32.葬式ー教祖
「ほら、立てるかな、ゆっくりでいいから、俺に体重をかけて」
和絃が白くて細い手を差し伸べてくる。
太輝は和絃に応えず、「睦実さん」と違う男に注意を向けた。
「ダイちゃん」
厳しい声で自分の名を呼ばれた。その声に身体が冷たく凍ってしまう。頭に浮かんだ睦美の顔も消えていく。涙が溢れないようにどうにか目玉だけを動かした。和絃は口角をヒクヒクと震えさせている。いつもの穏やかな笑みが崩れていた。
視界の端にいる睦美は呆然とした様子で、正面の遺影を見つめている。大輝は器用に二人を交互に見やりながら、目を瞬かせる。そんな太輝を見上げていた和絃の笑みが硬直していく。太輝は急激に涙が引いていく。
「和絃、どこに、どこの部屋に行くの」
「足を伸ばして休憩できるところだよ、ダイちゃんはそこで待機していようね、ちょうどそこで話したいことがあるんだ」
今まで我慢してきた。この十年間、『白庭』の犠牲となってきたつもりだ。大輝は特別待遇を受けており、毎月の集まりには参加せず、月に一度だけ綿貫と面会をする。診察中に綿貫の命令で裸になったこともある。信者の前に患者でもある大輝に、綿貫は性的虐待を与えていた。太輝はそんな男の子供である和絃に恋をしていた。
「行きたくない」
太輝はせり上がる吐き気と共に両目から涙がにじむ。
「どうして?」
和絃は瞬きすらせず、大輝を一心に見上げていた。大輝が抵抗するとき、和絃は決まって冷たい顔で目を細めてのぞき込んでくる。綿貫が太輝を丸め込もうとする時と似ている。睦美の怒り方もだ。彼らは綿貫の家族だから、と一括りで済まされる話ではない。この兄弟は、綿貫とどこまでも瓜二つだった。
「和絃、僕は家に帰りたい、独りになりたい」
「疲れたよね、ごめんね」
何回謝るのだ。まるで和絃自身が、いくら謝れば大輝が絆されるのかと試しているようにさえ思える。その謝罪は本心か、それとも方便か。
「何で謝ってるの、それでどうなるんだよ」
「ダイちゃん」
「みんな、おかしいよ」
次の展開を会場にいる者が固唾を呑んで見守っている。張りつめた周囲の空気に、大輝独りだけが気圧されていた。
「お騒がせして、申し訳ありません」
何事かと現れた和絃の母、綿貫京子の姿に、大輝は歯を食いしばりながら背を正した。参列者が途切れたようだ。京子と対面するのは、この時が初めてだった。綿貫の正妻で、教団幹部の一人のようだ。京子は口数の少ない秘書という印象だった。
「ご挨拶するのは初めてですね」
大輝に向けて京子は恭しく頭を下げてくる。綿貫の前妻の子である睦美の肩に手をやり、軽くあやすように叩いた。しわのある小さな手が、睦美の背を支える。和絃に似て作り物みたいな美しい人だった。
「このたびは、和絃と睦美がお世話になっております。どうか何卒、これからも、この子たちをよろしくお願いします」
京子が床のカーペットに膝をつき、大輝につむじを見せた。頭を上げた京子は、まるで上の者にひれ伏すかのような敬愛に満ちたまなざしを送ってくる。
壁に背を預けていた太輝は、ただただ叫び出したいくらいに恐怖した。
「あの子、あの方だわ、次の教祖様はあの方だわ」
綿貫の人間が、一人の少年の足下に手をつき、伺いを立てる。異質な光景を眺めていた信者たちの声が、部屋中に色めき立つ。
「ひぃ」
わらわらと大輝めがけて、信者らしき集団が集まってくる。
「教祖様」
大輝に向けて、手を合わせる者も現れた。狂っている、教祖の死を嘆く時間なのに、彼らは揃って綿貫に背を向けていた。
「なんと言うことだ、教祖様が、涙を」
部外者も含むであろう。参列者も興味深げにこちらを見ている。
「ダイちゃん、部屋に行こうね」
大輝は大きく頷き、差し出された和絃の手を取った。
「この方を、しばしお借りしますね」
和絃はまるで異国の王子様みたいに、外国式のお辞儀をする。和絃はうっとりと笑みを深くする。
大輝は奥歯を震わせて、されるがままであった。両親の生き甲斐を作るにしても、大輝一人だけが担うには限度を超えていた。
「ほら、ダイちゃん、行こう」
無数の眼が、大輝を注視する。異様な熱気に気圧されてしまう、と大輝はつないだ和絃の手を強く握り返す。
「うん」
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