天下第一の巧者
水野酒魚。
天下第一の巧者
天帝から
彼は九つの太陽を射ち落として、地の人々の
彼は六つの厄災を討ち果たして、地の人々の暮らしを護った。
それでも。
天に帰りたいと、隠れて泣き暮らして居た妻は月に
夫は妻の悲嘆を理解しては居たが、地の人々のために悪獣退治に向かう。
妻の名を
弓の名手にして、地上の人々を脅かす、悪神、悪獣を次々と打ち倒した武神は、今やたった独り地上に取り残された。
「……
妻の居なくなった
后羿の名は
今となっては、倒すべき厄災は何処にも居ない。
英雄は
「
今日も、后羿は野に在った。薄暮の月を見上げて、彼は
「師父様、ほら、彼方に
逢蒙が、飛び去っていく雁の列を指差した。
后羿は
「いつ見ても、師父様の業は妙技でございます」
「蒙よ、お前も射てみよ。どれ程腕前を上げたのか見てみたい」
「私などは……あの距離では掠りもいたしませぬ。ご容赦下さい」
固辞する弟子に主人であり師である英雄は、宥めるようにそっと破顔した。
「謙遜するな。お前が日々鍛錬を怠っていないことを我は知っている。射てみよ」
「師父様……」
逢蒙は面に困惑とも諦めともつかない色を貼り付けて、弓を引く。
一の矢は辛うじて、雁を一羽貫いた。その矢に驚いて、雁の列は散り散りに
「……蒙よ。獲物に矢を悟られてはならぬ。気配を殺し、殺気を殺し、功名心を殺すのだ。さすれば、お前は天下第一の名手となれるだろう」
「
「さあ、獲物を探して帰ろう。今夜は雁の
逢蒙には、既に親は
長きに渡った
たった独り取り残された彼は、生きていくために職を求めた。さいわいなことに、逢蒙には武の才があった。剣を使うことも棒を使うことも弓を引くことも、彼には苦も無いこと。それで、彼は地の帝の
地を焼き焦がす十の太陽の内、九つを后羿が射落としたのはそれから間もなくのことだった。
それで、逢蒙は英雄に憧れた。
いつか自分もひとかどの武芸者として、名を上げたい。天下の人々に英雄と持て
その足で后羿の
はたして、后羿はいつしか弓の業を家僕たちに教授し始めた。それは逢蒙の思惑通りに。
逢蒙は誰よりも熱心に稽古を続けた。今では后羿の弟子たちの中で、一番の腕前で有ると自負もある。しかし。まだ足りない。何かが足りない。逢蒙は闇雲に弓を引いた。
それでも。
嗚呼、何故足りないのか。
逢蒙は飢えていた。師のように、英雄と呼ばれたかった。人々に崇められ、感謝され、畏敬を持って呼ばれたかった。
偉大な師の影に覆われて、そこから逃げだそうと
師が居る限り、この方が居る限り、自分は天下第一の
狙い澄ました矢が、引き絞った弓から放たれる。矢は真っ直ぐに、獲物目掛けて飛んで行く。
風を切る矢羽根の歌。それに気付いた獲物は振り返った。
もう遅い。さあ、当たれ!
逢蒙はほくそ笑み、師の眉間に矢が突き立つ瞬間を待ち望んだ。
自分に向かって飛んでくる、矢。
電光石火。后羿の放った矢は逢蒙の矢を正面から打ち落とす。
地に落ちた矢を拾い上げて、后羿はふむ。と独りごちた。
逢蒙が隠れた木陰に向かって
「蒙よ。今の一射は悪くなかった。危うく我の眉間に突き刺さる所であった。良くぞ腕を上げた。ただ、お前は殺気を放ちすぎる。それでは獲物にお前の存在を悟られてしまうぞ」
「……師父様」
必殺のはずの一射は、危なげ無く打ち落とされてしまった。愕然と逢蒙は微笑む師を見つめる。
后羿は、弟子を
逢蒙の面に朱が上る。しくじった口惜しさと、師を手にかけようとした
逢蒙が事を仕損じてからも、后羿は彼を
逢蒙は、それから従順な弟子の仮面を被り続けた。師を立て、主を敬い、家僕としても后羿に尽くした。
地上に降りて、神としての籍を失っている后羿は少しずつ老いて行く。
逢蒙は密かに、その時を待っていた。
后羿の矢が、大きな鹿の脳天を貫いた。既に時刻は夕刻に近い。一つだけ見逃した太陽は、地の彼方に沈もうとしていた。
これが今日最後の獲物だと、后羿は思った。既に
后羿は成果に満足して、鹿の
旱魃を生き延びて、地の人々は少しずつ
彼が弓を教えた弟子たちは、その腕を存分に生かして、有る者は帝の兵となり、有る者は狩人となり、有る者は子供達に弓を教える師となった。
だが、弟子の中でも、一番の腕前である逢蒙は変わらず自分に仕えてくれている。近頃ますます腕前を上げた彼と一緒に狩りに出る事は、大きな楽しみだ。
背後に気配がする。今日の共は逢蒙だけ。后羿は振り返らずに、声を掛けた。
「蒙よ。これは大物だ。さあ、手伝っておくれ」
作業を続ける后羿の脳天を、不意に衝撃が襲う。
「……ぁ」
何事か。混乱する暇も無かった。
どうっと英雄は野に倒れ伏し、身動きすることも出来ずに襲撃者を見上げた。
「……貴方がもっと早くに地に下っていれば。もっと早くに太陽を射落としていれば。俺の父母は死なずに済んだ」
逢蒙はそう
「だから
それが己をも偽る弁解で有る事を、逢蒙は
何度も何度も。師が血に
弓の腕では、いつまで経っても師に敵うはずが無い。このままでは、俺は何時まで経っても天下第一の巧者になど、成れやしない。
では、どうすれば。簡単なことだ。別の手段を採れば良い。
その為に機会を待った。懸命に仕え、必死に殺気を殺した。
とうとう絶好の機会がやって来た。事を成し遂げた高揚感で、逢蒙は面を歪めた。
「あーはっはっはっ!! やった! やったぞ!!」
高らかに、彼は笑う。
「あんたさえ居なければ! これで、天下第一の弓巧者は俺だ!! この世に俺以上に弓を極めし者はいない!! 俺こそが英雄だ!」
それが本当に偽りの無い、逢蒙の本心だった。
逢蒙は師で有り、主であった英雄の
后羿が天の帝に賜った丹弓と玉で出来た
師は大鹿を追いかけ野を駆ける内に、いつの間にやら居なくなってしまった、と逢蒙は
きっと、奥方様を追って天にお帰りになったのだと。
残されていたのは、この丹弓と玉扳指だけ。
邑人はそれを聞いて、大層悲しんだ。
どうか地にお戻りになって下さいと、天に向かって
「いつまでも悲しがって居てはいけない。もう師父様はいらっしゃらないのだから」
そんな逢蒙の言葉を聞いても、邑人達は悲嘆に暮れたまま。
何時まで経っても、逢蒙を英雄と讃える者は居らず、何時まで経っても、彼を天下第一の巧者と認める者は居ない。
思惑の外れた逢蒙は、焦燥して叫ぶ。
「師父様は死んだのだ。もう居ない!」
「逢さん、あんたは何故、そんな事が解るのかい?」
「この地の下に居ないなら、死んだと同じ事。天下第一の弓巧者はこの俺だ」
その言葉に、同意を示す者は誰一人として居なかった。
「俺こそが天下第一の巧者。俺こそが英雄。俺こそが……!」
后羿を打ち倒した者。
それを
「俺は、俺は……天下第一の巧者なんだ!!」
了
天下第一の巧者 水野酒魚。 @m_sakena669
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