「中々よろしい格好なのではないですか?」


 顔を合わせるなり淡々と言い放った蒼鈴そうりんに対して、浚明しゅんめいは思わず体面を取り繕うことさえ忘れてパカリと口を開いたまま固まった。


「それでは、参りましょうか」

「いや、ちょっと待ってくれ」


 そんな浚明に構わず、蒼鈴は手にしていた書類を揃えて卓に置くと、上に文鎮を乗せて席を立つ。


 そのあまりにもサラリとした反応に浚明は思わず『待った』をかけた。対する蒼鈴は浚明を見上げると小さく首を傾げる。


 その動きに蒼鈴の髪を彩るかんざしが……より正確に言うならば、簪の先で揺れる銀鎖と宝玉がチリリと小さく音を鳴らした。その微かな音に顔を強張らせながら、浚明はかすれた声を上げる。


「その格好で行くのか?」

「何か問題が?」


 首を傾げたままの蒼鈴は、たもとを広げながら常と変わらない淡々とした声音で言葉を続けた。


「貴方様が本日のわたくしに望んだのは、でございましょう」


 ──いや、確かにそうなんだが……!


 後宮に潜入するにあたって無難に背景に埋没できる宦官かんがん装束を着込んでいた浚明は、目の前にした蒼鈴の装いに盛大に顔を引きらせる。


 ──『潜入捜査』であるはずなのに、まったく忍ぶ気がないだろう、その格好はっ!!


 仙女が、いた。


 目にも鮮やかな青揃え。しっとりと上品な艶を纏った装束は、上から下まで、内から外まで、全て特級品の絹地であつらえられているのだろう。その装束よりも深い艶を内に秘めた黒絹の髪は高く複雑に結い上げられ、銀と青玉と水晶が彩る簪が何本も添えられている。


 帯や襟元には、細やかに金糸銀糸で刺繍が入れられていた。帯飾りや耳飾りにもふんだんに宝飾が用いられていて、その装い一式を売り払えば軽く屋敷が建てられることは想像にかたくない。


 瑞々みずみずしい花を連想させるかんばしい香とともに翻る領巾ひれまでもが淡青色と銀を織り交ぜた糸で織り上げられているらしい。青揃えの装束の上を領巾が滑る様は、まるで夕闇が迫る空の中を月光を纏った霧雨が揺蕩たゆたっているかのようだった。


 常の質素な装いであってもその涼やかな美貌から『書庫室の仙女』の異名を取る蒼鈴だが、本日の蒼鈴はどこからどう見ても天仙か、あるいは女神かとまがうような姿をしていた。


 夜空の女神か、あるいは薄氷の天女か。蒼鈴の面立ちも纏う空気も凛と冷たく冴え渡っているせいで、朴念仁の自覚がある浚明の脳裏にさえそんな異名が次々と転がっていく。


 似合っている。それはもう、この上なく、色彩から気品から装飾から何から何まで、全て蒼鈴のためにあつらえられたかのように似合いすぎている。


 だがしかし、後宮にこの格好で乗り込めば、周囲からの好奇の視線は避けられそうにない。むしろ避けられないどころか『あの姫君は新たに輿入れしてきた妃か』『青揃えということは、の御方は胡吊祇うつりぎの姫ではないのか』『胡吊祇の姫ならば妃ではなく后として迎えられるはずだろう』等々と、後宮に特大の波紋を立たせることになるのではないだろうか。


 ──本来ならばこれは、胡吊祇直系姫……それこそ東宮后殿下くらいにしか許されない格好なのでは……っ!?


「ご安心を。胡吊祇の御祖母おばあさまからも、れい伯父上……胡吊祇内史令からも、胡吊祇の従姉おねえさま方からも、許可は得ております」


『むしろ皆、わたくしよりも随分乗り気で着飾らせてきました』と、蒼鈴は無表情の中に若干ゲンナリした雰囲気をかもした。その顔をよく見れば、本日の蒼鈴のおもてにはバッチリ化粧までほどこされている。


「元々、装束自体はわたくしの手持ちの物なのですが。装飾品やら何やら、『大伯母様に会いに後宮に行くっていう名目で潜り込むなら、これくらいはやらなきゃダメよ!』と胡吊祇本邸の女性陣に派手に盛られてしまいまして」

「そういえば、訊ねてもいいか?」


『今だけは奢侈しゃし珍品ちんぴんに拒絶反応を示すさまの気持ちがよく分かります』とぼやく蒼鈴の発言も気になったが、浚明は反射的に別の問いを割り込ませるべく口を開く。対する蒼鈴はその言葉だけで浚明が何を問いたいのか察したのか、パシリと目をしばたたかせると両腕を広げて己の装束を示した。


「わたくしに御祖母様が授けてくださった武器でございます」


 その証拠に、蒼鈴は浚明が問いを口にするよりも早く、ピタリと質問に添う言葉を口にする。


「武器?」

「ええ。正確には御守、と言った方が正しいのかもしれません。『宮廷の馬鹿どもには、保有する権力を分かりやすく示した方が良い』とのことで、御祖母様はわたくしが王宮や後宮に出入りする時は、昔から必ず青揃えの装束を誂えてくださいました。青の出仕着を誂えてくださったのも、御祖母様です」


 ──なるほど?


 そして浚明とて、御史台隠密監査官の肩書きを与えられている以上、決して愚鈍ではない。それだけ答えてもらえれば、後はおのずと察することができた。


 ──蒼鈴殿の才を『女』というだけで潰されないように、ということか。


 玻麗宮廷は、純然たる男社会だ。


 女の園である後宮や、住み込みの官吏達を支える端女はしため、生まれながらの才が必要とされる退魔省たいましょう神祇部じんぎぶといった特殊部署を除けば、女の身で仕官している人間はほぼいない。


 いくら蒼鈴が並の男どもより切れる頭脳と舌鋒を備えていようとも、蒼鈴が年若く麗しい女人であることは変えようがない事実だ。そしてかつての浚明のように、男社会で生きる人間達は『女』というだけで蒼鈴のことを一段も二段も下に見る。場合によっては理不尽な暴力を振るうやからもいることだろう。


 そしてそういう人間ほど、分かりやすい権力には弱いものだ。『胡吊祇の青』というのは、そういう輩にこそ効力を発揮する。


「わたくしの実力だけで周囲を黙らせられないというのは歯がゆい限りですが。世の中には同じ言語を扱っていても言葉が通じない馬鹿がいるということも、一応は存じておりますので」


 ゆくゆくは『胡吊祇の青』に頼らなくても周囲を黙らせてみせる。


 スッと温度を下げた瞳の中には、そんな蒼鈴の決意が宿っているような気がした。その強さ……抜き身の刃を突きつけられたような圧に、浚明は思わずコクリと空唾を飲み込む。


 そんな浚明に気付いたから、というわけでもないのだろうが、ふと蒼鈴は醸していた圧を消した。


「実は『蒼鈴』という名も、出仕のために与えていただいた名でございまして」

あざなのようなもの、ということか」

「ええ。もしかしたら本日は『蒼鈴』ではなく実名の方をよく耳にするかもしれませんので……」

華鈴かりん、いるかい?」


 ご説明を、と続けられたのだろう言葉は、不意に響いた耳慣れない声によってかき消された。


 近付いてくる足音に気付いていた浚明は、驚くこともなく声の方へ顔を向ける。蒼鈴が足音に気付いている素振りを見せつつも、警戒することなく説明を続けていたから知り合いなのだろうと踏んでいたのだが、どうやらそれは正しかったらしい。浚明とほぼ同時に声の方へ視線を投げた蒼鈴は、無表情のまま纏う空気の中に『やっと来たか』といった感情を醸した。


 ──俺達以外に同行者が?


 浚明が胸中で疑問を転がした瞬間、視線の先でフワリと新たな『青』が舞う。


 さらにそれを纏っているのが誰であるか理解した瞬間、浚明は相手に覚られないように小さく目をみはった。


「おや、お揃いだったか。僕が一番最後だったみたいだね」


 柔らかく笑いかけてくる顔に、見覚えがあった。もっとも、浚明が一方的に相手を見知っているだけで、相手は浚明のことなど微塵も知らないはずだが。


 ──胡吊祇玲伯れいはく戸部侍郎。


 胡吊祇玲珪れいけい内史令の嫡男にして、名門貴族・胡吊祇本家の次期当主最有力候補。蒼鈴から見れば父方の一番上の従兄いとこで、未榻甜珪の初孫にあたる人物であるはずだ。


 ──性格は穏和だが、掴みどころのない人物……という話ではあるが。


 胡吊祇家の人間は、宮廷に入って吏部に仕官し、さらに中書省へ出世するというのが慣例とされている中、あえて自ら戸部への仕官を希望した変わり者であるという噂だ。しかし仕事の出来と頭のキレは父や祖父にも劣らず、世渡りの上手い性格はすでに胡吊祇次期当主としての才覚が遺憾なく発揮されている、というのが浚明が把握している胡吊祇玲伯への評だった。恐らく……というよりも間違いなく、蒼鈴以上に接し方には注意が必要な人物であるに違いない。


玲伯れいはく従兄にい様」

「いやぁ、華鈴。着飾らせるとは聞いていたけれど、まさかその格好のまま司書の仕事をしていたのかい?」


 玲伯はホケホケと笑いながら気軽に二人がいる卓の方へ歩み寄ってくる。その動きに従って軽やかに揺れる袍は、蒼鈴が纏った襦裙よりも若干暗い色目の青だった。青と藍の中間を取ったような玲伯の袍と、青揃えの蒼鈴の襦裙を見比べると、蒼鈴の青の方が鮮やかにさえ見える。


「相変わらず筋金入りの仕事人間だねぇ。墨とか飛ばしちゃったらどうするの」

「そんなヘマはいたしません」


 蒼鈴は玲伯の物言いに若干頬を膨らませたようだった。まるで実の兄妹きょうだいであるかのような物言いを聞くに、二人の仲は密で良好なのだろう。


 ──家を越えて親族仲が良いというのは、本当だったんだな。


『確かにその装束で普段通り仕事をしていたことには俺も驚いていたが』と内心でひっそり呟きながら、浚明は青を纏う二人を観察する。


 その瞬間、不意に玲伯の視線が浚明へ飛んだ。


「で? こちらが例の?」


 柔和な笑みを浮かべたまま、玲伯は体ごと浚明へ向き直る。蒼鈴が己のことをどこまで玲伯に明かしたのか『例の』という言葉だけでは推しはかれなかった浚明は、ただ黙って玲伯に頭を下げるしかない。


 そんな浚明の代わりに、浅く頷いた蒼鈴が口を開いた。


「はい。わたくしの供として、後宮に招き入れてほしい方です」

「『仔細は一切問わずに、男を一人後宮に招き入れてくれ』なんてね。普通に考えれば、さすがに頷くわけにはいかないんだけども」


 玲伯の口から飛び出してきたとんでもない発言に、浚明は思わず顔を伏せたまま視線だけを蒼鈴に飛ばす。と言っても、顔を伏せたままの浚明にはせいぜい蒼鈴の腰元辺りまでしか視界には入っていない。それでも蒼鈴には『もっと何か穏やかな言い方がなかったのか!?』という浚明の内心が伝わっているはずだ。


 浚明からの視線を受けて、蒼鈴は軽く肩をすくめたようだった。その動きに従って、浚明の視線の先にある青揃えの装束の袂が微かに揺れる。


 だが蒼鈴が弁明のために口を開くよりも、玲伯が笑みを含んだ声で言葉を繋げる方がわずかに早い。


「まぁ、『未榻みとう蒼鈴』としての頼みって、念を押されちゃあねぇ?」


 その言葉に、浚明ははたと目を瞬かせた。


 ──そういえば。


 玲伯は蒼鈴のことを『華鈴』と呼んでいた。先程途切れた蒼鈴の言葉を踏まえて考えると『華鈴』というのが蒼鈴の本名なのだろう。


 ──玲伯様の言葉の印象を真に受けても良いならば。


 胡吊祇本家次期当主に、ろくな説明もなく無茶振りを押し通させるだけの力。確かに普段から親族として親しくしているのだろうが、先程の一言の中には権力抗争の気配も確かに感じた。


 未榻蒼鈴。


 宮廷書庫室の次代のおさの名は、浚明が把握している以上に強い権力を……より正確に言うならば、権力者達から見て美味しい力、あるいは敵に回したくない力を、持っているのかもしれない。


 そんな浚明の考えを肯定するかのように、玲伯はどこまでも軽やかに言葉を続けた。


「僕も『未榻蒼鈴』は敵に回したくない。戸部侍郎としても、未来の胡吊祇当主としてもね。そして胡吊祇玲伯個人としては、可愛い華鈴に嫌われたくはない」

「というわけで、今回は胡吊祇戸部侍郎にも協力していただくことにしました」


 一昨日、蒼鈴が言っていた『手回し』がこれだったのだろう。予想以上に強力な手札を切ってきた蒼鈴に、浚明は感謝の意を込めて一礼する。


 同時に蒼鈴が事態をそこまで重く見ているということを察し、スッと胃の腑に冷気が差し込んだような気がした。


「さて。のことは、何と呼べばいいかな?」


 その冷気に気を引き締めながら、浚明はようやく顔を上げて真正面から玲伯を見やった。


 浚明とほぼ同じ高さに並んだ玲伯の瞳は、その奥底まで柔和な笑みを浮かべていた。だがさらにその奥の奥、裏の裏で浚明を品定めしていることを、玲伯の瞳は隠していない。


 貴族の目だと、浚明は思う。


 ──名門・胡吊祇家の次期当主、か。


 切れ者であることは間違いないと、浚明はその瞳と、問いの内容から理解する。


 ──こちらが正体を明かす気がないことを、当然のこととして受け入れている、ということか。


 あるいは彼は、蒼鈴の言葉と、浚明と相対しているこのわずかな時間の中だけで、すでに浚明が何者であるのか当たりがついているのかもしれない。


「……灰煙はいえんと、お呼びください」


 本日限りの名前。


 後日別の場所で相見あいまみえても、その時の玲伯は今日の出会いをのだという言外の宣言に、浚明も必要最低限の言葉で答える。


 それだけで互いに認識のすり合わせはできたと受け取ったのか、玲伯は満足そうに、蒼鈴は常と変わらない無表情のままひとつ頷いた。


「さて、灰煙殿。さっそくのダメ出しで悪いんだが、ちょっと着替えてくれないかい?」

「え」


 だが次の瞬間、互いの思惑を秘めた緊張は玲伯の軽やかな声に打ち砕かれた。玲伯のこの発言は蒼鈴にも予想外だったのか、浚明と同じく蒼鈴も目を瞬かせながら玲伯を見上げる。


「後宮に男が潜入するなら宦官が鉄板ってのは否定しないんだけどね」


 そんな二人の前で腕を組んだ玲伯は、穏和な笑みを苦笑にすり替えると、なぜかフスーッと息をついた。


「今日の行き先と『君』であることを踏まえて考えると、ちょーっとその格好では足りないかな?」

「はぁ」

「……あっ!」


 何が足りないのか分からない浚明は気が抜けた声を上げるしかない。しかし蒼鈴は玲伯のその指摘だけで問題点に気付けたのだろう。浚明を振り返った蒼鈴の顔からは、かつてないほど分かりやすく血の気が引いていた。


 そんな蒼鈴の反応に、ジワリと浚明の顔からも血の気が引いていく。


 ──え? 何かそんなにマズい見落としがあったのか……!?


「大丈夫、僕に任せなって」


 訳が分からないまま顔色を失う浚明の意識をすくい上げたのは、変わることなく朗らかな玲伯の声だった。


 腕を解き、どこからともなく扇を取り出した玲伯は、指先で扇をもてあそびながらニヤーッと笑みを深める。


「この胡吊祇玲伯が助力を約束したんだ。変装術も含めて、完璧な手引を約束しようじゃあないか!」


 ──なぜだろうか、全く信用できない。


 玲伯の物言いに浚明は思わず蒼鈴へ視線を流す。


 浚明からの『信用して大丈夫なんだよな?』という視線での問いかけに、蒼鈴はサラリと視線を明後日に流したまま答えようとはしなかった。

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