【淡夢双妃伝】

「『宮廷書庫室の仙女』と相見あいまみえたそうじゃないか」


 不意に投げられた声に、浚明しゅんめいは思わず声がする方向をかえりみた。だが浚明の背後には壁があるだけで、特に人影らしいものは見えない。


 王城の一角にある、回廊でのことだった。いかにも『ちょっと一休み』という体で壁に背中を預けて立っていた浚明は、周囲に誰もいないのをいいことに盛大に顔をしかめて『声』に答える。


「相見えたくて相見えたわけでもなければ、巻き込みたくて巻き込んだわけでもありません」

「お前な、もう少し自分の幸運に感謝した方がいいぞ? 『宮廷書庫室未榻』が向こうから積極的に助力をしてくれるなんて、滅多にないことなんだから」


 続けて聞こえた声の調子にも、その声が紡いだ内容にも、浚明は顔をさらに渋くするばかりだった。


 ──笑っていられる場合ではないと思うのですが、大夫だいふ


 何の変哲もないこの回廊は、所々に穴が空いている。自然発生的に崩れてできた穴もあれば、によって意図的に空けられた穴もある。


 互いに顔を突き合わせることなく言葉をやり取りできるこの場所は、御史台ぎょしだいの密談の舞台のひとつだ。御史台隠密監査官である浚明は今、直属上司と壁を一枚隔てた状態で言葉を交わしている。


 ──『未榻みとう』ねぇ……


「それで? お前は今でも仙女殿と懇意なのか?」


 以前の任務でなし崩し的に協力を仰ぐことになった少女の姿を思い出した浚明だったが、物思いにふけったのはほんの一瞬のことだった。


 浚明がすきを見せていい相手など、この世界には存在していない。たとえ相手が御史台身内であっても。


「『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』に関わる事件を解決してから、顔を合わせておりませんので、懇意とは」

「なるほど。縁があるともないとも言えない状態である、と」


 その心構えを浚明に叩き込んだ張本人は、どうやら声音だけではなく表情でも笑っているようだった。壁に空いているのは小さな穴だけで、穴をのぞいてみたところで相手の顔など絶対に見えないのだが、彼によって御史台に拾い上げられ、隠密監査の基礎基本を叩き込まれた浚明には彼の今の表情が手に取るように想像できてしまう。


 きっと彼は今、周囲に誰もいないくせに、口元を隠すように優雅に扇を広げて、その内側で実に上品に笑っているのだろう。


 そしてそんな表情をあえて表に出している時、このクソ上司は大抵ろくでもないことを言ってくる。


「ならばその縁、無理やりにでも引き寄せてもらおうか」


『そらきた』という苦虫を、浚明は上手く噛み殺せていただろうか。


めい浚明。君にひとつ仕事を頼みたい」


 パチリと音を立てて扇を畳んだ御史台大夫は、歌うように浚明に命じた。


、闇の中から真実を拾い上げておいで」




  ※  ※  ※




 宮廷書庫室という場所は、王宮内朝奥深くに置かれた、玻麗はれい中の古今東西奇書凡書、ありとらゆる『書』が集まる場所である。


 建物一棟を丸々占拠した書庫は広大で薄暗く、その全容を把握している者は片手の指で足りる数しか存在していない。先代の書庫長が『生ける伝説』と呼ばれるほど逸話に欠かない人物であったせいか、宮廷書庫室は様々な噂……もはや『伝説』と言っても良いいわくに彩られている。


 その中でも一番新しい噂に曰く。


『宮廷書庫室には、仙女が住む』


 ──いや、さすがに蒼鈴そうりん殿もあの書庫に住み着いているわけではないと思うんだが。


 その『仙女』に対してそんなことを思える程度に、浚明は書庫室の仙女……未榻みとう蒼鈴と面識があった。


 と言っても、本当に『面識がある』以上の間柄ではない。ひと月ほど前、書に関わる案件の手がかりを求めて浚明が書庫室に足を踏み入れた際に遭遇し、何やかんやあって結果的に調査に協力を得られた、という程度のことだ。


 それ以降浚明は書庫室に足を向けてはおらず、結果蒼鈴とも顔を合わせていない。大夫に言われたような、引き寄せられるほどの『縁』がそもそも自分達の間にあったのかという所からして疑問ではある。


 とはいえ、上司から命を受けた以上、浚明も動かないわけにはいかない。案件に人命がかかっているのだから尚更だ。


「じゃ、邪魔をする……」


 というわけで、浚明はおっかなびっくり宮廷書庫室を訪れていた。腰が引けてしまうのは、前回ここで蒼鈴と遭遇した際、二度とも背後を取られた挙句、声を掛けられるまでその気配に気付くことができなくて本気で度肝を抜かれたからだ。


 そのおびえを『書庫ではお静かにという注意を守っているだけだ!』と誤魔化して、浚明は静寂のとばりが下りた書庫室の中を進む。


「未榻蒼鈴司書は、御在室だろうか……?」

「何かお探し物ですか?」

「っっっ!!」


 そしてその虚勢は、ほんの数秒で瓦解する。


 間合い一歩以下。ピタリと背後から耳元にささやきかけるかのように響いた声に、浚明は取り繕うこともできずに盛大に肩を跳ね上げると、弾かれるように前へ跳んでいた。着地までの間にクルリと体を反転させ、床を滑るように止まって身構えた時には、声の主と五歩の間合いで向き合う形が整っている。


 これが『敵』に対して取った行動ならば、続けて流れるように帯の後ろやたもとの中から暗器が引き抜かれているところだ。だが浚明はそこまでで何とか動きを止める。


 なぜならこの場所でこんなことができる人間はしかいないと、すでに浚明は知っているからだ。


「そ、蒼鈴殿……」


 案の定、そこにいたのは一人の少女だった。


 麗しい顔に表情らしい表情を浮かべずひたと浚明を見据えた少女……未榻蒼鈴は、浚明の呼びかけに一度パシリと目をしばたたかせる。


 そんな蒼鈴に対し、浚明は全身から力を抜きながら深々と溜め息をついた。


「前にも言ったと思うのだが、いきなり背後を取るのはやめてもらえないだろうか?」

「お呼びでございましたので」

「いや、普通に前から現れれば良くないか?」

「最短距離を取りましたので」


 玉の鈴を振るような玲瓏な声音でありながら、紡がれる言葉は辛辣で可愛らしさの欠片もない。


 未榻蒼鈴。


 容姿も声音もその立ち姿も『玲瓏』という言葉がこの上なく似合う麗しい少女である。髪は後頭部の高い位置で素っ気なくひとつに結わえ上げられて飾りのひとつもなく、その身を包むのは質素な襦裙。身なりだけを見れば質素極まりないが、彼女にかかればそれだけの装いで十分後宮の后妃達と並び立てるほどの凜と澄んだ気品が漂う。


 だが蒼鈴の真価がそんな見目の麗しさではなく中身にあるということを、浚明は前回の邂逅で思い知らされた。それこそ『まつりごとを回すのは男の役目』と固く信じていた浚明が、その固定観念を改めなければならなかったくらいには。


「それで。今回のご要件は、こちらでしょうか?」


 それを証明するかのごとく、蒼鈴は片手に携えていた書を浚明に示した。浚明が改めて蒼鈴が差し出した書に注視した瞬間、浚明の喉は意識するよりも早くヒュッと鋭く息を呑んでいる。


「お間違いないならば、詳しい話をおうかがいいたしましょう」

「え……」


 さらに続けられた言葉に、浚明は思わず気が抜けた声を上げていた。


「今回も、助力をしていただける、のか?」

「この書に関わる案件でお間違いないならば、人命が掛かっておりますから」


 浚明の方へ書を差し出したまま淡々と語った蒼鈴は、次の瞬間スッと微かに目をすがめる。


「それに、玻麗後宮と『未榻』には、浅からぬ縁がございますからね」


淡夢たんむ双妃伝そうひでん


 蒼鈴が浚明に差し出してきた書は、今後宮で異常なほどに流行っている、を題材にした物語だった。

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