出来たーっ!」

 そして期限まで残り一週間というところで、マベルは全ての調合作業を終えた。

 アジェールとの契約分。千人分の薬三種を完成させたのだった。

 調合作業が終わった事を二人に報告し、意気揚々と三人で用意しておいた商品用の容器へと、保存用の容器から移し替えている時、事故は起きた。

 薬を完成させたという達成感からテンションが上がり過ぎたマベルは、疲れを感じなくなっていた。しかしその小さな体には、疲労が雪山の様に降り積もって居たのだが、二人も元気そうに振舞うマベルを見て、止める事は出来なかった。

 しかし、一時の高揚による疲労感の喪失は長くは続かない。薬が完成したという安堵感が雪解けを手伝い、疲労の雪崩が一気にマベルの体を襲ったのだ。


 ──ゴッ!


 不意にグラりと傾いだマベルの身体から、重い音を立てて、薬の入った保存容器が零れ落ちた。

「マベル!」

 床に崩れ落ちる前に、アイリスはマベルを支え、エミリーは素早く保存容器を拾い上げた。

 マベルには何処にもケガはなかった。しかし、床に落ちた保存容器からは、その多くが床に飛び散っていた。

 マベルが気を失っていたのは一瞬だった。直ぐに意識を取り戻したマベルは、アイリスの腕の中から不思議そうにアイリスを見上げていた。アイリスが向けてくれる笑顔は少し、歪んでいた。

「あれ? アイリスさん……?」

 そして、マベルの中ではつい今しがたまであったはずの重みが、消えている事に気が付く。ハッとして周囲を見回すと、自分が持っていたはずの容器を手にしているエミリーと、床に飛び散った中身があった。そしてアイリスに抱えられている自分。

(私……やっちゃった……)

 自分が意識を失い、薬の入った容器を落としてしまった事を直ぐに悟った。

 マベルの顔は青褪め、呼吸は浅く、短く、身体は固く縮こまり、小刻みに震え始める。

 抱きかかえているアイリスはマベルの異変に直ぐに気が付いた。マベルがパニックを起こしかけていると。

「マベル! しっかりしなさいっ!」

 アイリスの叱咤の声と共に、強烈な頭突きがマベルの額を襲った。

 骨と骨がぶつかり合う鈍い音が工房に響くと同時に、

「ほあああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 マベルの絶叫が響き渡った。

 額を押さえて悶絶するマベル。一方、頭突きを放ったアイリスの方は全く平気な顔だ。

 服が汚れるだとか気にする暇もなく、激痛にのた打ち回っている。

 床を暴れまわるマベルの被害に逢わないよう、エミリーが完成した薬を退避させている。

 暫くそうしている内に痛みが引いて来たマベルが、涙目でアイリスに抗議する。

「殺す気かっ!」

「殺す気なら、今ので頭をかち割ってるわよ」

 冗談か本当か、アイリスはマベルの抗議もどこ吹く風。しかし、アイリスなら本当にできそうだと思わせる。マベルもそう思ったのだろう、

「いえ……かち割らないでください……」

 不敵に笑うアイリスに勢いを完全に殺され、額を庇いながら後ずさる。

「──フフっ。調子が出て来たじゃない」

「──えっ!? あっ!」

 それはアイリスなりの治療術。パニックを起こしかけたマベルに、より強烈な衝撃を加える事で正気に戻したのだ。今回は両手が塞がっていたので、手っ取り早く頭突きを選択したという訳だった。

「うう……。それにしたってもうちょっとやりようが……。全く。やり方が野蛮なんだから」

 西方世界の一般的な治療とは、悪い所は丸ごと切り落とす。病気等は汗が出る物をやたら喰わせて、後は祈る。大体こんな感じだった。真面な治療を受けるには聖女と称される正道派の魔女たちを頼るほかなく、しかし魔女の数は需要に対して少なかった。

 だが、少な過ぎはしなかった。

 生きてさえいれば魔法で怪我も病気も治してくれる存在が居る。誰もがその恩恵にあずかれる訳ではなかったが、その安心感が西方世界で医療の進歩を遅らせていた。

 ギガ大陸各地の進んだ医療技術と知識を学んだマベルからすれば、西方世界の医療体系は野蛮の一言に尽きる。

「それで、どうするの?」

 アイリスの問いに、マベルは落とした容器の中を確認する。

(残ってるのは二十人分くらい。散らばった八十人分に必要な材料と時間は……)

 加工済みの原料の残りを改めて確認。

 十二分に用意してあったが、調合時のミスでそこそこ使ってしまっていたため、幾つかの原料が人数分作るには足りなかった。

 だが、これくらいなら──。

「作り直すよ!」

 不足している原料の素材をリストアップし、直ぐにでも飛び出そうとするマベルをアイリスが制止する。

「貴女は一晩休んでなさい。コレは私が集めておくわ」

 あっさりとマベルの手から素材リストを奪い取ると、トンとエミリーの方へと押しやった。

 軽く押されただけだというのに、マベルはフラフラとエミリーの腕の中へ倒れ込んだ。

「それと、万一私の帰りが遅くても大丈夫だから、絶対探しに来ない事。貴女は薬を完成させる事だけ考えていなさい。時間と労力を無駄にしない事! いいわね?」

「でも……!」

「い・い・わ・ね! 私待ちするくらい作業を進めておきなさい!」

「わかった……」

 不承不承頷くマベル。

「エミリー。マベルの事、任せたわよ」

「承知いたしました。お嬢様」

 テキパキとアイリスは採取の支度を整えると、颯爽とマベルの家を後にした。

 マベルがエミリーに付き添われ、一晩強制的に休まされた翌日の朝。

 アイリスは帰って来ていなかった。


「探しに──」「駄目です」

 アイリスが帰って来てない事を知った途端、飛び出していこうとしたマベルをエミリーが阻止。いつものローブを掴んで逃げられない様にしていた。

「お嬢様は『来なくていい』と言われましたでしょう?」

「でも! 山は危険なんだよ! 何でそんな平気そうなの!」

「それはお嬢様ですから」

 エミリーは相変わらずの無表情で、マベルが今すべき事をさとす。

「マベル様は少々『独立審問官』というものを侮られている御様子。魔女を実力を以て断罪する事が出来る。それだけの強さが、最低限求められるのです。それがどういう事か、魔女であるマベル様ならお分かりにならないはずがないでしょう。

 お嬢様の事を心配してくださる気持ちは心から嬉しく思いますが、今はお嬢様の事を信じて、御自身の為すべき事を為されて下さい。

 もし何も作業が進んでいなかったりしたら、帰って来たお嬢様に叱られてしまいますよ」

「エミリーさん……」

 私なんかより、ずっと、ずっと心配な筈なのに、エミリーさんはアイリスさんを信じて、自分の任された役目を果たそうとしてくれている。

 マベルはエミリーの心情を察して、思わず言葉に詰まってしまった。

 だが実の所、エミリーはアイリスの事を心配してなどいなかった。滑落しようが猛獣に襲われようが、そんな程度で死ぬようなヤワなお嬢様でない事は、重々承知しているからだ。

「分かった。私もアイリスさんを信じるよ! そんで、帰って来たアイリスさんに、『あんまり遅いから待ちくたびれちゃった』って言ってやるんだから」

「はい。その意気です」

 アイリスがマベルの家に戻って来たのは、マベルがいよいよ心配を押し殺せなくなってきた三日後の事だった。


「遅い! ……遅いよ。心配したんだから!」

 怒り泣きしながらどこか嬉しそうに、マベルはアイリスに抱き付こうとしたが、ムギュっと当のアイリスに押しのけられていた。

「遅れたのは謝るわ。そんな事より、ちゃんと準備は出来てるんでしょうね」

「そんな事じゃないよ! 山での事故は命に係わるんだからっ!」

 実際、帰って来たアイリスの姿は酷いものだった。

 服はあちこちが破れ肌が覗いているし、体は泥だらけ。マベルが見惚れる程綺麗なブロンドの髪も、今は見るも無惨な有様だ。

 しかしマベルは気付いていなかったが、アイリスの体には目立った傷が一つもなかった。

 こんな有様になるほどの事態に遭えば、それ相応の怪我を追っていてしかるべきであるというのに。

「私には無縁の話ね。それよりはい。ちゃんと採って来たわよ。私が遅れた分、余り時間に余裕がないんじゃない? 貴女こそ、また転ばない様に注意しなさいよ」

「……もうっ!」

 まだ色々と言いたい事のあったマベルだが、時間がないのもまた事実。差し出された籠を受け取ると、工房で作業をする事を優先した。アイリスの苦労を無駄にしないためにも。

 その一部始終をしっかりと見届けてから、エミリーはアイリスに声を掛ける。

「お帰りなさいませ。お嬢様」

「ただいま。エミリー。着替えを用意してくれる?」

「かしこまりました。直ぐに御用意いたします」

 言葉通り僅かな時間で着替え一式を用意し、汚れを落とすための湯浴みの支度まで整えていた。

 アイリスはエミリーに体を拭かれながら一息つくと、後の事を考えて少し顔をげんなりさせる。

「マベルは心配し過ぎね。後で散々怒られそうだわ」

「あれが普通の反応でございましょう。……何かありましたか?」

「あら。エミリーも心配してくれてたのかしら?」

「お嬢様の事でしたら全く」

「少しくらいは心配してもいいのよ? とは言っても、足を滑らせて崖から落ちた先で野盗にかどわかされて帰り道が分からなくなって、帰って来るのに時間が掛かっただけだから。うん。特に変わった事はなかったわね」

 真顔で言い切るアイリスに、エミリーは心から同情した。

「運がなかったですね」

「そうなの! あいつらってば、どうしてたかだか女一人を、ちゃんと拘束しておけないのか! 久しぶりのいいチャンスだったのにぃ」

 そもそも弱すぎるのよあいつら。仮にも悪党なら女一人くらい軽く捻りなさいよね。それが出来ないんなら罠を使うとか、抵抗できない様に弱らせるとか、そういう知恵も働かないのかしら。そんなにお馬鹿さんなのかしら。等々。アイリスの口からは野盗へのダメ出しが止めどなく溢れてくる。

(本当はマベルさん辺りを攫いに来たのでしょうに。まさかよりにもよってこんなド級変態ゴリラお嬢様を掴まされるなんて。何て運のない人たちなんでしょう)

 エミリーは心の底から、野盗たちに同情していた。

 数多の拘束、あらゆる暴力や凶器、種々の薬物、きっと色んな物を使った事でしょう。

 そして何一つアイリスには効果がなかった事でしょう。

 その時の彼らの心情をおもんぱかれば、思わず涙が零れそうになってしまう。

 エミリーは出ても居ない涙を、そっと拭っていた。

「? 何してるの。さ、スッキリしたところで、またマベルが無理してないか見張りに行くわよ」

 すっかり体に付いた汚れを落とし、着替え終えたアイリスがエミリーを促す。

「はい。お嬢様」

 

 主従コンビの監視と支援の下、マベルがアジェールの依頼、千人分の薬を何とか用意し終えたのは、約束の期日の一日前の事だった。

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