27.最後の審判-憤怒
「さあ、先生がお待ちです」
後藤は言った。大輝は頷いた。
「失礼します」
大輝は診療室の扉を背にして、そっと閉じる。
「こんにちは大輝くん、今日は寒いね」
綿貫は気持ちよさそうに笑う。大輝の沈み込んだ気持ちも他人事なのだろう。綿貫は精神科医としての職務を放棄している。
「急にお願いして、申し訳ありません」
綿貫に感づかれないよう、背後に手を回して鍵をしめた。冬なのに、服の下は汗が滲んでいた。息を整えて背を正した。自分を脅かす元凶と向き合う。
「まぁ、座りなさい」
薄いオレンジ色の室内灯に照らされた、クリーム色の二人がけソファが、妙に汚らわしく映った。数多くの信者がそこに座り、綿貫に救いを求めた。綿貫の仕事が、悩める人の救済だと分かっていても、自分もその一人にならなくてはいけない。弱い自分に対してはらわたが煮えかえる。
それでも、両親を含めて、家族のように接してくれる綿貫の顔も知っている。だからこそ、余計に大輝の信念が揺さぶる。どうせ何も変わらない。自分は綿貫から能力を授かっていても、それを誰かに押しつけられるほど要領が良くない。
「はい」
だから大輝は、対面式に置かれたソファに力なく腰を下ろす。身体を正面に向かわせて、互いの反応を待っていた。部屋の外から和絃の声がした気がする。
「おや」
綿貫がカップをテーブルに置く。垂れ下がったまぶたをピクピクとさせてこちらを見る。次の瞬間、大輝の全身が粟立つ。心臓がすくみ上がり、吐き気が襲う。とっさに不快感で身を支配されないよう、喉に力を入れて息を止めた。
「外が騒がしいな、もしかして君の友達かな、大輝くんは人気者だね」
由比は失敗した。大輝が何も報せていないからだ。由比なら和絃と睦美を聖域に侵入させないよう、手筈を整える能がある。そう大輝は勝手に期待を託して、独りで失望する。そもそもなぜ、太輝の友人だと綿貫は言い当てたのだ。
「私に太輝くんの友達を紹介してくれないか」
綿貫は一瞬だけ大輝の背後に視線を移動させた。顔の周りにたかるハエを目視しては、害がないと黙殺するみたいに、太輝の顔に戻した。大輝は小さく頭を下ろす。「貴方の息子たちです」そう言えたら何か変わるだろうか。どうせ綿貫は何だって知っている。そう思うと自分がとても無力に感じた。
「うるさくて、すみません」
診療室前の廊下から、和絃が大声をぶつけてくる。和絃は何を訴えて、大輝の行動を止めたいのか。大輝が今いる懺悔室は防音壁だ。廊下から物音が聞こえてくるなんて普段ではあり得ない。
「ここは防音室だよ、あの声量は凄いな」
綿貫の声が弾む。大輝は視線を今一度、綿貫に移す。
「警護の者は来ないから安心してくれ、君のお母さまにも伝えてあるから」
綿貫は口角を上げた。太輝は前歯をカチカチと合わした。
「なに、を」
事態を読み込めない大輝がさも滑稽なのか、綿貫は眉を上げてしわを深くする。
「あの子たちが来るって知っていたよ、あの子たちは招かざる客だ。私たちにとってはユダでしょうかね、この時をなんと例えようか」
心底今の状況が愉快でたまらない、とでも言いたげに相貌を輝かせている。
「そうだ、破壊だよ、君とは縁のない感情、全てを憎み、壊して塗り替えてしまう、ドス黒い負の感情だよ」
怖かった。眼窩を意識してしまうほど大きく目を見開き、大輝は悲鳴を上げないよう口を手で覆う。
「あの声は和絃かな。ああ、睦美もいるのか、珍しい組み合わせだな」
和絃と睦美がいる、と綿貫は言った。自分の子供相手に向ける感情ではない、冷ややかな言い方だった。
「二時間前にね、連絡が入ったんだよ、和絃から」
綿貫を父と呼ぶ、和絃と睦美を疑わなかった。どこかで既視感のある薄い琥珀色の瞳、美しい相貌を彩る繊細な心が、あの綿貫と同じ血が通う家族だったなんて。悪い冗談として大輝は笑い返さなかった、意識すればするほど彼らが、綿貫とあまりに似ていたからだ。彼らが綿貫の子供なら、夢の話も納得だ。
太輝は下唇を甘噛みし、口元から汗で湿る手を放した。
「そうですよ、ちょうど和絃と睦美が一緒に来てるんです、まさか、先生の子供だったとは」
「ああ、伝えていなかったか、すまないね。いつも私の子供たちが迷惑を掛けているようで、話だけは耳にしているよ」
昨夜は、大輝の機嫌が底にめり込み、目に見えない陰気さが頭をもたげていた。それが今や、綿貫を極悪人と定義づけて、無理矢理にでも鋳型にはめ込もうとしている。毎夜、見たくもない和絃たちの夢を見て蓄積した、不気味な嫌悪感の行き所を綿貫にぶつけたくてしようがない。そうしなければ、大輝が自分の首を絞め続けて、窒息死してしまうからだ。
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