影女
白河夜船
影女
へえ、はあ。警察の方が
聞き取り調査?
………ああ、××町の。行方不明の少年について、でありますか。それなら少し、心当たりのようなものがございます。
いえ。関りがあるとはハッキリ申せません。なにぶん暗い夜のことでしたから。相手の顔もほとんど見えなかったのです。私が見たのは、ぼんやりした影だけで……それでも構わないなら、お話します。
あれは一月ほど前のことでした。
その晩、なかなか寝つけなかった私は、気晴らしがてら、夜の散歩に出たのであります。
雲が厚く、一際闇の深い夜でした。しばらく当てもなく歩いていると、ぽつ、と頬に冷たい感触がありまして。雨かなと思った時にはもう、本降りになっておりました。
近所をぶらつくだけのつもりでしたので、当然傘など持っていません。
帰ろうと焦ったものの、雨と夜闇で視界が狭く、そのせいでしょうか、いつの間にか見知らぬ町に迷い込んでしまったような、奇妙な感覚に囚われました。住み慣れた土地であるはずなのに、まったくおかしなものですね。どこをどう歩けば家に帰れるか、その時は、まるで分からなくなっていたのです。
仕方なく、近くにあった商家に身を寄せて、軒下で雨が止むのを待ちました。雨さえ止めば、幾らか見通しが良くなって、歩いて帰れるようになるだろう。そう期待したのですけれど、雨はなかなか止む兆しを見せません。
いっそ濡れながらでも、帰り道を探そうか。などと考えかけていた時でした。
「降りますね」
隣から、不意に若い男の声がしました。
驚いて振り向くと、私から二、三歩ほど離れた位置に、すらりとした細身の人影が立っています。暗くて顔は見えませなんだが、声と立ち姿の具合から、青年、あるいは大人になりかけたくらいの少年ではないかと思われました。
名前……それは、聞いておりません。
雨宿り場所が同じだったというだけの、行きずりの相手でしたから。踏み込んだことはさすがに。
代わりにお互い暇を持て余していたこともあり、あれこれ色々な話はしました。ええ。つまらぬ世間話ではありますが――――、それも、相手の聞き方がうまかったのか、思い返せば、私ばかり一方的に話していました。
だから、彼自身のことについてはほとんど、私は聞いていないのです。だけれど、ただ、何となく、家に帰れない……というよりも帰るつもりのない子ではないかと察しはつきました。
行くあてや帰る場所のある人間というのは普通、無意識でも家のことを気にしたり、時間を意識したりするものでしょう? 彼にはそれがちっともなかったんです。
ただそこにいて、することがないから私と言葉を交わしている、という雰囲気で……まあ、これは根拠のない、私の体感なんですが。
ああ、それで、彼と会ってどれほど時間が経った頃でしょう。
空にピカリと雷光が閃いて、一瞬、ほんの一瞬でしたが、辺りが明るくなったのです。逆光で、少年の顔はやはり分かりませんでしたけど、その時、私は彼の後ろに思いがけないものを見ました。
女……、いえ、少女です。少女らしい人影が、彼の背に隠れるように縋りついておりました。
「その子は?」
さすがにぎょっとして尋ねましたが、彼は「妹です」と答えたきり、どうしてだか何も言いません。表情も見えませんので半ば想像にはなりますが、どうやら狼狽えている風でした。
「その子がいると、どうして今まで黙ってたんです」
重ねて訊いても、彼は沈黙しています。
しばらくして、ようやく「妹は」と何の脈絡も感じられない話をぽつり、ぽつりと話し出しました。
「僕を好いているんです。
兄妹として、というのもあるんですけど、それだけでなく……僕としても妹を嫌いな訳じゃないから、だんだんと自分の気持ちが分からなくなってしまって…………。
でも、駄目でしょう。兄妹でそんな。だから、駄目だと言ったんです。
そしたら、あいつ、随分思い詰めてたようで、あれ以来ずっと、こんな具合で」
誰に何を言っているとも知れない、独り言みたいな話し方でした。
訳が分からず、反応に困ったのですけれど、言葉の端々から尋常でない様子だというのは感じ取れましたので、気の利いた返事も思いつけず、私はただ呆然と黙っていました。彼は構わず言葉を続けます。
「夏祭りの夜でした。友達と遊びに出た妹を、母に言われて、僕、迎えに行ったんです。
待ち合わせ場所で合流して、二人で夜道を歩いていたら、途中で懐中電灯が壊れてしまって、外灯もない道だったので、辺りが真っ暗になりました。はぐれないよう仕方なく手を繋いだんですけれど、指が…妹の指が僕の手に、そろそろと絡められまして、
ああ、
と吐息のような嘆きのような、細い声が闇の中から聞こえてきました。
それで、僕、何だか、悲しい、苦しい、堪らない気持ちになってしまって………、つい、隣にいるのが妹だっていうのを忘れて、手を握り返してしまったんです。
その晩だけ、それだけです。それ以上のことは何にもありませんでした。でも妹は、忘れられなかったのでしょう。だから、今も、こんな風に」
少年はそれきり俯いて、泣き笑いのような声で何やらぶつぶつ呟きました。
「本気で突き放せなかったのが悪いんです。心のどこかで受け入れたのが悪いんです。中途半端な扱いをして、上手に諦めさせてやれなかった。それが余計、辛かったに違いありません。僕はなんて馬鹿な……」
叱責も、同情も、彼は求めていませんでした。ただ、教会の告解部屋でするように、心の奥に凝った思いを吐き出したかっただけではないかと思います。それが分かりましたので、私も変に口を挟むような野暮はしませんでした。
彼はまだしばらく何事か呟いていましたが、途中からはもう、何を言っていたのだか……。彼の声はどんどん口に含むように小さくなって、雨音に紛れてしまったのです。
私はすっかりぼーっとなって、雨が降りしきる外を眺めていました。
何だか大変な話を聞いた気がするけれど、相手も分からぬ夜の出来事。連続的に響く雨音も相まって、どうにも夢の中にいるような、不思議な気分になっていました。ひょっとすると私はいつの間にか布団で眠ってて、散歩に出たのも彼の話を聞いたのも、本当は全て夢ではないかしらん。そう怪訝に思っていますと、少年が不意に
「貴方は」
正気に戻ったらしい、はっきりした声で私に呼び掛けました。
「まだ、帰らなくていいのですか」
「え―――、そりゃあ、帰りたいですけど、雨が」
「遣らずの雨というやつです。ここにいたって止みやしません。帰るつもりなら、走って帰った方がいい」
やらずのあめ、という言葉の意味は知りません。ただ、その時は不吉な言葉のように感じられ、あそこにいることがひどく不安になりました。ですからちょっと狼狽えて、道が分からない旨を彼に伝えると、それならと国道までの道を教えくれたんです。
「曲がり角をとにかく右に進んでください。それで知ってる場所に出られる筈です」
左へ行っては駄目ですよ。
彼は何度も念押して、さあ、と私の背中を押しました。雨はしつこく降り続けていましたが、じっとしているのにも耐えられませんで、私は意を決して軒の外へ踏み出しました。
ええ、もちろん言われた通り右の道へ行きましたとも。
途中、彼はどうするのだろうと気になって振り向きますと、妹らしい少女と彼の影が仲睦まじく抱き合っているのが見えまして。それですっかり焦ってしまって、今度こそ振り返らずに、私は右へ右へと闇色の路地を駆け抜けたのです。
息も絶え絶えでふと気がつくと、私はそこの商店街の傍にある国道の交差点に立っていました。そりゃあもうびしょ濡れで……それでも空が晴れていて、薄っすらと明るみかけているのを見るにつけ、ああ、帰ってこれたのだと身体の力がスゥっと抜けて………そっから先は、どうやって家に戻ったんだか覚えていません。
意識がはっきりした時には、寝室の布団に押し込められて、呆れ顔の女房から見下ろされておりました。
「だから夜の散歩など、よしなさいと言ったのに………」
ですって、ハハ………女房の言葉にゃ従うもんですな。
と、まあ、話はこんなところです。
あれ。どうしたんです、変な顔して。
事件に関係あるかないか分からない?
そりゃそうでしょう、私自身、不鮮明な話だというのは重々承知で――――え、違う?
秘密の話………ハイ、ハイ、分かりました…………
少年の妹は、三月も前に亡くなっている?
なら私のは、無関係の話だったんじゃないですか?
そうとも思えない、フム………書置きがあったのですね………妹の自殺についての謝罪………後追いの可能性……………
なら、あの晩見た影は………………?
影女 白河夜船 @sirakawayohune
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