本当に思うこと。
増田朋美
本当に思うこと。
暖かく、ちょっとばかり暑いなあと思われる日であった。なんだか本当に春本番という感じで、いきなり暑くなってしまったなという感じの日だったけれど、丁度いいという日が、これからはなくなって行くのかなと思われるのかもしれなかった。急に暖かくなって、もう暑くなって、いつまでもそれが続いていくのかなと思われる日であった。
その日は、特に用事もなく、製鉄所では、静かに一日が終わるのかなと思ったら、午後のある時間、いきなり製鉄所の引き戸が開いた。
「はい、どんな御用でしょうか?」
製鉄所を管理しているジョチさんこと、曾我正輝さんが、玄関先に向かってそう言うと、
「ほら、お母さん、ここですよ。ここなら、一日過ごしてもいいと言うことですから、ここでのんびりと過ごしてください。」
と、若い女性の声が聞こえてきた。一体どういうことだろうかと思っていたら、一人の高齢の女性が、若い女性に手を引っ張られてやってきたのである。大体の利用者は、親が連れてくることが多いのであるが、今回はその真逆である。そのような例は、なかなか見られないものである。
「一体どうしたの?」
と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「あの、ここで人を預かってくれるそうですね。それでは、母を一日預かってください。利用料はちゃんと払いますから。よろしくおねがいします。」
と、若い女性はそういった。
「つまり、姥捨て山みたいな気持ちでここに来たわけね。」
杉ちゃんがそう返すと、
「捨てるというわけでは無いのですが、私自身も、娘が受験ということもあり、母のことは見てあげられないので、こちらで預かってください。」
と、女性は言った。
「はあ。そうかいなあ。僕としては、娘さんがすごい勉強しようというチャンスを、奪おうとしているだけだと思うんですけどね。」
杉ちゃんはそう言うが、娘さんは、無理やり女性を製鉄所の中に入れた。
「そうですけれども、こちらは老人ホームとか、デイサービスとか、そういうところとは違います。まず、事情をはなして頂いて、なぜ、見ていただけないのか、ちゃんと理由を聞かせて頂きたいです。」
ジョチさんが、製鉄所の管理者らしく、そういった。そして、とりあえずお入りくださいと言って、娘さんと女性を部屋の中へ招き入れた。ジョチさんが、まずはそちらにどうぞと言って、応接室の椅子に二人を座らせると、杉ちゃんが、二人にお茶を渡した。
「それでは、お母様をこちらに連れてきた理由を話してください。」
「そうそう。はじめから頼むよ、そして、終わりまで聞かせてもらうんだぜ。よろしく頼む。」
ジョチさんと杉ちゃんが相次いでそう言うと、娘さんは、こういうのであった。
「ええ、一ヶ月ほど前に、転倒して腰を骨折しまして、そのまま何もする気がしなくなってしまったようで、いつも疲れたとか、辛いとかそういうので、連れてきました。そればかり言って、何もしてくださらないものですから。私の娘も、今年受験を控えてますし、よく衝突が続きますので、それでは、もうここに連れてきたほうが、いいのではないかと思ったんです。」
「つまり、圧迫骨折とか、そういうものですかね?」
ジョチさんがそう言うと、娘さんははいと即答した。
「まあ確かに、そういう事はよくあることなんですけどね。それなら、デイサービスとか、そういうところに行くことはできなかったんでしょうか?」
と、ジョチさんがそう言うと、
「いえ、全くできませんでした。認知症の検査もやらせましたが、それについてはちゃんと正解していて、全く問題ありませんでした。なので、デイサービスとか、そういうものは利用できないんです!」
娘さんは、怒りを込めてそういった。
「そうですか。確かに、認知症とかそういうものでなければ、福祉サービスは利用できません。」
ジョチさんが、現実的にそう言うと、
「先程もいいました通り、娘が今年受験を控えているので、私はなるべくの間、娘に接していたいんです。それなのに、老人介護も強いられるんじゃ、私、困りますよ、ですから、こちらで預かっていただきたくて、お願いに来たんです。それはいけませんか?」
と、娘さんは言った。
「しかしですが、こちらは、居場所の無い人たちが、勉強や仕事をするために貸出している施設でして、高齢の方を預かるデイサービスのような事はしていません。」
ジョチさんがそう言うと、娘さんは、すぐに落胆の表情を浮かべた。
「まあ、とりあえず預かってやれば。きっとこちらの女性だって、若いやつと話せば、面白くなるかもしれないじゃないか。僕らは、居場所を提供するのが仕事でもあるんだし。高齢の人だけ預からないってのは、ある意味では、人種差別にもなるぜ。」
と、杉ちゃんがジョチさんに言った。ジョチさんは、そうですねと少し考えた表情をして、
「わかりました。じゃあ、お母様をこちらでお預かりしますが、必ず、この施設にご自身で連れてきてくださいね。」
と、言った。
「ありがとうございます!よかった、これでやっと娘のそばにいられます。本当にありがとうございます。」
娘さんがそうなってしまうのも、今の御時世では無理もないと、思われることもあった。まあ、いずれにしても、製鉄所を利用させてもらうのは、ある意味では縁の問題でもあった。縁があって、皆製鉄所にやってくる。それに年齢も何も関係ないのかもしれない。
「それでは、こちらの利用者名簿に、ご自身の名前と、住所を書いてもらえますかね?」
と、ジョチさんが言って、女性にペンと利用者名簿を渡すと、
「はい。」
と言って女性は、丁寧な字で、入船常子と書いた。
「わかりました。入船常子さんですね、お住まいは、静岡市ですか。随分遠くから来られたものですね。そうなると、よりこちらの需要が高いこともわかりますよ。それでは、僕達も責任を持って、お預かりしなければなりませんね。」
ジョチさんがそう言うと、女性は、力のない顔で、
「よろしくおねがいします。」
と、杉ちゃんとジョチさんに頭を下げた。
「それでは、お母さん、ここで大人しくしててよ。くれぐれも、ここでなにか迷惑をかけないでね。それでは私、忙しいから帰るけど、五時にはちゃんと迎えに来るから。よろしくね。」
娘さんはそう言って、気ぜわしくカバンを持って、製鉄所を出ていってしまった。きっと受験を控えている娘さんのところに帰るのだろう。それは、それで母親であればそうなってしまうのかもしれないのだった。それは、自分だって同じことをされたのではないかと、思われるのであるが、大体の人は、それに感謝する気持ちがわかないのだった。
部屋の中には、その入船常子さんだけが残った。杉ちゃんもジョチさんも彼女を観察する。確かに、小柄なおばあさんで、背骨は曲がっていなかったが、ひどい鬱になってしまっているのだなと言うことは、見ればわかる。流石に、こうなってしまうと、お年を聞くのは悪いかなと杉ちゃんもジョチさんも思った。
「とりあえず、おやつでも食べてもらいましょうか。まずはじめに、なにか食べてもらうことが大事なことですからね。」
と、ジョチさんが言うと、杉ちゃんはじゃあ、おやつを作って来るよと言って、台所に向かっていった。常子さんは、自分のつらい気持ちに囚われてしまったらしく、つらそうな顔でずっと黙っていた。
「ああ、気にしないでいいんです。おやつを食べてもらうのは、恒例行事ですから。それに、杉ちゃんという人は、先程の車椅子の男性ですが、彼は、料理に対しては天才なんです。」
ジョチさんが苦笑いしてそう言うと、常子さんは、そうですかとしか言わなかった。数分間黙っていたが、杉ちゃんが、
「おやつができたよ。食べに来てくれ。」
と言ったので、ジョチさんは彼女に食堂へ行ってもらうように言った。背骨を圧迫骨折したと娘さんが言っていたが、ちゃんと二本の足で歩いてくれている。ジョチさんは、とりあえず、食堂へ彼女を連れていき、こちらへどうぞとテーブルに座らせた。ちなみに、製鉄所では、希望すればお昼を食べさせてもらえるが、それは杉ちゃんが作ることになっている。もちろん、コンビニで弁当を買って来ることもしてもいいことになっている。
「はい、おやつができましたよ。ちょっとご高齢な方向けに、くず餅を作ったよ。」
杉ちゃんは、彼女の前にお皿に乗ったくず餅を渡した。
「はいどうぞ。遠慮なく食べてくれや。」
常子さんは、杉ちゃんから箸を受け取って、恐る恐るそのくず餅を食べた。
「お味はいかがですかねえ。ありあわせで出したけど、ごめんねえ。」
杉ちゃんに言われて常子さんは、思わず涙を流してしまった。
「そんな泣き方では、場が白けてしまうぞ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「すみません、こんなふうに優しくしてもらったことなかったから、本当に、感激してしまって。このくず餅はとても美味しいです。」
と、泣き泣き答える常子さん。ジョチさんは彼女の泣き方を見て、日本の高齢者を支える福祉は、まだ十分に機能していないと思ったのだった。
「新しい人がはいってきたんですか?」
不意に、水穂さんが食堂にやってきた。常子さんは、水穂さんの顔を見て、思わず泣くのを止めてしまった。それほど、水穂さんは、美しいと言うことだと思う。
「ええ、こちらのおばあさんで、入船常子さんという方です。なんでも鬱になって大変な思いをしているようですよ。」
と、ジョチさんがそう紹介すると、
「そうですか。わかりました。僕は、こちらで間借りをしています、磯野水穂です。宜しくどうぞ。」
水穂さんもそう自己紹介した。
「何処かで見たことあるような顔。」
常子さんはそういうのであるが、水穂さんは、彼女の事は思い出せなかったようだ。返事の代わりに水穂さんは咳をした。ジョチさんが、布団にはいって休んだらというと、すみませんと言って、水穂さんは布団に戻ってしまった。それを、常子さんは、自分より不幸な人がいた、という顔で眺めていた。
「彼のことを、なにかご存知あるんですか?」
ジョチさんがそうきくと、
「はい。あまりはっきりしていないかもしれませんが、何処かの俳優さんみたいで、すごいきれいな顔だったから。」
と、常子さんは答えた。
「あんなきれいな顔をした人が、ここにいて、しかも、大変そうな感じなので、私は、ここに来る楽しみができましたよ。」
「そうなんだ。そういうことなら、水穂さんの世話をしてもらおうか。どうせ、女中さんを雇っても、いつも水穂さんに皆音をあげて辞めちゃう辛さ。お前さん、腰を折ったそうだけど、そこさえ気をつければ大丈夫だろう?それなら、ぜひ、水穂さんにご飯を食べさせるの。手伝ってくれよ。」
杉ちゃんが、彼女の話にすぐそういった。
「そうだよ。それがいい。利用者さんに手伝ってもらうことがあるが、お前さんに手伝ってもらうほうが、多分経験もあるだろうし、できるんじゃないのかな。」
「そうですね。」
ジョチさんは、杉ちゃんの話に苦笑いした。
「少々強引かもしれませんが、こういう仕事があったほうが、良いのかもしれません。」
「じゃあ、もうすぐおかゆ作るから、お前さんも手伝ってくれ。」
杉ちゃんに言われて、常子さんは、やっと涙を止めてくれて、うなずいてくれた。
それからしばらくして。
常子さんの家では、嫌な予感が増大しつつあった。本当であれば、常子さんを家から出すという魂胆で、常子さんを製鉄所に預けたのである。ところが、常子さんは、日増しに元気になってきて、よく食べて、歌まで歌っているようになったのである。
ある日、常子さんが、久しぶりに外出用のバックを持ってきたので、娘さんは思わず、
「お母さん一体何処に?」
と言ってしまったのであるが、
「ええ、着物を買いに行くのよ。なんでも、すぐに着られて、1000円程度で買えるところがあるんですって。あの施設の人たちは、着物を着ている人が多いから、私も着てみようかなって、思ったのよ。」
と、常子さんは嬉しそうに答えた。
「着物って、お母さん着付け教室に行ったこともないのに。」
娘さんがそう言うと、
「ええ。それが、施設の人に教えてもらったのだけど、意外に簡単にできてしまうものなのよね。大丈夫よ。やすいものだから、タンスの肥やしにもなりにくいし、いろんなところにでかけてみたいわ。施設の利用者さんたちで、美術館にいったりすることもあるそうで、私もそれに参加させてもらおうかと思っているところよ。」
常子さんはにこやかに笑ってそういうことをいい出したので、娘さんは更にびっくりする。娘さんの夫は、お母さん居場所が見つかったみたいだね。これはいいぞなんてのんびりしたセリフを言っているので、娘さんは余計に心配になってしまった。もしかして何処かで転倒して、また怪我でもされたら困るのではないかと思うのだが。
「じゃあ、お母さん行ってくるから、宜しくね。あの施設は、富士駅からバスも出ていて、本数も多いから意外に行けるのよ。」
常子さんは、そう言って、どんどん外へ出ていってしまった。娘さんは、不安になり、張り切ってでかけていく母を見送った。
その日、常子さんは、かなり遅くなってから帰ってきた。仕事から帰ってきた娘さんと、ちょうど鉢合わせになった。常子さんは、大きな紙袋を持っている。何を買ってきたのかと聞くと、常子さんは、着物に必要なものを全部揃えることができたといった。娘さんは何十万も使ったのかとびっくりして言ったが、
「大丈夫大丈夫。一万円もしなかったわ。着物は1000円で、帯は500円だったのよ。それに帯結びは、作り帯を作れば、何も心配いらないって、お店の人が言ったのよ。だから、着物の着方さえマスターしていれば、簡単に着られるものなのよね。それに、私が若い頃は、おばあちゃんとか、着物を着ていたからね。なんか懐かしい気持ちもして、買ってみたわ。」
と、常子さんは言った。
「そうだけど、一体どんなのを買ってきたのよ。」
娘さんがそう言うと、常子さんは、着物を紙袋から出した。白地に赤い梅の花を全体的に入れた、かわいい小紋の着物だった。本当に1000円なのか、わからなくなってしまうほどの着物だった。
「そうなんだ。お母さんに果たして似合うのかな。」
娘さんは歓迎しないように言ったが、常子さんはとてもうれしそうだった。
「それから、私、明日、施設の人たちと県立美術館に行くから。なんでも、能面展をやっているんですって。若い頃、そういえば能も見に行ってたわ。それももしかしたら、もう一度見に行けるかもしれない。前向きになれることがこんなに素敵だとは思わなかったわ。私、そういうことができるようになったの、感謝しなくちゃね、神様に。」
「お母さん、そんなに前向きになっても、大して日常は変わらないわよ。」
娘さんはぶっきらぼうに言ったが、常子さんはとても楽しそうだ。娘さんは、なんだか、母が、鬱を治してこの家に留まってくれるだけで良かったと思ったのであるが、まさかそれ以上に展示会へ出かけるようになるとなると、また不安になってしまうのだった。常子さんのような年代は、着物を買うのに抵抗はないのかもしれないが、なんだかそれも不安であった。
常子さんは、着物を畳んで、部屋に戻っていってしまった。娘さんの夫は、鬱が治ってきたみたいで良かったなと言っているが、娘さんは、逆に心配事が増えてしまったと思った。
その翌日、常子さんは、昨日買った小紋を、しっかり着付けて、帯も作り帯を結んで、にこやかな顔で家を出ていった。娘さんは、母がそんなことをしてまた危なっかしいので、心配でしょうがなかった。受験生が、お母さんどうしたんだよと言ってきても、何処か上の空で答えてしまったのである。
数時間立って、常子さんは、着物を着て、嬉しそうに戻ってきた。美術館のお土産だと言って、娘さんに、メガネケースと、ハンカチをくれた。こんなものを買ってくれるなんて、やっぱりお母さんなんだなと思ってしまうほど、常子さんは、元気になってきた。娘さんは、なんだか非常に不安すぎて、それを受け取っても使おうと思うことはできなかった。娘さんの夫は、常子さんからハンカチをもらってとてもうれしそうにしているけれど、娘さんは、どうしても納得できなかった。施設の人たちが、一生懸命勉強しようという気持ちがあり、学校や、会社などで弾かれても、一生懸命勉強しようとしているところが、より良い時代に戻れたようで、嬉しいと常子さんは言ってくれるのであるが、娘さんにしては、不安で大変だという気がした。
「そうなんだ。古き良き時代に帰れたようで、嬉しいというけど、本当は、今の時代を受け入れなければ行けないから、根本的な問題は解決してはいないのよ、お母さん。」
娘さんは、そう言うが、娘さんの夫が、まあいいじゃないかと言って止めてしまった。
「お母さんだって、何処か行きたくなったり、おしゃれをしたくなったりするものさ。良かったじゃないか。それは、健康を取り戻してくれた証拠だよ。」
「そうだけど。」
と、娘さんはぶっきらぼうに言う。
「お母さんが元気になってきたら、あたしたちの生活が困るじゃないの。」
夫は答えなかった。
娘さんは、不安なかおをして、ノロノロとテーブルに座った。夫が、あんまり考えすぎてしまうと、お母さんみたいに、なってしまうぞといった。娘さんは、そうねえと小さな声で言ったのであるが、まだ不安が取れなかった。女というものは、なんだか不安を感じるのは敏感になってしまうようなものである。男の人は、そうは思わないようで、あまり、小さなことにとらわれず、のんびりやっているようであるが、女性はそうはいかないのだった。娘さんは、鼻歌を歌って、着物を整理している母を見て、自分はどうなってしまうのだろうと思って、大きなため息をついた。
新しいことが始まる春の季節だった。春というと、なにか新しいことを始めたくなる。そんな季節だった。
本当に思うこと。 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます