「『淡夢たんむ双妃伝そうひでん』の作者に関して、筆名以外に明らかにされていることはございません。広がり方や書かれている内容から考えて、市政の人間ではなく、後宮の人間か、あるいは後宮に関わりのある人間が作者であろうとは推測できますが」

「確たる証拠は何もない、か」

「左様で」


 卓に着いた浚明しゅんめいの前にコトリと茶杯を起きながら、蒼鈴そうりんは淡々と口にした。


「市政ではあまり有名な本ではないのか?」


 そんな蒼鈴に目礼を返しつつ、浚明は端的に問いを投げた。浚明の向かいに腰を下ろした蒼鈴も、余計な問答を省いた率直な物言いで浚明に答える。


「ええ。出回っていないというわけではないようですが、『後宮のお妃様達の間で流行している本』と一部の人間に物珍しがられている程度に留まっているようです」


 後宮の女性達のように熱狂的に支持している人間の話は聞きませんね、と蒼鈴は静かに続けた。蒼鈴の玲瓏な声がしっとりと空気に溶けていくと、書庫室を満たす静寂が際立つように間を埋める。


 普段司書達が書類仕事を片付けるために使っている卓の傍らに置かれた、蔵書閲覧用の円卓だった。


 いくつか卓が置かれた周辺は広く取られた窓から燦々さんさんと日の光が差し込んでいる。先程まで二人がいた薄闇の方がこの部屋の大半を占めているとは信じられないくらい、今二人がいる場所は心地よい日溜まりに包まれていた。


「話の筋程度しか、俺は知らないのだが」


 だがその中にこぼれ落ちていく浚明の声は、書庫室の静寂にも、心地よい日溜まりにもそぐわないくらいに硬い。


「その……後宮の妃を主人公にした、妃同士の……つまり、女性同士の恋の話……で間違いないか?」

「ええ。簡単にまとめてしまうと、そうなりますね。おまけに最後は二人揃って叶うことのない恋に命を捧げてしまう、悲恋譚でもあります」


 蒼鈴は渦中の書を静かに卓の上に置いた。まぶたを伏せ、そっと書の表紙を指先で撫でる蒼鈴からは、書に対する慈しみが感じられる。


 だがそんな蒼鈴も、浚明の勘違いでなければ、常の無表情を若干硬くしていた。


「話の筋程度しか知らない、ということは、実際にお読みになられたことはないのですね?」

「ああ」

「ご説明申し上げても?」

「頼む」


 浚明が頷きながら短く答えると、蒼鈴は書に指をわせたまま視線を浚明に据えた。それからパシリ、とゆっくり目をしばたたかせる。


 ──今のは、蒼鈴殿が心を揺らした時の癖だが……


 果たして今、蒼鈴は一体、浚明に対して何を思ったのだろうか。


「……主役となる妃二人は、幼馴染同士でした」


 浚明はじっと蒼鈴に視線を据え直すが、浚明が蒼鈴の無表情から何かを拾い上げるよりも、蒼鈴が落ち着いた口調で『淡夢双妃伝』の筋を語り始める方が早かった。


 話題がそこに行き着いてしまえば、浚明は蒼鈴本人よりも語られる言葉に集中せざるを得ない。


「片方は貴族の娘、もう片方はその家に出入りしている商人の娘。貴族の娘は商人の娘を大変気に入り、やがて商人の娘は親の商談以外の時も屋敷に出入りし、貴族の娘の話し相手を務めるようになります」


 二人はまるで生まれた時からともにあったかのように仲を深めた。


 しかし別れは突然訪れる。


 貴族の娘は父親によって後宮入りを決められてしまうのだ。


「『貴族の娘にとって、後宮へお召しがかかることほど栄誉なことはない』と、本文には書かれています」


 そうささやいた蒼鈴は、一瞬だけ無表情の中に氷のような冷たさを混ぜた。そのことに浚明は『おや』と一瞬目をみはる。


 だが今回の変化が見えたのも、ほんのわずかな間のことだった。


「貴族の娘はこの世の終わりとばかりに嘆きますが、典型的な貴族の家の中の話です。父親の決定に娘が逆らえるはずもありません。すべもなく、貴族の娘は後宮入りの日を迎えます。その時、商人の娘は貴族の娘にひとつ約束をするのです」


『貴女に逢うこともできず、顔を合わせたこともない男にめとられ、女の嫉妬が渦巻く世界に閉じ込められるだなんて、死んでも嫌よ!』と泣きじゃくる貴族の娘の手を取り、商人の娘は誓う。


「『必ず私が貴女に逢いに行く。だから待っていて』と」


 その誓いの形として、商人の娘は貴族の娘に金の指輪を渡す。商人の娘の指を飾る指輪と一対となった指輪を己の指に飾り、貴族の娘は後宮に入った。


 しかし由緒ある貴族の家の娘とはいえ、後宮において彼女の家格は決して高いとは言えなかった。最初こそ物珍しさから皇帝のお渡りはあったが、やがて足は遠ざかり、周囲の妃達からの嫌がらせは加速していく。


 それでも貴族の娘はその日々を耐え忍んだ。彼女を支えていたのは、商人の娘との約束だった。


 そしてその約束は、貴族の娘が後宮に入って数年後に果たされる。


「商人の娘は女だてらに商才を発揮し、家業の重鎮となっていました。彼女は己が手に入れた力と地位を用いて王宮に売り込みをかけ、ついに後宮に出入りを許される御用商人となるのです」


 貴族の娘と商人の娘は再会を喜び、商人の娘は理由をつけては足繁く貴族の娘の宮に通うようになった。


 しかしそれが面白くないのが他の妃達だ。


 利で動くはずである商人が、地位も金もない妃を誰よりも優遇しているのだ。地位も金も持て余している人間達の反感を買うのは当然のことだろう。


「まぁそんなこんなで色々と波乱があり、その中で二人は『この感情は友情ではなく恋情だったのだ』と気付くわけです」

「おい、急に話が雑になったな」

「ここを事細かに説明していると長くなりますし、省略しても説明には支障がありませんから」


 詳しくはまた改めて本書をお読みください、と蒼鈴はそっと『淡夢双妃伝』を浚明の方へ押し出す。蒼鈴の語りに引き込まれつつあった浚明は、後で暇ができたら読むこともやぶさかではない、と視線だけで蒼鈴に答えた。


「まぁ、そんな感じで商人の娘が上手く立ち回りつつ、貴族の娘も商人の娘のために己を奮起させてのし上がりつつ、二人の逢瀬は重ねられていくのですが。……ここで最大の敵が立ちはだかります」


 浚明の視線をパシリ、とまばたきで受けながら、蒼鈴はユルリと説明を再開した。


「商人の娘の聡明さと度胸の良さに惹かれた皇帝が、商人の娘を己の妃にと望み、商人の娘に後宮入りを命じるのです」


 商人の娘もその実家も『家業に影響が出る』『後宮に入れるような身分ではない』と皇帝の命を拒むが、拒めば拒むほど意固地になるのが人のさがというもの。


 最終的に商人の娘は、『応じなければ家業を取り潰し、勅命拒否という大罪の下、一族郎党皆処刑』という脅しに屈する形で後宮入りを受け入れた。


「ここに来てついに、今まであらゆることに耐え忍んできた貴族の娘の怒りが爆発します」


 彼女が怒りの矛先を向けたのは、商人の娘ではなかった。


 彼女が怒りを向けた先は、皇帝。


 今まで親に押し付けられた後宮入りに耐え、皇帝の無関心に耐え、後宮の住人達からの陰湿な嫌がらせに耐えてきた彼女は、『商人の娘を皇帝に取られる』というたったひとつのことにだけには我慢がならなった。


『あの子だけは、わたくしのもの。あの子だけは、たとえ天にだって渡しはしないっ!!』


「そう叫んだ妃は、周囲の制止を振り切って、皇帝がお渡りになっている真っ最中の商人の娘の宮に乗り込みます。ですが、妃一人で何かができるはずもありません。貴族の娘は気がふれたとされ、牢に押し込められました」


 その牢へ、皇帝との望まぬ一夜が明けた商人の娘がやってくる。


 牢の格子越しに貴族の娘と対面した商人の娘は、ホロホロと泣きながら呟いた。


『貴女はずっと、こんな過酷な日々に耐えてきたのね。私は貴女に、大変な日々を強いてしまっていたのね』


 今までどんな状況でも折れることなく、毅然きぜんと顔を上げ、女だてらに不敵な笑みを浮かべて、並み居る男どもとも、後宮の毒花達とも戦い続けてきた彼女が見せた、初めての涙だった。


 その涙に、言葉に、貴族の娘はあることを決意する。


「『貴女を泣かせるような世界に未練なんてないわ。二人で笑える世界へ旅立ちましょう。私達が二人でいることを誰にも邪魔されない世界へ、二人で行きましょう』」


 もう誰にも、何にも、自分達の尊厳を、自分達の想いを、自分達の時間を奪われたくない。もう耐えきれない。もう忍びたくない。


 そう乞い願った二人は、協力し合って牢の鍵を破り、広い後宮の中を逃げていく。


 そして。


「皇帝の私兵が後宮の端にそびえる梅の古木のもとで二人を見つけた時、二人はすでに事切れておりました。互いの帯を交換し、その帯を用いて、同じ枝で首を吊って自裁したのです」


 この世は所詮しょせん、淡い夢のよう。


 その泡沫うたかたの中で、貴女を想う心だけが、この紅梅の花のように鮮烈な色を纏っていた。


 そんな二人の心を語る言葉と、二人の指で輝く金の指輪の描写で、物語は締められる。


「……というのが『淡夢双妃伝』の概要です」

「……何というか、なぁ」


 蒼鈴の視線から『如何いかがですか?』という問いを察した浚明は、思わず眉間にシワを刻むと腕を組んだ。


「もう少し、救いようのある結末へ運ぶこともできたんじゃないか? できそうな分岐をいくつか感じたんだが」

「鋭いですね。わたくしもまったくの同意見です」


 浚明の感想に蒼鈴はコクリと心持ち強く頷いた。書好きのさがなのか、『書』が絡む話には『無』を保っていられないらしい。


 その証拠に、続けられた言葉は常よりも早口で、蒼鈴にしては饒舌だった。


寿凛じゅりんが御用商人となり、その商才で後宮の事件を二、三件解決しているのです。褒美に楓艶ふうえんを賜り、二人でばく商会を切り盛りして国一の商家に成長させました、という終わり方にだってできたはずなんです。あるいは怒りに立ち上がった楓艶が皇帝に怒りをぶつけるのではなく、それまでの後宮生活で身につけた知恵を用いて二人で逃げ出し、遠い異国で幸せになりました、とか。最後だって二人で牢を出られたならば、死を選ぶことなく図太く生きる道だってあったはずなのに。なぜ作者は二人を幸せにしてくれなかったのでしょうか? 悲恋というものは確かに美しいものではありますが、こと『淡夢双妃伝』に限ってはそうではない、と声を大にして訴えたいものです」


 ……いや、『饒舌』という言葉でひと纏めにするには、いささか言葉が滑らかすぎた。


 ──やけに、語るな……


 怒涛の捲し立てに浚明は思わず顔を引きらせる。そんな浚明の様子に一拍遅れて気付いたのだろう。急にスンッと表情をなくした蒼鈴が取り繕うように口を開いた。


「……とまぁ、わたくし自身は、あまりこの話を好意的には受け入れられてはおりませんが」

「その割には語ったな」

「司書として、話の概要を語ったにすぎません」

「いや、かなり私情がダダ漏れているように聞こえたが?」

「御冗談を。司書はあらゆる書に対して平等であらねばなりません」


 しれっと答えた蒼鈴は、己の前に置いた茶杯を手に取ると優雅な挙措でコクリと茶を口にする。その動きに釣られて、浚明も同じように出された茶を口にした。


 上質な茶葉が使われているのか、あるいは茶を淹れた蒼鈴の腕が良いのか、出された茶からはまろやかな甘みと旨みが感じられた。ここまでおいしいお茶を、浚明は初めて飲んだかもしれない。


 ──茶の名店で喫する茶よりも、こんなうら寂しい書庫で、怒涛の書評を聞いた後に飲む茶の方が美味うまいとは。


「さて。その書に対して、御史台隠密監査官である貴方様がわざわざ出張ってきた理由ですが」


『意外な特技があったんだな』と浚明が感心している間に、蒼鈴は常の無表情を完全に取り戻していた。浚明が再び蒼鈴に視線を据えた時には、蒼鈴の吸い込まれてしまいそうなくらい深く凪いだ瞳がひたと浚明に据えられている。


が、出ましたね?」


 その一言で、蒼鈴は浚明が帯びた密命の全てを知っているのだと理解できた。


 前回、密命の内容を一目で見抜かれた時は空恐ろしさを感じたというのに、今はそんな蒼鈴が何よりも心強い。


 ──隠密監査官たるもの、この状況に心強さを感じるなど、本来は言語道断なんだろうが。


「ああ。知っていたか」

「ここがどこで、わたくしを誰と心得ておられるのです?」


 頭の片隅でそんなことを考えながらも、浚明は勿体もったいけることなく蒼鈴の問いに答えた。そんな浚明へ蒼鈴も間髪をれずに問い返す。


 玻麗はれい王宮宮廷書庫室。


 ここは玻麗中の奇書凡書が集まる場所であり、王宮で作製された書類が最終的に行き着く先でもある。


 玻麗王宮の情報は、必ずこの場所に集約される。


 その書庫室の主たる『未榻』の名乗りを許された彼女は、この書庫室の次代の主であるという。


 蒼鈴の真価は、その情報を統制し、目の前の事象をただ眺めるだけで解き明かす、その卓抜した頭脳と観察眼にこそある。


「『淡夢双妃伝』の存在が後宮の住人達の口に上がるようになってすぐの頃から、模倣者はそれなりにいたそうですね。……しかし本来ならば後宮には不干渉である御史台、しかも重要案件ばかりを請け負う隠密監査官に、正式に調査の命が降されたということは」

「ああ。昨夜、ついに心中による死者が出たそうだ」


 蒼鈴がすでに事件の概要を承知で、さらに調査にも助力をしてくれるというならば、浚明が事件について口を閉ざす必要性もない。


 浚明は己が把握している情報を手短に蒼鈴へ伝える。


「亡くなったのは、梅花殿ばいかでんに仕えていた宮女と、菊花殿きっかでんに仕えていた宮女。それぞれ妃の身近に仕えていた、宮女の中でも身分が高い者だ。『淡夢双妃伝』の結末を再現するかのように、梅花殿近くの梅の古木の枝で、互いの帯を交換して首を吊っている状態で見つかった」

「梅花殿と菊花殿。敵対関係にある舎殿同士の宮女ですね」


 皇帝の後宮には数多の妃が囲われており、位が高い妃から順に皇帝の私邸である龍臥殿りゅうがでんに近い舎殿を賜る。


 梅花殿と菊花殿は、正后が暮らす牡丹殿に次いで龍臥殿に近い舎殿だ。代々位が高い妃が暮らしてきた舎殿で、正后を除けばその地位は後宮で双璧を成す。そのため梅花殿と菊花殿は、代々の主が変わろうとも、変わることなく妃も側仕え達も互いに反目しあってきた。


「心中をするような仲だと言えるようなものが、二人の間にはあったのですか?」


 その問いが意味するところを察した浚明は、蒼鈴の聡明さを改めて実感した。


「互いに中堅の側仕えだったから、それぞれの宮の代表として外とやり取りをすることはよくあったそうだ。ただ、それ以上のことは何も分かっていない」

「なるほど。としては、悪くはない素材であったということですね」


 ──その心中、果たして本当に『心中』だったのですか?


 蒼鈴が問いたかったのは、そこだろう。


 二人分の死体が心中を思わせる状況で見つかれば、深く考えることなく『この二人はきっと心中をしたのだ。叶わぬ恋に密かに身を焦がしていたに違いない』と決めつけてしまう空気が今の後宮には蔓延している。


 状況さえ整えてしまえば、誰もそれが二人分のだとは思わない。


 ──反目する妃に仕える宮女同士。この二人が恋仲で、叶わぬ恋に身を焦がした果ての心中だったとしたら。


 確かに、物語として好まれるだろう。娯楽に飢え、美しい恋に焦がれる後宮の女達にはうってつけの素材ではある。


「後宮は世間一般の常識が通じない世界だ。虚構がまこととなり、真がたちどころに闇に溶けて消える」

「何せ、正確な住人の数も、死者の数も分からない世界ですからね」


 浚明の言葉にわずかに視線を伏せた蒼鈴は、一瞬何か物を思うような風情を垣間見せた。そんなわずかな表情の変化に、浚明は小さく顎を引く。


 後宮は、皇帝のための秘された花園だ。


 その花園に咲き乱れるのが毒花ばかりであることを、浚明は身をもって知っている。


 国一の毒花達が取り仕切る世界では、力を持つ妃、皇帝の寵を得た妃の言い分が絶対だ。小さな世界の美しき独裁者達が『烏は白い』と言えばの色は『白』とされ、『烏はあかい』と言えば同じ色が『あか』と呼ばれるようになる。今回表沙汰にされた話がこの一件で初めての死者だとされているが、果たしてそれが真のことであるのか否かさえ分からないというのが後宮の正確な実情だ。


「真実を拾い上げたければ、自分自身で潜るしかない」


 浚明がポツリと、だが強く呟くと、蒼鈴はパシリとまたまたたいた。


 今回はその心がどこにあるのか分かった浚明は、あえて心情を隠すことなく蒼鈴の視線を正面から受ける。


「なるほど。やけに素直に吐くなとは思っておりましたが」


 浚明の内心は一瞥いちべつでことごとくさらっていくくせに、蒼鈴は相変わらず己の内心は浚明の前に一切さらさない。


 その『鉄壁の凪』とも呼べる無表情を保ったまま、蒼鈴はサラリとたもとを持ち上げ、己が纏う色を浚明に示した。


「『未榻』の力だけではなく、『胡吊祇うつりぎ』の力も欲してのことですか」


 澄み渡る真昼の空を思わせる深い青色の襦に、藍色の裙。腰元には平官吏の地位を示す赤瑪瑙の佩玉。


 蒼鈴の装束は、確かに質素ではある。


 だがその色彩が『質素』と対極に位置するものであると、宮廷に出入りする者ならば誰もが知っている。


「蒼鈴殿が『未榻』でありながら、なぜ『胡吊祇の青』に身を包んでいるのか、俺はその理由を知らない」


 玻麗筆頭貴族、胡吊祇家。


 青という色は、『玻麗と歴史を共にする』とまで言われている名門貴族・胡吊祇家の象徴色だ。歴代の皇帝達でさえ胡吊祇一族に遠慮して纏うことを控えてきたというその青色を出仕着に選ぶことができる人間は、胡吊祇本家の人間に限られているという。さらにここまで鮮やかな色目ともなれば、本来は当主やその嫡男にしか許されていない禁色きんじきであるはずだ。


 だがどういうわけなのか、蒼鈴は未榻……胡吊祇の分家筋にあたる家系の人間でありながら、堂々とこの青を出仕着として身に纏っている。浚明の記憶が正しければ、先の事件で蒼鈴が名乗りを上げた時、蒼鈴は『祖母にして国一の貴婦人である胡吊祇玲鈴れいりんより「胡吊祇の青」を賜った』とも口にしていた。


 浚明の推測が正しいならば、蒼鈴は『未榻』でありながら『胡吊祇』の権力も得ている。


 そして後宮と胡吊祇には、切っても切れない縁があるはずだ。


「しかし命を受けた以上、最善を尽くす義務が俺にはある。俺の働きの如何いかんで次なる犠牲を防げるならば、なおのこと」


 仔細を語らず、浚明はただひたりと蒼鈴を見つめた。そんな浚明を蒼鈴もただ無言で見つめ返す。


 浚明が口を閉ざすと、ヒタヒタと二人の間を静寂が満たした。居心地の悪さを感じる静寂に、浚明はあえて無防備に身をさらす。


 あえて全てをありのままにさらしたのは、それが最低限の礼儀であると考えたからだ。


 浚明が多くを口に出さずとも、蒼鈴は浚明がそこにいれば勝手に全てを覚っていく。下手に言葉にするよりも、そこには真実が映るはずだ。さらに言えば、浚明の口から直接情報を漏らすことは責務に反しても、勝手に覚られた情報を勝手に解釈されることは責務に反しない。浚明としては蒼鈴に諸々を覚ってもらった方が都合がいいくらいだ。


「……犠牲、ですか」


 そんな内心をも隠すことなく蒼鈴を見つめ続けると、パシリ、パシリと蒼鈴はゆったり瞬きをした。ポツリとこぼれた言葉には、蒼鈴の中で何か感情が揺れたことを示す揺らぎのような響きが含まれている。


「相変わらず、そこは真っ直ぐなのですね」

「え?」

「良いでしょう。『未榻』だけではなく、『未榻蒼鈴』としてもこの件、お力添えをさせていただきます」


 さらに続けてこぼされた言葉に、浚明は気が抜けた声を上げた。だが仔細を問うよりも、蒼鈴が重ねるように承諾を口にする方が早い。予想していたよりもあっさりと得られた言葉に小さく息を飲むと、蒼鈴は表情を正して浚明を見上げる。


「最初に申し上げました。『玻麗後宮と「未榻」には、浅からぬ縁がございます』と」


 その表情と言葉に、浚明も気を引き締め直すと頷いた。


「皇太后陛下と、東宮妃殿下だな」

「ええ。皇太后絽棗殿ろそうでん珱鈴ようりん様はわたくしの大伯母にあたり、東宮妃の景丹殿けいにでん玲淑れいしゅく様はわたくしの従姉妹いとこにあたります」


『未榻』の系譜は、先代書庫長にして『生ける伝説』と呼ばれた才人、未榻甜珪てんけいを原点としている。


 未榻甜珪はかねてより交流があった胡吊祇家の姫に熱心に請われ、婿入りという形で胡吊祇家に入った。その三人の息子のうち長男が胡吊祇本家を継承し、他二人は新たな姓を賜って独立している。次男が立てた家が退魔省で力を振るう呪官家『珀菊はくひ』であり、三男が立てた家が書庫室の主たる『未榻』だ。


 さらに上の代へさかのぼると、未榻甜珪の婚姻相手である胡吊祇玲鈴れいりんには姉が一人いる。姉の珱鈴は当時東宮であった先帝に正后として嫁しており、当代皇帝を含む御子を四人産んだ。


 つまり当代皇帝と当代胡吊祇、珀菊、未榻の各当主は従兄弟いとこという関係にあたる。蒼鈴から見れば当代皇帝は従兄弟伯父ということだ。


 さらに当代東宮には胡吊祇の姫が正后として嫁している。蒼鈴の立場から見れば後宮は皇帝側、后妃側、その両方に血縁が生活している場所であるとも言えるのだろう。蒼鈴が『玻麗後宮と「未榻」には、浅からぬ縁がございます』と口にしたのには、少なからずこの辺りの事情が絡んでいるはずだ。


 ──『世事の徒然つれづれには興味がない』と豪語はしていても、血縁が絡めば話は別なのか。


 何となく、意外だった。


 今までの蒼鈴の言動から漠然と『どのような目に遭おうとも、その場所で生きることを選んだ者の勝手でしょう』とか『世俗に野心を示すやからなど、どうなろうとも存じ上げません』とか、身内が相手であっても……むしろ身内が相手であるからこそ、冷めた言葉が飛び出してくるのかと勝手に思い込んでいたのだが。


 一連の発言を聞いていると、案外蒼鈴はその辺りの情に厚いように感じられる。


「どんな地位にも名声にも一切価値を感じない書庫大師が、『至上の宝』と掛け値なく評したものがございます。それが何であるかを御存知ですか?」 


『貴族の家の親族仲がいいのって、珍しい話だよな』と、浚明はぼんやりと考える。


 その内心まで読み取ったのか、不意に蒼鈴が話題を変えた。


「え? ……さ、さぁ」

「『家族』でございます」


 淡々と、深々と。


 それでいて玲瓏な声で囁きながら、蒼鈴は静かに席を立った。


「書庫大師……我が師にして祖父、未榻甜珪が、若くして天涯孤独の身であったことは御存知ですか?」

「え?」

「幼少のみぎり、書庫大師は一族郎党を妖怪に喰い殺され、身内と呼べる存在を一晩にして失ったそうです。諸事情あって己の家庭を築くことも諦めていた大師を、最終的に力技で口説き落として無理やり己の家族計画に巻き込んだのが祖母でございます」


 唐突に始まった話がどこに着地するのか予想ができず、浚明はハタハタと目をしばたたかせる。


 そんな浚明の手元から空になった茶杯を回収した蒼鈴は、己の手元に視線を落としながら続く言葉を口にした。


「祖父は、事あるごとに口にします。『あの時無理やりあいつが巻き込んでくれたから、俺の人生の幸せはあった』と。……自分がこんなに明るい世界の中を、ヒトらしく一喜一憂しながら生きていける未来があるなどと、あの時は思わなかった、と」


 その言葉に、浚明は無言のまま小さく目をみはる。


 ──書庫大師が、そんなことを?


 浚明は、未榻甜珪という人を詳しくは知らない。直接顔を合わせたこともない。人々の口のに上がる話題を風の噂程度に聞いているというだけだ。


 だがそんな中で浮かび上がってくるのは、『生ける伝説』の名に相応しい逸話ばかりで。その辣腕と豪傑っぷりから想像していた姿は、もはや修羅や羅刹に近い部分さえある。


 だから、意外だった。


 下手をすれば皇帝陛下さえ顎で使いそうなの御仁が、そんなありふれた存在モノを何よりも大切にしていたなんて。


 ありふれていながら、浚明にとっては何よりもまぶしいモノを、心の真ん中に置いていたなんて。……浚明にも痛いほどに分かる感覚を、いだいていたなんて。


「だからこそ、祖父は何よりも家族を大切にしています。血が繋がっている家族も、繫がっていない家族も、です」


 皇帝一族は身分や見栄が絡む分、向こうの出方によってはかなり辛辣な部分もございますが、と蒼鈴はそっと添えた。


「そんな祖父に育てられたからでしょう。父と伯父達の仲も、わたくし達孫の仲も、三家ひっくるめてかなり良いのです。『家族』に危機が迫っているのですから、わたくしが貴方様に協力を惜しむことはございません」


 むしろ渡りに船だった、と言ったところか。


 手早く茶器を纏め、身を翻した蒼鈴の後ろ姿を追いながら、浚明は蒼鈴が口にした言葉を噛みしめる。


 ──今回の協力は、双方の目的が一致したから得られたということか。


 浚明は、己が使命のため。蒼鈴は、『家族』を守るため。それぞれ『淡夢双妃伝』の関与が囁かれる心中沙汰を解決し、後宮に平和をもたらしたいと考えている。


 そこまで考えた浚明の脳裏に、ふととある可能性が浮かんだ。


 ──もしかしたら、順序が逆なのではないか?


『書庫室の仙女』の協力を得るために浚明に密命が降ったのではなくて。


 蒼鈴が調査に乗り出すために、御史台へ圧をかけたのだとしたら。


 ──いや、蒼鈴殿ならば、別に俺などいなくても調査に乗り出すことはできたはず。


「明後日、ここで待ち合わせましょう。の刻でいかがですか?」


 内心で否定しながらも、ゾクッと背筋に寒気が走ったような気がした。


 そんな浚明の内心がどこまで読めているのか、玲瓏な声は変わることがない口調で浚明に提案を投げてきた。一瞬、何について言われているのか理解が追いつかなかった浚明は慌てて顔を跳ね上げる。


「乗り込む前に、色々と手回しが必要でしょう」


 浚明の視線に、顔だけを振り向かせた蒼鈴は淡々と答えた。


「貴方様も、後宮に潜入するに相応しい装いをしてきてくださいね」


 ここまで言えば分かるはずだと言わんばかりの態度で、蒼鈴は浚明をその場に残して姿を消してしまった。後には底冷えを感じるほどの静寂が場を満たす。


「相応しい装い……ねぇ……」


 そんな蒼鈴の言動に浚明に対するわずかな信頼を見たような気がした浚明は、何とも言えない表情でそっと呟いたまま、しばらく静寂の中に身をひたしていた。

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