身体が教えてくれる

新座遊

考える筋肉

人は考える葦である、と言ったのは誰だったか。

ちょっと思いつかないのでAIで検索したらパスカルということが分かった。

あらいぐまパスカル。

いや、なんでもない。


パスカルは幼少のころから天才ぶりを発揮していたと言われる。

まあ天才っぷりを見せ散らかすようなオッチョコチョイだったとも言えるだろう。

幼児になにを期待するのかって?

幼児だからこそ天才であることを他人にバレることになるってだけのことだ。

大人になってから天才に気付いたら、それなりに保身に走るだろう。

当然、目立たぬように大衆に紛れ込むに違いない。

だから今、大人のくせに天才だと思われているやつはおおむね幼児と同じメンタリティということになる。


それはともかく、人間は弱い。しかし考える葦なのだ、と言ったその意味は、天才であろうがなかろうが、考えるということの特異性をフィーチャーしていると理解できよう。考えることこそが人間の人間たる所以なのだ、と。


とすると、人の人たる所以は、頭、つまり脳みそにあるのか。ほかの身体パーツは単なる付属品なのか。


そこに反論するのが我が肉体、つまるところ腕や足の筋肉どもであった。筋肉は言った。

「脳みそというのは、我々筋肉が考えた結果をサマって時系列に並べる履歴でしかない」

俺は反論する。

「確かに、世界の状態を筋肉が解釈し、考えた結果を通知する。それはその通りだろう。意識が行動を移す0.5秒前には、すでに身体がその意識の思う方向に行動している、という実験結果もある。先に筋肉があり、後に脳みそがある。それは認めよう。しかし、意識という形で、事象を意味づけて、因果関係の整合性を取ってから記憶に残す、という俺の役割こそが、考える、ということの総体ではないのか」

「因果関係に捉われて世界の混沌を見過ごすことに特化した機能というわけだ」

「考えるということは、見たくないものを見ない、ということである。したがって俺が考えることの主体であることは明白だろう。筋肉が考えると考えるのは考えようによっては考えることの否定になる。あくまでも筋肉は、現実への反射作用に過ぎない」

「よろしい。では現実とは何か。客観的現実とは、物理現象に他ならない。そして物理現象と直接相対するのは、筋肉である。脳みそは我々からもらった情報のおこぼれを漁って、情報量の欠落した世界を現実と認識せざるを得ない哀れな子羊だ」

「見解の相違である。筋肉に言葉を発する機能がないことは火を見るより明らかだ。肉体言語だ?そんなものは言語ではない。脳みそが発する感情を具体化しただけであり、言語を操るのは脳みそなのだから」

「そこまで言うなら筋肉の力を見せてやる。お前に血液を送っているのは誰だと思う。心臓だ。そして心臓は筋肉である」


俺は心筋梗塞で、意識を失った。


なんだこの話?脳みそではなく、手が勝手にキーボードを叩いた結果である。

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身体が教えてくれる 新座遊 @niiza

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